スケープゴートの幸福。

水道水の音をかき消して、姉の声が響いた。

「………何。」

傍らのタオルをひったくり、乱暴に顔を拭く。蛇口をきゅっと締めてから、僕は姉貴に向き直った。

「顔なんて洗ったら、目が覚めてしまうわよ。」

あやすような目が疎ましい。 僕の勝手でしょ、そう返す。

「怖い夢でも見た?」

「何で、」

「目が腫れてる。」

うるさいなぁ構わないでよ。僕は舌打ちまじりに応えた。 僕のこと、いくつだと思ってんの。

「一人で隠すような歳に、なっちゃったね。」

「姉貴面」

「お姉ちゃんだもの。」

見逃さないわよ。 姉貴はそういって、僕の目元に親指をのせた。慈しむように優しく撫でる。何度も、何度も。

「どんな夢?良ければ教えてくれないかしら」

「良くないから教えない」

「お願い和弘。ね?」

どこまでも子供扱いだ、苛立たしい。僕は睨むように姉貴を見上げた。

「知ってどうすんの?」

「知りたいだけよ」

「うっざ、興味本位かよ」

「そんなんじゃないわ。」

心配なのよ、貴方が泣くって滅多ないから。

「……大したことじゃないよ」

「いつだってそういうでしょ、和弘は。」

あの時だってそうだったわ。 姉貴は少し悲しげに、目を細めた。

「学校に閉じ込められてから、ろくに連絡もくれないで。帰ってきても何も言わずにベッドに飛び込んで寝てしまった。私は貴方に何があったのか、何をしたのか、一切知らないままなのよ……和弘。貴方は何を抱え込んでるの?私はそれに触れられないの?」

私は貴方が、大好き、なのに。

頬に触れる手が、震えてる。きっと気のせいだ。僕の、気のせい。

だって何を言えっていうの? 僕は化け物だったんだ、姉貴。人殺しだったんだよ。

言えるワケない。

「分かってる、言いたくないのね、家族だからこそ言えないことはあるわ。だから、だからせめて、こういう時ぐらいは……まだ、寄りかかっていてほしいのよ。」

こんな姉でごめんね。 姉貴は言った。 弟離れできなくて、だめね。

「____くだんない夢だよ、間に合わなかったんだ。」

「え?」

「間に合わなかった、夢。」

千弘が死ぬ夢。

脚が上手く動かなかった。走ってる時のいつもの感覚、切った風が背で重なる感じ、あれもなくって、何かがおかしくて、もどかしくて、怖くて、……怖くて。

大事な人が死ぬ。その恐怖を、あの時僕は初めて味わった。もちろん千弘は助かったから、その恐怖は欠片に過ぎなかったけど……それでも、背筋が凍った。息が詰まるような感覚で飛び上がるように目を覚まし、僕はしばらくずっと、ベッドの上で凍り付いていた。息が荒くて苦しくて、じっとりと汗をかいていて。そのうち涙が溢れ出てきた。思えば僕は今まで一度も、大事な人を失ったことなどなくて、僕が欠片しか知らないその恐怖をアイツは全部知っているんだ。幼い頃から。失う恐怖と慟哭に、縛られ続ける親友のことを、考えた。目が腫れるほど泣いてしまった。

「………和弘、一緒に寝てもいい?」

「はぁ? あのさぁ姉貴、」

「お願い。____今の和弘を、一人きりにはしたくないのよ。」

その微笑みが痛くて、僕は姉貴から目を離した。 好きにすれば?そう言って。




「姉貴……胸、ないね。」

「いやだ和弘、そんなこと言わないで。傷つく。」

あっそ。

私の愛しい弟は、素っ気なく言って目を閉じた。抱きしめるとかやめてよって、さっきも散々言われちゃったな。

髪を撫でる。小さな頭。サラサラの黒いストレートは、女の私も羨ましい。こっそり顔を覗く。寝顔は何だかんだまだ、あどけない。

ひどく大人びた子だ、だけど時々不安になる。危うい感じがする。頼りない姉だって、分かってはいるのだけれど……もう少し、寄りかかってほしい。

「___綺麗な顔。」

ぽつりとつぶやく。他意はなく、純粋にそう思った。だからかしら、だから不安になるのかしら。整いすぎているから。
寝息がくすぐったい。もう眠りに落ちているらしい。



和弘は、人を殺したのだろうか。



殺していないはずがない。あんな場所にいて、殺さなかったら殺されるだけだ。何人殺したかも分からない、きっと数えきれないほど。麻痺するほど。 あぁ、苦しい。胸がきゅうっとする。まだ幼い弟が、何でそんな目に遭わなきゃならないの?どうして?神様どうして?この子はちょっと意地悪だけど、でも悪い子じゃないわ。

最近この子は……自分が“幸せである”ことに、負い目を感じている気がする。平気なふりをしても、平気だと思っていても、殺めた記憶は重荷になる。殺したことへの罪悪感は、きっと和弘を苦しめてる。和弘が気付かぬうちに。

「………幸せでもいいのよ、和弘。」

生きていてもいいのよ。幸せでも構わないの。貴方は善くはないけど悪くもない。生きて帰ってきてくれた、そのことが、私を千弘をどれだけ救ってくれたかなんて、きっとあなたは知らないのでしょう。知らなくても構わない、今、貴方が生きているから。だけど____だけど。

「大好きよ、和弘。だから………もう危ない目に遭ったりしないで。」

お願い、だから。





眠れない。

姉貴の手がくすぐったい。そもそもこの状況自体こそばゆくて仕方ない。落ち着かない。

くだらない軽口を叩いてから、僕は黙って目を閉じた。狸寝入りだ。

「___綺麗な顔。」

ったく、人が寝てると思って勝手なことを。

あんただって美人だよ、黙ってればね。 心の中で悪態をつく。 姉貴が、少し苦しげに息をついた。

どうしたんだ?

「………幸せでもいいのよ、和弘。」

え?

どくん、と、心臓が跳ねる。 何でそんなこといきなり、なんだよ。

寝たフリなどしていられずに僕は目を開けた。姉貴は僕の頭を抱きかかえていて、僕の顔は、見えないらしい。

姉貴の鼓動の音が聞こえる。穏やかな音。

とくん、とくん。

「大好きよ、和弘。」

声が、染みていく。何だよいきなり、何だよ、僕だって、僕だって……大好きだよ、姉ちゃん。 何でそんな声出すの。苦しくなる。

「だから………もう危ない目に遭ったりしないで。」

なき層って訳じゃなかった。優しい静かな声だった。ただ、ただどうしようもないほど切なかっただけ。

切なかっただけ。

「____和弘?」

たまんなくなって、僕は姉貴に抱きついた。ぬくもりに触れる。生きてる温度。

「………っ、姉貴ぃ」

「起こしちゃった?ごめんね。」

「そうだよ…ぶつぶつうっさいよっ……」

僕は、結局のところ怖かったのだ。

死ぬ、ということに関して、僕には何の実感もなかった。でもこの手で、初めて人を殺した瞬間………思い知った。

「死ぬ」とは「なくなる」ということだ。消える、っていうこと。いなくなるってこと。 無になる。全て。

ぞっとした。

もし僕が死んだら、僕はもう誰にも触れられなくなるのだ。笑うことも泣くことも、元からあまりしなかったけれど、でも完全にできなくなるんだ。虎と馬鹿馬鹿しい喧嘩したり、悠とゲームの話したり、姉貴や千弘とふざけ合ったり。御影に触れたり、キスしたり、そういうこと、全部全部できなくなる。僕という存在は、消えてなくなる。大事な人が大事になるほど怖くなった。だから僕は平気なフリして、誰かを殺して、何人も、僕が、死にたくなかったから。

「和弘、どうしたの?大丈夫?」

僕は僕が消えたくなかったから、だから他の誰かを手にかけたんだ。他の誰かを消したんだ。殺したんだ。僕が怖くて怖くて仕方がない“無”に他の誰かを追いやった。何人も。何人も。数えきれないほど。

僕は幸せでいいんだろうか。

僕は、僕は生き残った。誰一人失わずに。そして振り返ってみれば親友は、失う恐怖に囚われて、僕はそれすら知らなくて、僕だけ、僕だけいい思いしてる。僕だけが、幸せだ。

ごめんなさい、だけど何一つ失いたくない。死にたくない。死んでほしくない。ごめんなさい、僕ばっかり、僕ばっかりごめんなさい。ごめんなさい、ごめんなさい。

「………怖かったよね、和弘。ごめんね、何もできなくて」

「……こわ、く、なんて、」

「あなたは幸せでもいいの、和弘。幸せであってほしいの。私は貴方に、笑っててほしいわ。」

「っ、あ、姉ちゃんっ………」

誰がとがめる訳でもなし。そう、姉貴は言った。和弘は人を殺したのでしょう、それは確かに、悪いことだったかもしれない。でも、貴方が生きていてくれたことで、私はひどく救われた。こうやって抱きしめられる、触れられる____本当に良かった。生きててくれて、本当に。
「僕は……僕は、幸せでも、いいの?」

「いいのよ。 あなたが今、幸せなのは、貴方のせいではないのだから。」

すがりつくように抱きついた僕に、姉は優しく微笑んだ。

「あなたが生きててくれたから、私は今、幸せなのよ。」



スケープゴートの幸福。



和弘は自分で自分を、スケープゴートにしてたってことです。

こういう真理は、災害や虐殺などで生き残った人が陥りやすいみたいですね。



2010/12/31:ソヨゴ