ZZZ | ナノ

1


朝日が差し込む執務室に深い溜息が響き渡った。


乱雑に広げられたままの地図の上に力を緩めた手から落ちる本日何枚目かの手紙に目を細めるとそれに背を向けて出口に向かって歩き出した。







「…!マグナス!」



ふわりとやわらかいソプラノが響いてマグナスは弾かれたように声のする方へ顔を向けた。


真っ赤な絨毯のひかれた大理石でできた廊下の上をコツコツとヒールを響かせて走るナマエを慌てて「走るな」と静止して自ら彼女の元に駆けるとナマエは少々不満げに片頬をぷくりと膨らませて見せた。



「…もう、別に走るくらい何ともないよ」
「ごめん。…それより何処か行くつもりだったのか?」
「あ、うん。書斎に行こうと思ってて」
「それなら俺も行こう」
「でも、マグナス仕事は…」



そこまでナマエが口にしたところで周りの様子に気付いたマグナスが す、と彼女の前に手をかざした。



「…そうだ、ナマエ。俺書斎に行く前に花畑に寄りたいんだ」
「お花畑?わかった」



一瞬首を傾げたが、すぐにぱっと微笑んだナマエは頷くとマグナスの背中を追って歩き出した。


どこか急いでいるのかマグナスの歩幅は自然と大きくなっているせいでその後ろを付いているナマエが小走りになるが、それすら気付かずにずんずんと進んでいくマグナスは二階から一階へ続く階段の手摺に手を乗せると不意に自分たちに向けられる視線に気が付いた。



―――聞けばどこから来たのかすらしっかりと分かっていないらしいではないか。


―――政治はおろか戦術すら…あんな小娘を…。一体何をお考えになっているのか



手摺に置かれたマグナスの右手に力がこもる。城内の壁や床同様石でできた手摺はマグナスの力にびくりともせず差し込んだ光を静かに反射している。



「…あの、マグナス?」



肩で息をしながらひょっこりとマグナスの後ろから顔を出したナマエが心配そうに眉根を寄せている。


甘栗色のナマエの髪に触れて一束掴んだマグナスはゆっくりと微笑んでみせた。それに釣られるようにはにかんだナマエは手摺に置かれたままのマグナスの手に両手を添えて少し強めに引っ張った。



「行こう、マグナス。お花畑に行ったら少し休憩しよう」
「あ、ああ。…そうだな。そうしよう」



微笑んで頷いたナマエは嬉しそうにマグナスの腕を掴んだままくるりと踵を返して歩き出した。薄い桃色の彼女の服と一緒に甘栗色の髪が揺れる。そのたびに香る彼女独特の甘い花の香りにマグナスはざわついていた自分の心が落ち着いていくのを感じた。


二階から続く階段を降り切ってすぐ左へ抜けると花畑へと続く扉がある。その小さな扉の取っ手に先頭を歩いていたナマエが手を掛けた。今まで通り普通に生活をしていたら見過ごしていたであろうこの場所を見つけたのは紛れもなくナマエだ。彼女がこの場所を見つけてからというものよほどこの場所が気に入ったのか何かあるたびこの場所へ足を運んでは手入れをしている姿を見かける。


ゆっくり開かれる扉の隙間から入り込む風に乗って花の甘い香りがマグナスとナマエの鼻孔をかすめる。


本当に心地の良い香りだ。顔を見合わせて微笑んで開き切った扉の向こうの、まるで別世界のようなそこに手を繋いで足を踏み込めば色とりどりの花びらが二人を歓迎するように包み込んだ。



「この間ね、端の方に少しだけ蓮華が咲いてたの」
「レンゲ…?」
「小さくて可愛い花で、わたしの一番好きな花!」



いこ、言って笑ったナマエが繋いでいたマグナスの手を少し強めに引っ張るとあちこちに咲き誇る花を踏まないようにうまく駆け抜けていく。


甘栗色の髪にまるでじゃれるようにふわりふわりと舞う花びらが一枚彼女の髪に絡まって、それがとても綺麗だった。


花畑の真ん中をナマエの後ろ姿を追いかけてパラティヌス城を横切るように進んでいくと、目の前に広がった崖にマグナスの背筋がぞわりと震えだして思わず目の前をまだ駆けているナマエの腕を強めに引くとバランスを崩したその体を抱きしめた。



「わっ!?」
「っ、…ナマエ、どこまで行くんだ。これ以上行くとこの先は崖なんだぞ」
「い…いつも来てるからそれくらいわかってるよ、大丈夫だよ」



抱き締められたまま首を捻って、大きな瞳をさらに見開きながらそう言うナマエがオレンジ色にも見える瞳でマグナスを見つめる。目の前の崖から少し強い風が吹いてマグナスの藍色の三つ編みが揺れる。それを追うように揺れるナマエの甘栗色の髪が風に吹かれた。


目の前を通り過ぎる色とりどりの花びらがふたりの鼻孔に甘い香りを運んでは空へと上っていく。ナマエを抱きしめるマグナスの腕が次第に強くなってナマエは思わずその大きな手に自分の手を重ねるとゆるゆると撫ぜた。



「……マグナス、わたし大丈夫だから。ね?」
「…ごめん」



そっと両腕の力を緩めたマグナスの腕からするりと抜けだしたナマエを名残惜しそうに見つめる藍色の瞳に苦笑いを向けたナマエは寄り添うように立つと先程自分を抱き締めていた腕を緩く抱きしめて少し先で可愛らしく揺れている桃色の花を指差した。



「マグナス、あれ。あれが蓮華って言うんだよ」
「可愛らしい花だな」



いくつかが固まって寄り添うように揺れる蓮華の姿はまるで今の自分たちのようだ、とふと隣で蓮華を見つめながら目を細めるナマエを横目に見たマグナスは笑みを零した。


甘い花が香る。目の前を舞い上がっては消えていく花びらが綺麗だ。僅かに触れたナマエの小さな手をそっと包み込むように握りしめたマグナスは自分の方へと引き寄せた。



「ありがとう、少し気が晴れたよ」
「ふふ、ならよかった」
「帰ろうナマエ。…少しサボったから仕事がたまってそうだ」
「…わたしも手伝いできる?」
「君は気にしなくていいよ。大丈夫、すぐ片付けるから。…さ、城に帰ろう」



繋がれた手を引いて歩き出したマグナスは一度ナマエの手を握る力を強めると、踵を返してゆっくりと歩き出した。その広い背中を見つめるオレンジ色に輝くナマエの瞳はゆらゆらと少しだけ揺れていた。


花畑を後にするふたりを追うように風に揺られて舞い上がる花びらがナマエの後ろでふわりふわりと揺れていた。



* * *



「このままでいいのかな…」



頭上を明るく照らしていた太陽が沈んですっかり静まり返った部屋に一人、ベッドに潜り込んだナマエは窓から見える満天の星空を見つめながらぽつりと呟いた。


あれから結局執務室にこもったままのマグナスは部屋に一度も姿を見せずにこんな時間になってしまった。こんな時、何か手伝いが出来たらと申し出るのだが、決して首を縦に振らないマグナスにナマエはどうしようもなく俯いて引き返すことしかできなかった。


深く重いため息が零れ落ちる。何か自分が手をかせれたのならもう少しマグナスがこの部屋へ帰ってくる時間も出来るのではないかと思ったのだが、生憎政治や戦略に関しての知識すらない今の自分ではどうする事も出来ない。



「わたしマグナスに守られてばかり…」



廊下を一緒に歩けばまるで何かから自分を守る様に歩いていくれるマグナスに気付いている。今日みたいに何かに追い詰められたようなマグナスの表情は出来ればあまり見たくない。



「そうさせているのは…わたし、なんだろうな…」



『一体何をお考えになっているのか』低く、かろうじて聞き取れる程の声量で発せられたその言葉にナマエの胸が強く締め付けられた。こんな自分をそれでも、と傍に置いてくれているマグナスがその自分のせいで悪く言われることが耐えられない。けれど、言い返す事も出来ない。


黙っていれば落ち着くだろうと思っていた。だがその声は日増しに増える一方だった。蒼天騎士団内の人間には何度も気にする必要はない、と念を押されるがどうしてもナマエの心の奥底に鉛のようになって沈んでいた。


何とかしたい。なのに何も浮かばない自分が情けなくて歯がゆい。窓の向こうに広がる星空を見つめたままもう一度ため息を吐き出したのを最後にナマエはゆっくりと意識を手放した。



* * *



遠慮がちに部屋の扉を開けると、すうすうという規則正しい呼吸の音が聞こえてきた。――寝てしまったのか。薄暗い部屋を壁に立てかけられた松明がチリチリと音を響かせながら照らしている中、静かに部屋の扉を閉めて小さな山がひとつ出来上がっているベッドへとマグナスは足を進めた。


小さく丸くなって眠るナマエの姿に目を細め、ゆっくりとその手を伸ばすと頬にかかった甘栗色の髪を優しく退けた。頬に触れられて若干身じろぐ仕草を見せたナマエは起きることなく幸せそうに眠り続けている。もう一度その白い肌に触れたマグナスの手にぴく、と反応したナマエがほんの少しだけ眉間に皺を寄せる。



「……ごめんな、」



眉間のしわに指を這わせて呟いたマグナスはベッドの空いたスペースにその身を沈めると細いナマエの体を引き寄せてゆるく抱きしめた。


ふわりと香る甘い花の香りに瞳を閉じる。…わかっている。本当はあの時の彼らの声も完全にナマエの耳に届いていたのだということぐらい。だから、せめて守りたい。今いるこの世界とは違う場所からやってきた彼女が元居た世界と同じように安全に暮らせるくらいには。



「…ま、グ…ナ、」
「…ナマエ」



腕の中に閉じ込めたナマエがマグナスの胸にすり寄ると、眉間に刻まれていた皺が薄れた気がする。まだ何やらむにゃむにゃと寝言を言っている彼女の額に軽く唇を寄せるとマグナスも瞳を閉じて意識を手放した。
prev next


「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -