Lovers' shape

 ふとした拍子に見せる表情の、とてもおそろしい人だった。例えば、二人向き合って、リビングで朝食をとる。わたしはキャベツとソーセージを煮込んでコンソメで味つけし、スープを作って、陶器の皿に盛った。彼は顔立ちの、よく整った人だったから、スプーンを口に運ぶ様を眺めてるだけでわたしは満たされ、白い器に手を添えたまま惚けていた。
「ニコール、食べないの」
 ハッとする。午睡(ひるね)から、少女をゆりおこすように柔らかな、ほのか甘い声。
「そうね。食べるわ」
 スプーンを手にとり、透き通った液面を見つめる。淡く湯気が顔を濡らすのを感じながら、わたしはもう一度彼を見つめる。
 その瞬間に、寒気がした。
 再び瞳に映った彼は、まるでーー少しうつむき、瞼を伏せ、唇をゆるく弛ませながら動きを止めている彼は、そのまま、動きだしそうになかった、――上手に出来たお人形みたいに、もしかしてわたしは、今までずっとお人形を恋人と勘違いして微笑みかけていたのかしらと、惑うほどに。
 わたしは、怖かったんだと思う。 心地よい夢の覚める瞬間が。
 秋も深まり、もう冬の底冷え。冬の色をした雨は鋭い。わたしは凍りつく指に、そろそろ手袋を出さなければと後悔しながら傘をさしていた。からだの芯が冷える。家に帰ったらココアかなにか、ホットミルクでもいいけれど、淹れて、飲みながら部屋に暖房を付けよう。  雨が降っていた。誰かの代わりに降るような雨が。それは遠い碧眼の、かつての恋人だったかもしれない。もしくは、喫茶の庇の下で、うずくまっている、……この彼の。
「カート?」
 彼が顔を上げる。かつての恋人と、似た顔立ちの黒猫は、けれども違う青色をしていた。


Lovers' shape


「カート。こっち向いて」
 これも、秋。互いの休日に、カートの部屋で映画を観ていた。この休日の少し前、二人で映画館まで行った時、予告で流れた映像をみてなにやら美しい話のように思われたから気になっていたのを、今日借りてきたはいいものの、ときおり詩的なシーンがあるだけで話自体はなんとも陳腐、熱心な視聴者ではないわたしは半ばを待たず飽きはじめ、熱心な視聴者たる彼はまだ姿勢を正していたが、テーブルの上の菓子類に手を伸ばす頻度が増えた。
「どうしたの?」
 カートはこちらを向かず答える。けれどもその声は優しい(カートは彼が真面目に映画を観ている時に邪魔すると、あからさまに鋭くはなくとも多少冷ややかな物言いをした。わたしはそうした声を聞くたびああ、しまったと思い、しかしときに聞きたくもなってわざとちょっかいを出すのだ)、わたしを見つめてくれない彼の頬に手を当て、横を向かせる。カートは逆らわず従った。白い肌。鮮やかに映える黒髪と、睫毛。彼の睫毛は特別長いわけではないが、繊細で多い。硝子細工を思わせる硬質さと、透明度がある。けれども彼が硝子なら、きっと細かに瑕がある。彼の持つ雰囲気は、指紋一つ、傷一つない完全な透明の持つ鋭さとは、少し違う。
 わたしは無言で唇をなぞった。彼もまた口を開かない。こんな喩え、男の人に対して、しかも自分の恋人に対して使うのはなにか気が引けるけれど、カートは少女のような唇をしている。重たい紅の脂を知らず、奥から潤った薄づきのくちびる。
 スカートのポケットを探る。細身のルージュをそっと手にとる。
「ニコール?」
 先ほど、化粧室を借りた際、目の覚めるほどに赤いこの色をわたしはポケットに滑りこませた。あまりにも強い色なので、わたし自身が使う場合はまんなかに少しだけのせて、右へ左へ長くのばす。でもカートには劇的なまでの赤色をそのままのせてほしかった。造り物めいてきれいな人だから、似合う筈だ。
「動かないで」
 蓋を開け、口紅を繰り出す。彼の顎に手を添えて、その唇をゆっくりと撫ぜる。柔らかな皮膚が滑る先から真赤になり息が詰まる。彼に添えられたわたしの指が、どうしたって女の細さであることがなぜか胸に迫って、普段わたしはわたしと彼の生まれながらの差について特別考えることはない、というのも彼はそうした差異からとても遠いところにいるから、だけれど今この瞬間は、わたしと彼との艶めかしい混同の向こうに差が香る。彼が変貌していく過程に、わたしと彼とは違うということ、そのものが、映りこむ。
 身を引いて、惚けた。その性別が形づくったからだに、真紅の色は浮いている。冷え切ったまっ白な肌に馴染むことなく。でも、
「カート、」
 男でもなく女でもない生き物と、唇を重ねる。溶け合うからだはあまりにも違う。彼の手が私の背に回り、その大きさも、骨張った硬さも、私とは違う生命で性で、瞼を閉じたわたしの脳裏にルージュを塗った彼の姿が閃く。性の匂いのない、完全な中心点に立っていた彼の手を引いて、わたしはバランスを崩した、丁寧に結ばれたリボンが解ける様に似た小さな破滅。maleとfemaleの間を揺れる彼はもはや“ゼロ”ではない。ぞくぞくと、魅かれた。
 どこにでもいるようで、だからどこにもいない人。
 けれど“今ここにいる”彼に胸を高鳴らせながらわたしは、ルージュを塗るわたしの指がなければどこにいることもできない彼を、おそろしくも思った。少し値の張る口紅一つ、あるいはぱっと、思いつかないけれど、指輪やピアス、台詞の欠片でも彼は輪郭を得ることがきっと出来るのだろうけど、でもこの人は一人で立っては歩けないのだ。立てたとて、そこに“在る”ことはできないのだ。みんなが彼をすり抜けて知らないままで行ってしまう。彼自身呆然として、すり抜けていく人々をただ眺めてるだけ、……なにを思うでもなく。
「カート」
 キスの合間に、目を合わせた。とろけた虹彩が重なる。
「カート。わたしを、愛してる?」
 驚き。微笑み。間があって、肯定。
「愛してるよ、ニコール」
 その言葉は嘘ではなかったが、同時にたぶん、真実でもなかった。



 よく、こんな夢をみた。私は早朝の、誰もいない何処かにいる。其処は教室であったり、公園であったり、旧渋谷のスクランブル交差点であったり、天井に星空が飾られた白い部屋であったり、した。見知った場所であることも知らない場所であることもあった。けれど、どんな場所であっても、必ず其処には鳥籠があった。金色のとても大きな鳥籠。私の恋人が囚われている。
 私はゆっくりと鳥籠に近付く。それはひと一人収まってあまりあるほどに大きく、しかし、翼を収めるには窮屈すぎた、――そう。夢の中、恋人には翼が生えていた。鷹のような、強く傷付いた翼が。
 恋人は膝を抱えて、足の先を見つめている。その表情は無だ。何も無い表情(カオ)。彼は普段着のタータンのシャツに、ジーパンという出で立ちで座り込んでいる。背に翼。私の青いパンプスが靴音を立て、彼が顔を上げる。刹那、彼の表情はぱっと明るくなる。少年のように。彼は嬉しそうに、嬉しそうに、微笑んで私の名前を呼ぶ。
「マリア」
 鳥籠には鍵がついている。私はそれをみて思い出す、私がこの鳥籠の持ち主であることを。ほんの一瞬、酷い考えが浮かぶ。閉じ込めたい。この鳥籠に、私の美しい恋人を。けれど折りたたまれた翼が、私をちらとも疑わぬ瞳が、目に入る。私は、無言で鍵を探す。ポケットを端から探っていく。彼の気高い大きな翼の、広がる様が見てみたいから。
「マリア、」
 彼がもう一度私を呼ぶ。
「なに? 孝一」
 見つからない。私は焦り、けれどもなんとか取り繕って彼に応える。出してあげなきゃ、早く、
「鍵を、……探してる?」
 彼は不安げに尋ねてくる。私は、誤摩化せないことを悟る。
「……ええ」
「鍵なら、ここだよ」
 ちゃりん。
 軽やかな音がする。金の鍵束が彼の手にある。
「なんだ。あなたが持っていたのね」
 私は、ほっとして手を伸ばす。 鍵を渡して? でも彼は、鍵をするりと隠してしまう。彫刻じみた指を折り、左手の掌の中に。
「どうして? 孝一」
「俺がいちゃ嫌?」
「そんな訳ないわ」
「なら、閉じ込めて」
 ぞっとする。孝一は、幸せそうに笑っている。けれど私の顔を見て、悲しげに、不安げに、寂しそうに表情を変えて、問う。 マリア、
「俺を、逃がしてしまうの?」


 彼の寝顔を眺めるのが好きだった。遅く目を覚まし、未だ眠る彼の鼻筋や形よくカーブした瞼、健康的に浅黒く焼けた肌が日に照らされてひっそりと暖められているのを私は枕に肘つき見つめる。彼は大抵私より長く眠った。白い毛布のした、穏やかに上下する胸を確かめる特別な瞬間、私は幸福というものが、どんな感触をしているか知った。そして何より好きなのは、ようやく瞼を開けた彼が私を探して一度さまよい、やがて私を見つけた時に、ふにゃりと微笑むその顔だった。
「おはよ、孝一」
「ん。おはよ、マリア」
 彼の手が私の頬へのび、引き寄せる。愛おしい時間、――孝一は私にとって、天使、だった。尊い人。優しくて、清らかで、私を深く愛してくれた。私はこの美しい天使を失うことを酷く恐れた、こんな幸福、いつか奪われてしまう、――でも、私の天使は時として、悪魔にも見えた。彼は私には測り知れないあまりにも広大な、……深遠な闇を、抱えていた。時折、彼は私を戦慄させ、怯えさせ、私は温く頬を撫でる風に心底からぞっとした。孝一は、どうしようもなく壊されていたし破綻していた、どこか、おかしかった。もしくは、……きっと何もかも。
「……マリア、」  口付けたあと、孝一は私の頬に手を遣ったままこんなことを言った。
「マリアは、子どもって欲しい?」
「子ども?」
「そう。俺達の、子ども」
 私は反射的に、ぱっと顔を逸らして、手を当て、火照りを感じつつ熟考を始める。子ども。私と、孝一の、子ども、……私の脳裏には、幼い息子と手を繋ぎ合う私達の姿が浮かび、その少年はどこか孝一に似ていて、一般に子どもは異性の親に似る確率の方が高いとされているけどだって困るじゃない、どうせなら彼に似てほしいわ、そう、それで私はその子の、母で、孝一は父親で、私達は、仲のいい、夫婦、
「そうね。一人くらい、いてもいい」
 相変わらずの物言いに他ならぬ自分自身が呆れながらも私は答えた。頭に浮かんだ未来図にこっそり、心躍らせながら、けれど、それを聞いて孝一は少し瞳を翳らせた。だから気になって尋ねた。
「孝一は?」
「うーん。俺は、要らないな」
 え?
 思わぬ答えに惑う私に、孝一は、何も変わらない、いつも通りの笑顔でもって、困ったように言うのだった。だって、
「だって、俺の子どもだよ?」
 そう。笑って。
「殺したくなるよ」

 私の天使。尊い人。私は彼を、救えなかった。



「アーネストくん?」
「……はい。そうですけど」
「ええと、……カートの、弟なのよね」
「だからそうだって言ってるし、っていうか見れば分かるでしょ」
「ええまあ。そう、でも、初耳だったから」
「……そりゃ俺、クーデターだったから」
「あ、……そういう、こと」
「あのさ、」
「うん?」
「声かけてもらったとこ、悪いんだけど。俺そろそろ行かなきゃ」
「え? もう注文しちゃったし、スープくらい飲んでいかない?」
「でも、……帰って、兄貴に、……謝らなきゃ」
「何を?」
「ひどいこと言っちゃったんだ」
「どんな?」
「……詳しく言いたくないよ」
「そう」
「じゃあ、もう行くね、」
「待って! あ、ええと、……ねえ、彼今どうしてる?」
「未練でもあるの?」
「そういうことじゃ、ないんだけど。いえ、未練なのかもしれないな、分からない、……でも知りたくって」
「兄貴、死ぬんだって」
「――え?」
「幸死病なんだって。もう、半年もないって」
「――それって、」
「好きなんでしょ、まだ。なら言っといた方がいいと思って。じゃ、」
「待って。ついていってもいい?」
「はぁ? なんで。何の用があるの」
「だって、せっかく会えたんだし、それに、」
「歯切れ悪いな。なんだよ」
「一発、顔を殴りたいだけよ」


恋人たちの形。

2015/06/07:ソヨゴ


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