ZZZ | ナノ

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* * *



「…マグナス、眠れたのかな…」



早朝。朝日に染まる部屋にナマエの声がぽつりと落ちた。自分の隣の開いたスペースにそっと手を伸ばしてシーツをなぞってもそこからはぬくもりを感じることはできなかった。


深くため息を零してベッドから立ち上がるとすぐ傍の椅子の背に掛けた服に着替える。中途半端に閉められていたカーテンを開ければ目の前に広がったのは雲一つない真っ青な空だった。


いつもならこんな天気を見れば気も晴れるのだが、今日のナマエの気分はまるで鉛でも入れられているかのように重かった。淵に指を這わせて換気の為に窓を開けると、途端に入り込んできた風が僅かに甘い香りを運んでくる。


頬を撫ぜる風に目を細めたナマエは大きく息を吸い込むと踵を返して部屋のドアノブに手を掛けた。



「…書斎に行こう」



古い木の軋む音を響かせて開いたドアの音にナマエの両肩が一度びくりと跳ね上がった。昨日のあの人達はまた居るのだろうか。―――そんなことを考えても仕方ない。そう自分に言い聞かせて首を強く左右に振ったナマエは強くドアの向こうを見据えると部屋を後にした。


目の前に広がる赤い絨毯を踏みしめたナマエの目の前を騎士達が微笑みながら「おはよう」と明るく声をかけて通り過ぎていく。それに応えるように軽く手を振って「おはよう」と笑ったナマエは部屋のドアを閉めると自然と視線は足元へ落ち、書斎へ向かう足はいつもより早くなった。


園庭を通り過ぎてまっすぐ俯いたまま階段に向かっていく途中でぼすり、と大きな何かにぶつかった。



「ご、ごめんなさい…わたし…」
「夢主?」
「え…その声…」



思わずがばりと顔を上げたナマエの目の前には優しく微笑んだデスティンの姿があった。



「わ…!デスティンさんお久しぶりです!ここへはいつ来てたんですか?」
「ついさっきだ。此処の様子も少し見に来ておきたかったから休暇をもらってな」
「あ、わたしマグナスを呼んで…」
「ナマエ」



くるりと身を翻したナマエの腕を素早く掴んだデスティンの表情は先程とは違い不安そうに眉根を寄せている。デスティンに向き直って首を傾げるとゆるゆるとその腕を掴んでいた手の力は緩んだが、離れることはなかった。



「…ナマエ、大丈夫か?」
「…えと…、はい大丈夫ですよ。ここ最近は体の調子も…」
「違う、そうじゃない」
「…?デスティンさん…?」



次第にまた強くなっていく腕を掴むデスティンの手に思わずナマエの表情が僅かに歪んだ。細いナマエの腕はいつもの桃色のワンピースの上からでもわかる程だ。何処からか入り込んだ風が甘い花の香りを運んでデスティンの鼻孔を擽った。


不審そうに自分を見上げるナマエのオレンジの瞳にはっとしたデスティンが慌てて腕を離した。



「…すまない、つい…」
「い、いえ…わたしは大丈夫です。デスティンさん何かあったんですか…?」
「…いや…なんでも…。そういえばナマエはどこへ行くつもりだったんだ?」



あんなに急いで。首を傾げたデスティンにナマエは苦笑いを浮かべると小さな声で「書斎に」と呟いた。何故小声なんだ、と問おうとしたデスティンが周囲を見渡して理解する。こちらを見つめている数人の男たちの姿があったからだ。ぼそぼそと何やら話し合っているが、その内容はとても良い物とは思えない。


それは、男たちの表情から伺える。彼等の視界からナマエを守る様にして立ったデスティンはもう一度甘栗色の頭に触れるとぽんぽんと優しく頭を撫でた。



「書斎へは私も一緒に向かおう。…構わないか?」
「あ…はい」



弱々しくも微笑んで頷いたナマエに頷き返したデスティンがくるりとその場で踵を返す。先程までこちらの様子を伺うようにしてぼそぼそと話をしていた男たちはどこかに行ったようで姿は見えなくなっていた。ナマエの目の前を薄緑の服と、その背中に背負われている大剣がゆらゆらと揺れて離れていく。その背中を見つめたまま、桃色のワンピースの裾を強く握りしめたナマエは蚊の鳴くような小さな声で「ありがとうございます」と呟いた。


窓から差し込む日の光が照らすいつもの廊下が妙に切なく感じて、それを振り払うように強く首を左右に振ったナマエは小走りにもう既に遠くを歩いているデスティンの背中を追いかけた。



* * *



「…よし」



まとめた書類を机の上でとんとんと整えたマグナスは椅子から立ち上がった。朝日の差し込む執務室は自分以外誰も居ないせいか静まり返っていてどこか寂しさを感じてしまう。


以前地図の上に放置したままの写真の束が一瞬マグナスの視界の隅に映って思わずため息が零れた。いつからだろうか、自分と同じ年頃の女性の着飾った写真が送られてくるようになったのは。


地図の上に広がった写真の束からわざと視線を逸らしてそのまま書類を脇に抱えると執務室から出たマグナスの脳裏を昨日の花畑でのナマエが横切った。


今までにも幾度となく彼女から自分の仕事を手伝えないかという話をされているがそのたびに首を横に振ってきた。ナマエが今の仕事に関わってしまえばそこから戦場へ駆り出されるようになるまでにそう時間はかからないだろう。かつん、マグナスが廊下を踏みしめる音が静かな廊下に響き渡った。



(…そんなことからは何としても彼女を守らなくては。)
「マグナス様」



窓から差し込む日の光に照らされた廊下を見据えて大きく息を吸い込んだマグナスがそう強く意気込んでいると後ろから聞きなれない男性の声に呼び止められた。


今度は一体何の話をされるんだ。気付かれないよう短く息を吐き出したマグナスはきゅ、と表情を引き締めると声のした方へと体を向けた。少し離れた場所でこちらの様子を伺っている男性の身なりからして貴族か商人の者だろう。赤い絨毯を踏みしめる音が次第に近付いてくる。腕に抱えた書類を持ち直すとマグナスも彼に近付くため一歩踏み出した。



「すまない、今日は何か予定を入れていただろうか。…忘れてしまっていて…」
「い、いえ。本日はそのような件では…」



両手を胸の前ですり合わせるようなしぐさを見せるこの男性が何を言いたいのか分からずマグナスが眉根を寄せて首を傾げると一度苦笑いを零した男性はおずおずと口を開いた。



「うちの娘もそろそろ良い年頃になったというのに浮いた話ひとつなくて親の身である私としては不安でして…。そう、丁度マグナス様くらいの年齢なのですが…」



胸の前で手をこすり合わせながら不自然に目線が泳いでいる男性の姿に一気にマグナスは気分が沈んでいくのを感じた。この男もか。豪華な服に身を包んだ男性から視線を逸らして真っ赤な絨毯に視線を落としたマグナスはわざと大きくため息を吐き出した。



「…その話なら力になれそうにない。…すまないな」
「…あ、…あ!い、いえ!滅相もございません!私としたことが何の話をしているのやら…。それではマグナス様、またいずれ…」



随分低い声が喉の奥から出たような気がする。びくりと両肩を震わせてそそくさとマグナスの前から立ち去る男性の背中を睨むように見つめていたマグナスは本日何度目かのため息を吐き出すと書類を抱え直した。



「………もう、聞き飽きたよ…」



心底疲れ切った様なマグナスの声が誰もいない廊下に吸い込まれるように消えていく。窓から差し込む日の光を見上げるようにして窓に近付いてそっとそこに触れると、不意に聞き覚えのある笑い声がマグナスの耳に届いた。
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