ざわり。
風が揺れた。
「楓牙」
式神の名を呼ぶと、瞬時に自室のすぐ外に気配が現れた。
「何があったの?風が・・・騒いでる」
それに、邸にあった神将たちの気配が遠くなっている。
「彰子姫が異邦の妖異どもに攫われた模様。神将の何人かが後を追っています」
「っ彰子様が!?そんな、どうして」
おじい様の結界内にいる彼女を、そう簡単に攫えるはずがない。
万が一、結界が破られたとしても、おじい様が気づかないはず―――
「・・・いいえ、考えるのは後ね。楓牙も追って。風で辿れるわね?」
「聞けませぬ。今、主様のおそばを離れるわけにはいきませぬ」
「楓牙」
「こればかりは」
一歩も引かない楓牙に理紗は顔をしかめた。
しかし、今は言い争ってる場合ではない。
「・・・いいわ。なら楓牙、道を。宵藍が導を連れてくれているの」
「御意」
理紗は口の中で言葉を紡いだ。
ふわり、ふわり。
今まで折り溜めていた鶴が、一つ、また一つと浮かび上がる。
ふわり、ふわり。
袂から取り出した扇であおぐ。
ふわり、ふわり。
「行きなさい」
白檀を纏った鶴たちは、薄く開いた戸から不可視の風の道に乗って、夜の闇へ飛んでいった。
****
貴船の本宮を目指して、昌浩は息を切らせながら疾走していた。全身が、鈍く痛んで苛んでくる。気が緩んだら膝が砕けてしまいそうな気すらしていた。
すぐ後ろには、隠形した紅蓮が控えている。
妖気が濃く、重くなっていく。呼吸すら苦しい。
瘴気の強さに呼応して、全身が痛む。
ちらりと、本宮の門が見えた。そして、その前に群がる妖異の肉の壁と、対峙しているいくつかの人影。漂うのは神気。あれは、十二神将だ。
本宮の前にたどり着いた昌浩は、神将たちを見つめた。
ふと、鼻孔を掠めた香りに顔を向けると、一番端に、見知った顔がある。
「・・・お前、青龍」
「気安く呼ぶな、陰陽師など名ばかりの子ども風情が」
氷のような眼差しを注がれて、昌浩は眉をひそめた。
そして、同時にひらりと舞った白に気づく。
「蝶・・・?」
青龍についていたのだろうそれからは、甘い香りがした。匂いのもとはこっちか。
昌浩の呟きに、青龍は舌を打った。
青龍を宥めるように飛んでいた蝶が、再び青龍の肩の上に静止した、その瞬間。
群がる妖怪たちがいっせいに飛びかかってくる。
神将たちはそれを迎え、ほとばしる神気が渦となって荒れ狂った。
一歩下がって腕をかざした昌浩は、妖怪たちの隙間から本宮の境内をうかがった。
彰子が、横たえられている。胸元が、黒く染まっている。あれは。
「まさか、まさか・・・!」
間に合わなかった?守ると言ったのだ。俺が守ると。なのに。
「彰子―――!」
がむしゃらに突っ込んでいこうとした昌浩を、紅蓮の手が引き戻した。
「紅蓮!離せ、彰子が!」
「見苦しいぞ。彰子姫はまだ生きている。そんなこともわからないのか」
侮蔑を含んだ青龍の声を聞き、昌浩はもがくのをぴたりとやめた。
「・・・生きてる・・・?」
『その通り。・・・だが童よ、それも時間の問題だ』
昌浩は、弾かれたように顔を上げた。
門の上に、鶉がいる。
『我らが主の邪魔立てをする、不遜な方士・・・。この場で八つ裂きにしてくれるわ!』
鵠の怒号が轟いた。鶉の妖気が暗雲を呼び、雷鳴が、轟音とともに大地めがけて放たれた。
神将たちが飛び退る。反応が遅れた昌浩を抱え上げ、紅蓮が跳躍した。
押し寄せた化け物たちを、紅蓮は緋炎の槍で一閃した。
青龍が軽く目を瞠る。騰蛇が緋炎の槍を駆使する様など見たことがない。
騰蛇は常に、冷たい顔をして、いかなるものも地獄の業火で焼き尽くす。
地獄の業火など、死しか生まない。
紅蓮の手を離れた昌浩が、剣印を結んで宙に五芒を描いた。
「禁っ!」
霊気の壁が妖怪たちを跳ね飛ばす。
昌浩は符を懐から引き抜き、呼吸を鎮めて叫んだ。
「裂破!」
符が、白い猛禽に形を変えていく。
白銀の軌跡を描いて、妖の群れを蹴散らす。
しかし、門に重なる瘴気の柱に衝突すると、一瞬で消失した。
鶉が嗤笑する。
『無力、無力!我らの敵でないわ!』
昌浩は歯噛みした。力が足りない。
不意に、昌浩の膝が砕けた。頭の芯からくらりと揺れて、視界が黒く染まる。
がくりと膝をついた昌浩の許に、血相を変えた紅蓮が駆け寄った。
「昌浩!」
「だい、大丈夫・・・」
何とか立ち上がるが、わずかによろめく。
青龍は忌々しげに舌打ちした。
「邪魔だ、どけ!目障りだ!」
昌浩を押しのけ、青龍が化け物どもを迎え討つ。
押しのけられた昌浩は、足がもつれ、背中から倒れた。
紅蓮の手を借りて立ち上がり、さすがに剣呑な顔で青龍を睨む。
「なにするんだ!」
「黙れ。騰蛇ともども、役に立たない子ども風情が!」
ひどい暴言だ。それまで口をはさまずにいた天后や朱雀が非難の目を向けるが、青龍はそれを黙殺した。
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