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チョコレートよりも甘い時間を君に


カリカリと羊皮紙の上を走るペン先の音が静かな部屋に響く。すっかり暗闇に染まる窓辺を飾る花は今月咲いたばかりのシラネリアの花だ。


花びらの端は白く、中央に向けて鮮やかな青色に染まっているシラネリアの花を見つけた瞬間嬉しそうにナマエが「まるでマグナスの瞳のようだ」と微笑んでくれてからというもの、マグナスはこの花が意外と好きだった。


そのナマエはと言えば、つい先程まで自分のベッドの上で小さく船を漕いでいたのだが、今は目を覚ましに行ったのか姿がない。


出来るだけ同じ時間に自分と寝たいんだといつか彼女が強く語ってくれたことを思い出してついつい頬の筋肉が緩んでしまう。あまり無理はさせたくないのだが、彼女の気持ちは素直に嬉しい。


ペンを持つ手を止めて鼻から多めに息を吸い込めば、仄かにシラネリアの香りが鼻をかすめた気がする。



「…ナマエに似てきたかな」



いつも彼女はふとした時に季節の香りや花の香りを感じる気がする、と口にする。レイアやディオは半信半疑で聞いているが、最近なんとなくわかる気がする。


季節の変わり目や、道端に咲く花に気を向けた時なんとなく感じるような気がするのだ。緩みきった頬を押さえながらそう言ったマグナスはそこを引き締めるためにペンを強く握り直したタイミングで後ろから古木の軋む音が聞こえた。ナマエだ。


緩んだ表情は直っているだろうか。少し気になりはしたが、それよりも彼女の事を見ておきたかったマグナスはペンを片手に椅子に座ったまま体を捻って後ろにいるであろうナマエを見た。


先程まで感じていたシラネリアの香りよりもさらに甘い香りがマグナスの鼻孔を擽った。




「…あ、マグナス。おつかれさま」
「ありがとう。もう少しで終わるよ……それよりそれ、」
「あ、待ってマグナス!大丈夫!そっちまで持ってくから座ってて」



ナマエの両手に抱えたトレイの上には湯気の上がったマグカップがふたつ。以前商店街へふたりで出かけた時に買ったものだ。


立ち上がろうとしたマグナスに慌てて声を上げたナマエはぶんぶんと首を横に振ると、トレイの上に乗せられたマグカップの中身を零さないようにしながら器用に体で開けっ放しだったドアを閉めた。



「だって、…熱いだろう」
「…もうマグナス、本気で言ってる?」



ぷっくりと片頬を膨らませたナマエがむっとした表情のままゆっくりと近づいて来る。そのたびにシラネリアの香りよりも甘い香りが濃くなってくる。



「…いや、だって給油室からここまで結構な距離だっただろう」
「そんなに遠くないよ。…マグナスは本当に心配性だね」



言いながら椅子に座ったマグナスのすぐ隣まで歩いたナマエはくしゅりと苦笑いを零す。マグナスの前に広がった机の上の書類の邪魔にならないようにそっとトレイからナマエは静かにマグナスのマグカップを取って彼の手の届きやすい場所に置いた。


甘い香りが部屋中にいきわたったんじゃないかと思うほど、この香りは少し強めだ。カップの中を覗いてみたがぱっと見では珈琲のように見える。



「…それね、珈琲じゃないんだよ」
「違うのか?」
「ふふー、なんでしょう」



にっこりと悪戯っ子のような笑みを浮かべたナマエは何やら嬉しそうだ。彼女が嬉しそうにしているとなぜか自分まで嬉しくなる。机の上に置かれた自分専用のマグカップの取っ手を掴んだマグナスは改めて中を覗き込んだが若干色が薄い珈琲にしか見えない。


思い切ってカップに口をつけてそのまま流し込む。ふわりと香った甘い香りがマグナスを包んで消えていく。



「…え?…ナマエ、これは?」
「ふふっ、カカオ!」
「カカオ?」



カカオと言えば薬じゃないのか?首を傾げたマグナスにまたナマエは悪戯っ子のように笑うと「んーん!」と言いながらベッドサイドに設置された小さな机の上にトレイごとカップを置いたナマエも取っ手に指を通してカップに口をつけると一口喉に通してほぅ、と幸せそうなため息を零した。



「わたしの世界ではお菓子になってるよ。チョコレートって言うのになってる」
「チョコレート…」
「それで、今月の21日は数えたらバレンタインデーって言う日でね」
「バレン…タイン…?」



ナマエの話に付いていけずただただ復唱しながら頷くマグナスの頭の上には?マークがたくさん浮かんでいた。


もう一度カップの中のチョコレートを口に含んだナマエはにっこり微笑んだまま、トレイの上にカップを置くと膝の上に行儀よく両手を重ねて、何やら改まったように背筋をぴしっと伸ばした。



「女の子がだいすきなひとにそのチョコレートを渡す日なんだよ」
「…え、」
「ほ、ほんとはね、飲み物じゃなくて、もっと他にも考えたんだけど、ここは夜特に冷えるし温かい方が良いかなって…」



わたわたと何かを言い訳するように口早に捲し立てるナマエの話はほとんどマグナスの頭には入っては来ない。カップを置いて席を立ったマグナスの瞳に映るナマエの甘栗色の髪と、桃色に染まったその頬にそっと手を伸ばして触れると、華奢なその体がぴくんと一瞬小さく跳ねた。


白い小さな手が桃色のワンピースの裾をきゅ、と握りしめているのが見える。そんな可愛らしいナマエの仕草にマグナスがくすりと笑みを零すと、降れた頬を親指で撫でてその桜色の小さな唇に自分の唇を重ねた。



「…うれしいよ」



甘く広がるチョコレートの味がお互いの口の中で溶けていく。目を細めたマグナスに釣られてナマエもはにかむと、優しい力で引き寄せられてその逞しい胸に押し付けられた。


いつものナマエの甘い花のような香りとは別にチョコレートの甘い香りがマグナスの鼻孔を擽った。甘栗色の少し固いくせっ毛に触れて彼女の後ろに広がったベッドの位置を確認してそのままゆっくりと押し倒した。


ふんわりとベッドに乗せられたナマエの体が数回スプリングを軋ませて跳ねながらシーツの波に埋もれていく。広がった髪はきらきらと輝いている。



「…仕事は?」
「もともとあと少しだったんだ。明日に回しても問題ない。…それに…」
「それに?」
「ああもう、我慢できそうにないよ」



その言葉を最後に、ゆっくりと顔を近付けてきたマグナスにナマエは苦笑いを零してゆっくりと瞳を閉じた。




(…あ…冷えてる…)
(なんだ、風邪を引くじゃないか。温め直そう)
(ちが、そういう意味じゃな…、ばかっ!えっち!)

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