≠Repeat/2

 会いたいなあ。あー、会いたい。せっかくの休みだってのに外は生憎の空模様、久々にどっか遊びに行くかと意気込んでいた俺は低気圧にすっかりしょげちまい、怠惰に今日を過ごしていた。ぱらぱらと、雨粒。重い雨雲。何だか気分の滅入る休日に想うのはやっぱり彼のことで、ああ、会いたいなあ。いっそ、これなら仕事の方がよかった。
「……会いたいなあ」
 何度目かの呟きは、はっきり声に出てしまい、空っぽの部屋に不意に響いて却って空しさを募らせる。ああ、好きだ。ああ、会いたい。部屋の、四隅から雨の湿った匂いが侵蝕している、カビくさいような、ひどく陰気だ。気分が澱む。硝子と壁に遮断された雨の音はさして大きくなく、ヒトリボッチのこの部屋を埋めてくれはしない。カートに、会いたい。無性に会いたい。昼なのに真っ暗な外と不自然な白熱灯。嫌なモンしかない。カートが、好きだ。
 ベッドに寝転んで目を閉じる。彼の姿を思い描いてみる。真っ先に浮かんできたのは彼の寝顔、すっと通った鼻梁、長くはないが艶やかで綺麗な睫毛、真っ白な肌、穏やかな寝息にゆっくりと上下する胸、――やめとけよ。こんなこと一人で考えてんのなんかホントあれだぞ、――唇。背筋が凍るほど、鮮やかな湖の瞳。
 惚れたが負け? その通り。恋なんて病気みたいなもんで、実際署ではカートの顔に殊更注目するヤツはいない。ネディがいるからな。アイツの顔は派手で人目を引く、王子顔っつーの? 王子どころかスラム出身のゴロツキだけどまあ確かにね、あの金髪碧眼は見事だ。顔も整ってる、アイツが美形なことは認めるし恋する乙女の気持ちも分かるがそれにしたって好きになる相手間違えてるよ。みんな本性を知らない。いつだったか、ネディは酒を呑みながら世間話の延長戦にこんなことを言ったのだった。  「まったく僕に惚れるだなんて、頭弱いとしか思えないね」。
 ぜってーカートの方がいい。性格はもとより、真面目な話惚れた弱みを差し引いたって彼の顔は綺麗だ、弟さんもそうだけど、まるで人形。だが、故に、みんなその端正さには気が付かないんだろうと思う。カーティスの綺麗さは、大量生産の完璧さに近い。例えば普段使ってる消しゴム、一本のボールペン、ミシン目、ストロー、紙コップ、……それらは全て過不足なく完璧な形をしているが、その造形の美しさを褒め讃える者はけして多くない、気づけないんだ。どこにでもあるから、特別に美しい形に。特別であることと、希少であることは、実によく似ている。誰も大量生産品に希少価値なんぞ認めない、だから素人の手作りの方が味があっていいなどと言いだす、人はカーティスに、唯一無二の、希少価値を感じない。彼は紛れもなくこの世界でたった一人の人物であるのに。それは一体、何故?
 こうなると、目に見える「造形」だけの話では済まなくなってくる、彼の顔立ちは客観的に見れば特別に整っているのだ、だから人が彼本人に希少価値を認めないのは、その、中身のせい。カーティスは、一言でいってしまえば生命力が、まるでない。
 人の何が唯一無二なのか、それは魂だ、あるとするならだが。見た目は今や複製可能で、だからどんなに綺麗な物もコピーできれば価値は薄れる。俺は彼を、人形と言ったな、そこに魂が無いからだ、否、無いように彼が見せているから、彼は人形のように見える、いくらでも複製可能な大量生産品のように、思えてしまう。そんな訳ないのに。無個性で空っぽの入れ物みたいに見えるのは彼がそう望んでいるから、たぶん彼は然う在りたい。“たった一人”に、なりたくない。
 みんなたぶん、意識してないけど、カーティスは常に無表情だ。滅多に表情を動かさない、というと語弊があるか、滅多に、本当の表情は見せない。例えば冗談に笑うのも、顔をしかめてみるのも、全部、誰かが彼にそうあることを望んだからで彼の意思じゃない。誰に対しても誰かが望む何かを演じてみせるから、自然と彼は無個性な、空っぽの人形に見える、みんなは演じてる彼だけを何も疑わず見つめてるから、気づかない。気づかないけれど、所詮は演技だから、彼は薄っぺらくなる。魂に根ざした振る舞いじゃないからどこか空虚になる、人々は、演技自体には気づかなくてもそのことを無意識に感じて、彼を大量生産品と見なすのだ。そういうこと。どうしてカーティスがそんなことしているのかまでは分からない、彼自身にも本当の自分の思いが分からないのかも、それが不安で、分かりやすい、望まれた行いを自分の気持ちのように扱って誤摩化し続けているのかもしれない。残念なことに、彼は嘘吐きだ。嘘吐きで、嘘を吐くのがあまりにも上手すぎる。自分すら騙せる。
 彼の、微笑み。ごく稀に、彼自身が見せてくれるカオ、感情、全て、無いように見えてしまうだけ、俺はその存在を知ってる。出会ったその日に唯一無二の青い瞳と目を合わせた、恋をした、世にも美しい微笑みに、遭遇した。だから知っている。どんなに彼が嫌がったって彼は唯一の彼であることを、彼が酷く美しいことも。もし壊れてしまったら、同じものはもう何処にも無い。
 はん、マヌケな女ども。せいぜい《スティールハート》に恋してこっぴどい目に遭うといい。お前らはまるで知らなくたって、俺は知ってるよ、俺とネディはな、それからたぶんアーニーくんも、……彼は、たった一人だけ。
(もし壊れてしまったら、同じものはもう何処にも無い。)
 自分の言葉だが、重かった。そう遠くない未来、彼は壊れてしまうのだから。
「……あれ?」
 と、その時。インターホンが、来客の存在を知らせた。とりあえず起き上がり、このどしゃ降りの中やって来た珍奇な客について考えを巡らす、訪問販売だったら居留守だ、けど仮にそうでなかったら、わざわざ来てくれたってのに申し訳なさすぎる。 確かめるしか、ねえか。
 返事はせずに玄関へ向かう。忍び足で近付いて、緑に塗られた鉄製のドアの覗き穴に、目をぴったりとつけ、
「え、」
 心臓が止まった。
「もしかして、いねぇの?」
「いるっ!!」
 思いっきりドアを開けると彼は慌てて飛び退いて、危ねえなオイ、なんなんだよ。 嬉しかったからなんて言える筈もなく謝って、抑え切れない笑顔のままに彼に尋ねる。
「どうしたの? カート」
「いや、別に」
 自販機まで缶コーヒーを買いにいくだけでも億劫な(先程俺は実際に買いにいくかどうか迷って結局やめた)この雨の中、いや別に、もない。理由がある筈だ。しかし俺はしつこいらしくそういうことを聞き出そうとすると大概カートに怒られるので、俺はとりあえず納得をした風に取り繕って返す。
「ふうん? まあいいや、寒いでしょ。中入んなよ」
「いい。すぐ帰る、――大した用じゃない」
 そこで、やっと、彼の異変に気づいた。差す必要も無いというのにアパートの軒の下、彼はビニール傘をさしたまま、本当に寄っただけみたいだと落胆はしたがそれ以上に、……何で、寂しそうなの。
「喧嘩でも、した?」
 試しに聞いてみたんだが、どうやら図星のようだった。
「珍しいね、仲良いのに。仲いいっつーかカートが甘いっつか、」
「アーニーが」
「うん?」
「診断書、見つけちまって。 それで」
 続きは、聞けなかった。彼は唇を軽く噛み、俯く。後は察するしかないが、大体の予想はついた。どうしたもんかと視線を逸らすと雨は激しさを増していて、もはや豪雨だ、帰るのはきつい。カーティスの背景は透明なカーテンが垂れされたようで、いつの間に? とにかく引き止めた方がいい。
「雨宿りしてったら? 話なら聞くよ、」
「いい、帰る」
「風邪引くって」
「平気だ」
「無理だ。後ろ見た? 身体濡れるって」
「いい、上手く、……話せそうにない」
 沈黙。
 雨音のノイズ。小さな声じゃ、かき消されてしまいそうな激しい雨音に埋められて俺らは互いに言葉をなくす。でも、きっと言いたいことが、ない訳じゃない、……きっとある。何か吐き出したい思いがあるんだ、「上手く言葉にできない」だけ。そういう思いをカートはいつも沈めて閉じ込めてきたんだろう、吐き出せず、でも消せないまま、ずっと抱えて苦しんできた。だから、
「いいよ。上手く、話せなくて」
 ノイズを、一瞬切り裂いた。 カートが、ゆっくりと顔を上げる。
「は?」
「言いたくない訳じゃ、ないんだろ。言えないんだろ。言えるまで、待ってあげるから話してみなよ」
「けど、……何言ってっか、分かんないと思う。何が言いたいかも、」
「だから、カートがそれ分かるまで、待ったげるから。聞いてっから」
 有るものを、無いってことにはできないんだよ、カート。分かるだろ? 無いってことにしてたから今の今まで君は苦しい。
「……アーニー、に、」
 予想通りの一言だった。ただ俺は、黙って聞いている。
「裏切り者って、……言われて、一緒に、いてくれると思ってたのに、裏切ったって、……そうだよなって、思ったよ、けど、俺の……俺のエゴなんじゃないかって、言うんだ、自分が罪悪感から逃れたかったから俺のこと、利用したって、言われて、違う、そんなつもりは無かったんだなかったけどでも、分かんなくなった、本当はそんな風に思ってたのかもしんねえし、……いや、違う、なんか違う、ごめん、」
 謝んなくていいよ、と言って、不安そうな彼を宥める。思えば彼と出会ってから今まで、彼が彼の気持ちを、語るのを、聞いたことなんてなかったかもしれない。ネディはあんのかな、ありそーだなあ、俺信用されてねーのかな、……いや。今はそんなことどうだっていい。
「一年後に死ぬって、分かった時にさ、心残りだと思ったのは確かだ、アイツを置き去りにしたままじゃ死ねねえ、……俺が突き落としたから、俺が拾い上げねぇとって、思ったのは、……確か。俺は、……アイツの為にしてやれることなんだってしてやるつもりでいて、だって十年間もアイツに何もしてやれなかったから、兄貴なのに、見捨てたから、俺ができること全部やってやんなきゃって、……アイツのこと、幸せにしてやってから死のうと思って、……思って、」
 彼の言葉が途切れて、俺は、彷徨っていた思考回路をまた彼の為に切り替えて、それで。 息を呑んだ。 彼が、泣いてたから。
「俺、また間違えたのか? アイツがさ、俺が死ぬって、分かった時に見せた顔が、苦しくて、俺の所為で、またあんなカオさせたのか、俺は、」
 声が震えてる。こんな状態の彼は、初めて見た、泣きも笑いもしない人だけど涙は特に見たことがない。感情を、制御できなくなった彼を俺は今までに見たことがなかった。
「アイツに、もう会わない方がよかったのかな、アイツにとって、俺は“死んでほしい人”のままで、その方が、よかったのか、アイツが、アイツが悲しんだとしたらそれは俺のせいだ、俺が死ぬから、死ぬって分かってたのにアイツに近付いたから、してやれること、なんて、何も無かったんだ、たぶん、助けてやりたかったのに結局また突き落として、こんな風に、何度も何度もアイツのこと、こうやって、こんな、……このまま、勝手に、死んでりゃよかった、死ねばよかったよ、またアイツにあんな顔させるくらいなら死んでりゃよかった、ただ幸せにしてやりたかっただけなんだ俺が不幸にしたから、でも俺がいると、やっぱこうなんのか、俺、頭悪ぃから、分かんなかった、もう手遅れだ、今さらどんな風に悔やんだってアイツはまた悲しい思いをする、また俺の所為で、また俺の、そうやって、思ってたら、なんか、――」
(今すぐ、死にたくなっちまった。)

 衝動だった。

 俺はたまらず目の前の彼を抱き締めた。彼は驚いて、俺の肩口になんとか顔を出しながら戸惑っている、傘が落ちて湿った灰のコンクリートの上を転がる。ノイズが、止む。その一瞬だけ。僅かの刹那無音があった。それから、 すぐに雨音。
「カート、」
「キー、ス? お前、どうした放せ、」
「うるせぇよ」
「はぁ?」
「なあ、いいから。このままでいて、気にしないでいいから」
「気にすんなったって気になるよ、」
「好きなんだ。――カート、俺カートのことが、好きだ」
 彼が黙った。ずっと前から、伝え続けてそれでいて欠片も伝わらなかった言葉が。やっと、届いた。
「好きだ。ずっと前からお前のことが、好きだ、出会った時からずっと、今の今までずっとずっと好きだ、カートのことがずっと好きだった、……ねえ、好きなんだよ。好きなヤツがさ、目の前でそんなこと言って、泣いて、抱き締めないでいられる? 男なら、我慢できないよ無理だよ、……俺は無理」
「……うん」
「お願いだから、そっとしといて。今だけでいい、今だけでいいから、抱き締めさせて、……頼むよ」
 俺と彼との間には10cm程の高低差があり、いくら俺が屈んでいても彼が肩口に顔を出すには背伸びする必要があって、抱き締めるときに、俺が引き上げちまって、彼は今爪先立ちで俺の腕の中にいるのだった。から、居心地悪かったと思う、体勢はともかくとしてそもそも彼はヘテロだし、男の、しかも親友の俺に抱き締められて気分がいいとは思えない。だが、彼は、俺を拒まずにいてくれた。俺の為に。優しい、から。
「なんか、ごめん」
「いや、……知ってたんだ。お前が、本当に俺のこと好きなんだって、……知ってた」
 逃げていたのだと、彼は言った。
「怖かったんだ。最初に、初めてお前が俺のこと好きだっつったとき、俺はお前と、気まずくなるのが嫌で、それが怖くて、つい誤摩化しちまってそれからは、引っ込みつかなくなって、……逃げてた。お前がほんとに俺のこと好きなんだって分かってたのに、ずっと逃げてた」
 彼の身体は細い。秘密警察に属してた男だ筋肉だってついていて、世間一般に比べれば決して細いとは言えないだろう、でも、俺にしてみれば、俺の腕の中にすっぽりと収まってしまうような体躯はやはり頼りない。頼りなく、華奢に思えるその身体にどれだけのものを背負ってきたんだ、何一つ捨てられず、増えていく一方の重荷をどうして潰れずに背負ってこれた? 貴方は、悲しい程に、強い。貴方が弱ければ味わわずに済んだ。痛みも、苦しみも何もかも、だけどお前は自分のことをまだ弱いって言うんだな。“全部”を救えないから、弱いと。
「応え、られないから。俺はお前のこと、すごく好きだ、すっげえ好きだ、大事なヤツだって思ってるよ、でも、お前の好きとは違うから、お前と同じ気持ちじゃあないから、お前は傷付くだろ、だって好きだったら、一緒に幸せになりてえだろ、俺には、……叶えられなかった」
「俺が勝手に、お前のこと、好きになっただけだよ」
「違う、や、違わねえのかもしんねえけど、そう思えない、お前と同じような気持ちで俺がお前のこと好きになれたらお前は傷付くことなんてなくて、お前がどんくらい俺のこと、好きなのか分かってたよ、それだけの気持ちが俺の所為で報われないのが怖かった、俺が好きになれたらそれで済む話なのに、できなくて、お前のこと大事なのにお前が望むことができなくて、お前のことも、アーニーのことも傷付けてばっかだ、俺のこと好きなんだよな、俺が死んだら、悲しいよな、なんで、なんで俺生きれねえんだろ、生きれたら、俺が生きれたら、」
「カート」
「そしたら誰もイヤな思いしなくて済んだのに、悲しいとか、苦しいとか寂しいとか思わねえで済んだのになんでこうなんだ、好きなのに、色んな人が好きなのに誰一人幸せにできない、俺がもっと強かったら、もっと色んなことできたら、そしたら、……何で、上手くいかねえんだろ」
 誰かを愛するといつも辛い。色んな人をちゃんと愛してきたから彼はこんなにも苦しいのだろう、俺みたいに、たった一人だけを心から愛するだけでこんなにも痛むのに、彼はどれだけ傷付いてきたのだろう、何だって、してやりたいのにしてやれなくて、してやれたことよりもしてやれなかったことばかり、目に映る、……上手く、いかねえな。けどそれはお前のせいだ、お前が、すごく大事なたった一人をちゃんと愛していないから、聞こえているのに無視するから、ずっと悲鳴をあげているのは、俺じゃない、アーニーくんでもない、俺が君をしらない頃からずっと悲鳴をあげているのは、
「カート。 お前は、どうなんだよ」
 誰か一人でも欠けてたら、みんな幸せになれないよ。 カート。
「え?」
「お前は、どう思う? 生きたいの? 俺のこと好きになりたいの? 好きなの?」
「俺、は、」
「お前の気持ちは? アーニーくんの為にじゃなくて、俺の為でもなくて、お前は? なあ本当に自分のこと無視できるって思う? カート。そこにいるんだよ、ここに居るのにさ、いないみたいにできんの?……無理だろ」
 顔は見えなくても、彼がどんな表情をしているか手にとるように分かった。動揺してる。考えたこともないようなことをいきなり問いつめられて、惑ってる。カート、残念なことにお前抜きでは世界は回らない、上手くいきっこない、たとえあまりにも大きな世界の微小な一部にすぎなくたって、この過敏で、繊細で、美しい世界は必要としてる。蝶の翅で竜巻は起こるし、海岸の砂の一粒だってこの世界が生み出した無二だ。お前は、ねえ、その一つなんだよ。他に代わりなんていないしお前しかない唯一なんだ。
 だから、尊いんだ。
「わかんない、」
「分かんないワケないね」
「ほんとに、」
「分かんないんじゃないんだよ、分かってるけど無視してたんだ、仮に分かってなかったとしたって分かろうとしなきゃダメだ、これ以上、もうお前のこと無視できないよ、今辛いんだろ、耐えらんないくらい、今すぐ死にたくなるくらい苦しいんだろもう無理なんだ、見つめなきゃ、――俺が、聞いてあげるから」
 無意識、なんだろう。彼は俺の腕に爪を立て、ひどく揺らいでいる、心が、たぶん、底に沈めておいた物たちが一度に引き上げられて、眼前に、並べられている。混乱している、不安定で、心許なくて怖いだろう、そりゃそうだよ、でもちゃんと、見なきゃ駄目だ。君は、ここに、居るんだ。
「キース、俺、……死にたく、ない」
 ふっと、息をつくように。 彼はぽつり、言葉を吐き出した。
「怖い、……死ぬのが、怖い。誰にも、……会えなく、なるのが、怖い、悲しい、……お前にも、エディにもアーニーにももう誰とも、死んで、どうなるのか、考えてたら、怖くて、いなくなるってどんな風なんだ、……消えちまうのかな? 消えるって、……どんな、感じ、なんだ」
 肩口が濡れる。乾いた涙は、新しいそれに上書きされて俺のパーカーを濡らしていく。雨よりもずっと温かい。当たり前だ。彼は生きている。
「身体が、動かなくなるのが怖い、……目も耳も、使いモンにならなくなるって、医者に言われた、見えなくなるくらい、聞こえなくなるくらいどうだっていいよ構わねえ、けど、どっちも、両方できなくなるってのは、……傍にいることもわかんない。名前も呼べない、声が聞けない、そこにいるってわかんない、傍に来てくれても、誰かがいるってことさえ分からない、それが、怖い、……すごく怖い」
「うん、……うん」
「だんだん何も見えなくなって、アーニーの顔も、勿論お前も、エディも、みんな、声も聞けなくなって、そしたら、何も分からなくなっちまったらそしたら俺はどうすればいい? お前がいて話しかけてくれても俺には聞こえない、そのことが、嫌なんだ、よく分かんねえけど、すげえ怖いんだ、……俺は、でも、必ずそうなる」
 思わず、抱く腕を、一層強くしてしまったが彼はなんにも言わなかった、俺でもいいから縋りたいんだろう、そうだよ、そうでしょ、誰にも縋らないで、誰かを抱き締めて引っ張ってあげることばかり考えてきて、お前は、じゃあそんな手は要らないの、要らない訳、ないよな。お前だって。すこしゃ誰かに、頼りたいよな。
「悪ぃ、服、……気持ち悪ぃだろ」
「あのさ。俺お前のこと好きなんだって言ったばっかだよ」
「嫌じゃねえ?」
「好きな人だったら鼻水でも平気」
「鼻水は出してねぇ」
 やっと、笑う。二度、三度、息を吸って吐いて。飲み込んで、彼は俺から身を離した。泣き顔は、あんまり見せたくないんだろうか手の甲を当てて隠されてしまう。
「お前、さあ」
「なに?」
「俺が、お前と一緒にいる時に寝てるとさ、……キスしてただろ」
「へぇっ!?」
「何初耳ですみたいな反応してんだよ。お前のことだろが」
 黙認してたんだ、と彼は言う。 告白、真面目に聞いてやってなかったし、なんか申し訳なくて。
「お前、キスしたいの」
「はっ、へっ、」
「はっきり言えよ」
「そっ、えっ、したい」
「あっそ。お前さぁ、どーしても、してえっつーなら、――」

 してもいいよ。

 んっ?
 今の何? 幻聴? 俺の妄想? 今までの全部俺の妄想とかそんなことないよね? 夢? まさか。あ、はは、じゃあ聞き間違いか、
「んだよ。すんの、しねえの」
「します!!!」
「はぁ、」
 呆れた風な顔をして彼はため息をついた。お前って、俺以上に馬鹿、なんて、だいぶ不名誉なことを言う、いやこれは俺も失礼だけど。
「……ほんとに、いいの?」
「おう」
「無理してない?」
「してねえよ。一回くれえいい、……減るもんじゃないし」
 いや大事にして!!
「でも、じゃあ、その……お言葉に甘えて」
 改めて肩に手を置くと、一瞬口の端を歪めて彼は笑い、それから目を閉じた。いつも車の中で見ている寝顔と同じ、綺麗な顔、俺はうっかりと見惚れてしまう。目尻が赤く、ちょっと腫れていて、涙の筋が残ってるけど、ああやっぱ俺はこの人が好きなんだ報われねえけどさ、もう少し、もう少しだけ見つめてたい、ああ、好きだ、誰か愛するといつも苦しい、苦しくて、苦しくても愛することをやめられないのはこの想いが、尊いから、なんだろう。好きだって気持ちが。一回くらいいい、と、言った。もうこの一度だけだろう、こうして彼に触れられるのは。それでもいい。俺は、ずっと、君のことが好きなままだ。もう二度と、触れられなくても、永遠に、振り向いては貰えなくても、世界中でただ一人君のことだけが好きだ。君が、
 その時。彼が、目を開いた。
 そうしてその顔が、面倒くさそうな表情に形を変えたとこまでは視認できた、次の瞬間に、俺の瞳孔は焦点を合わせられなくなって一気にぼやける。さて何が起きているのかも判断がつかないまま、気づけば彼がまた視界にいて。
「遅ぇっつの」
 どんと一突き俺の胸を押して、俺が後ろによろけると彼も同じように身を引く。味わうこともできなかった感触を思い出そうと俺が躍起になってると、彼は唇に指を当て、かつてはよく見た眼差しで俺を射抜く。
「もう、さしてやんねーから」
 思い出した。この男、カスパーゼでは変装による潜入捜査をよく担当して、その方が都合がいいからと性別を偽ることも多々あった、っていうことは、同性を騙す方法も沢山身に付けている訳で、――カスパーゼのあった頃。彼は時々仲間内で、冗談まじりにこう呼ばれていた。
 《悪女》。

「それとも、もっかいしたい?」


いや、させてくれませんけどね。

2013/05/15:ソヨゴ