あなたには敵わない
日野先生と知り合ったのは、ずいぶん前のことのように感じる。
「こんにちは。今日からあなたの主治医を務めます。日野といいます」
若かりし頃の日野先生は、今と変わらずにこにこ笑顔で私を迎えてくれた。
当時の私は高校受験をひかえた中学生で、受験勉強のストレスから気がめいってしまっていた。そんなとき、親が連れて行ってくれた精神科に、日野先生がいた。
「どうも……」
初めて交わした言葉は、そんなものだったと思う。
日野先生は始終笑顔を絶やさず、私に話しかけてくれていた。最初は警戒心丸出しで、先生の言うことにそっけない返事しか返さなかったのが、いつしか当たり障りのない会話をするようになり、学校の様子を話してみたり、ちょっとした趣味の共通点を見つけて盛り上がったり。ここまで打ち解けるつもりなんて、最初はさらさらなかったのに、気づいたら恋の相談なんかもしちゃってて。中学生の未熟な心のバリアなんて、日野先生からしてみれば、ふうっと吹けば飛んでしまうようにもろい。なんだかんだで受験が終わるころにはすっかり仲良くなってしまった。
そのころには、日野先生も私のことをなまえちゃん、って名前で呼ぶようになっていた。なまえちゃん、今日は寒かったですね。ここに来るまでに冷えちゃったでしょ。あったかいお茶でもどうぞ、って。
日野先生はお茶ばっかり出すから、コーヒー派だった私までお茶を飲み始めちゃうようになった。五年たった今も、相変わらず湯呑でお茶を飲んでいる。
先生と色んな話を共有して、たくさんのアドバイスをもらって。時にはふざけたり、真剣に議論したり、ほかの誰ともできない話をいっぱい交わした。だから、受験が終わった後、もう日野先生に会えなくなると思って、とっても悲しくなった。
「受験が終わったから、先生と会えないね」
合格の報告に行った日、日野先生にぽろりと打ち明けた。言うつもりはなかったけど、先生の顔を見たら、ああこの顔を見られるのも今日だけなんだな、なんて思って、鼻の奥がツーンと痛くなっちゃったもんだから。
そういえば、色んな話をしたけど、日野先生と私の関係については、なんだかんだ一度も話し合ったことがなかったな。私は先生のこと信頼してて、一番の理解者だって思ってる。お医者さんと患者さんの垣根を超えて、もう少し心の奥に踏み込んだ関係。好きな人かって聞かれたら、確かにそうなんだけど、日野先生との関係はドキドキとは違う。日野先生いつでもそばにいてくれて、困った時はいつでも寄りかかることができる。そばにいてとってもほっとする存在なんだ。
先生のもとを離れていっちゃったら、私どうすればいいの?
誰が悩み事を聞いてくれるの? 誰が恋のアドバイスをしてくれるの? 誰が一緒にお茶を飲んでくれるの?
さみしくなったら、急に先生から離れたくなくなって、弱い自分が出てきてしまった。
「さみしくなります」
日野先生に正直に言った。わがまま言えるのはこれが最後だから。
先生は最初に来た時と変わらない笑顔を浮かべていた。見ているとぽかぽかした気持ちになる。なんだか先生がくれるお茶みたい。
「なまえちゃん。僕もきみに会えなくなるのがさみしいです」
日野先生はしっかり伝わるように言葉を紡ぐ。私はしゃんと背筋をのばして、先生の最後の言葉に耳を傾けた。
「僕は、なまえちゃんのお話を聞くのが楽しみでした。学校での話や、家族の話、恋の相談なんかもしてくれて、僕が忘れていたみずみずしい気持ちをなまえちゃんの話で思い出すことができました。それは、ほかの患者さんとだったらわかりえなかった。なまえちゃんだけがあげることのできた、僕の大事な宝物です。僕はきみにとても感謝しています」
話を聞きながら、なんとなく照れくさくなる。先生に話してきた話の中には、人には絶対に言えないどろどろとした気持ちや、私の弱い部分がいっぱい詰まっていた。それを宝物だなんて言われて、誇張です、なんて言いたくなる。
私のほうが、日野先生から大事なものをいっぱいもらった。ストレスにつぶされない方法、家族と向き合う勇気、恋を大切にすること、今しかできない経験……。
「今日で通院自体は終了です。だから、もうきみは僕の患者さんじゃなくなってしまう」
先生の言葉が胸につきささる。もう、話を聞いてくれることはなくなるんだ。
「私は、日野先生からたくさんのことを教わりました。でも、これからも分からないことだらけです。もし壁にぶつかったら、また前の自分に戻っちゃいそうで、怖い」
最後の最後、私はどうしても一歩前に踏み出す勇気がなかった。
でも、日野先生はなんでもお見通しだ。
「その時は、また僕の所へお茶を飲みにおいで。今度は患者さんじゃなくって、お友達として」
なんで言ってほしい言葉が分かったのかな。


「せーんせ」
だから私はこうして、精神科の扉を叩く。
五年たって、日野先生は有名になって、患者さんが増えたそうだ。
「いらっしゃい。ちゃんとお茶用意してるよ」
だけど、先生は相変わらず。いつもにこにこで、まったりとお茶を飲んでいる。
それから。
「なまえちゃん、なんか今日は浮かない顔してるね。何かあった?」
お話したいことがあるって、すぐに分かっちゃうところも。
「そうなの!昨日ね……」
ほんと、先生には敵わない。

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