浅葱晴に記憶喪失の兄




とんでも無いことが起こった。一回俺の話を落ち着いて聞いてほしいんだ。
クリスマスの朝のこと。朝の澄んだ冷たい空気が震え、俺が眠るベッドの隣に何か沈んできた感覚に目が覚めた。まだ重たい瞼をゆっくりと開けて眠気目で隣に沈んできた温かいそれを確認すると、驚いたことに隣で眠っていたのは男だった。まさかこの学校で、兄のいる学校で、たとえ酒を飲んでいたとして酔っ払っていたとしても俺が誰か人を自室に連れ込むような事をするはずがない。これは何かの間違いだ、もしかして夢かと寝起きで纏まらない頭で必死に考えて、とりあえずベッドから転げ落ちるようにその男と距離をとった。俺の狼狽に気がつく様子も見せずにこちらに背を向けて眠る男は規則正しく肩を上下に動かして深い眠りについているようだった。にしても、一体何者だろうか。スウェットに身を包み寒そうに身を縮こまらせるその姿にどこか既視感を覚えて眉間にしわを寄せた。恐る恐る男の肩に手を伸ばして、眠る男の顔を覗き込むように首を伸ばしながら起こさないようゆっくり肩を掴んで引いた。いとも簡単に転がるよう、寝返りを打った男の顔に驚愕で顎が外れるかと思った。

「あ、にき?!」
「…ん、」

つい大声をだしてしまった。その声の大きさに身動ぐ兄の姿に慌てて口を両手で抑える。兄は煩そうに眉間に皺を寄せながらもぞもぞと布団の上で芋虫のように動いている。掛け布団を下にして寝ているため上手く包まれないのだろう、何が何だか状況がイマイチ把握できていないが、せっかくの睡眠を邪魔するつもりもないしむしろ安眠してもらいたいので近くに適当に畳んでおいたブランケットを広げて縮こまる兄の上に掛けてあげた。それっきり動かなくなったのを見る限り満足したようだ、あどけない寝顔を眺めながら、この異様な状況にも関わらずふっと笑みが漏れた。兄の寝顔はとても綺麗だった。母にも父にも、そして自分にもあまり似ていないように感じるのは、俺の、少しでも血の繋がりを消したいという切なる願望からくるただの思い込みだろうか。
今、自分の世界に入るのは些か場違いかもしれないが、兄を前にするとどうしても胸が切なくなってしまう。こんなに近くにいるのにとても遠く感じるのだ。普通の兄弟ならばそんな事微塵も感じたりなんてしないだろう。俺がそう感じる理由なんて、もうとっくの昔に気がついていて、残酷な運命に俺はもう何年の間もどうする事も出来ないでいた。何か理由がなければ触れる事もできない。たとえ触れられたとしてもそこで始まるものは何もない、そして絶対に切れることのない兄弟という血の繋がり。俺はどうしたらいい?震える指先で、閉じた目にかかる前髪を静かに梳いた。

「…ん、?」
「あっごめん、起こしちゃった?おはよう」

自身の指先が冷えていたせいで驚かしてしまったのだろうか。
微かに瞼が震えてゆっくりと目が開いた。反射的に手を引っ込めて誤魔化すように笑う。ぼんやりと覚醒しきらないような顔で俺に焦点を合わせる兄は状況が飲み込めていないみたいだ。なぜ俺の部屋にいたのか、どうやって入ったのかなどいろいろ聞きたい事はあったが起きて早々に質問攻めにするつもりもなかったのでふっと微笑んで立ち上がる。
兄はまだ覚醒しきらないようで特に何を言うでもなく、俺をじっと見つめていた。その姿はまるで無防備で心臓がどきりとした。寝起きの兄の姿はあまりにも心臓に悪かった。

「大丈夫?お水でも飲む?」
「…えっと、」

誤魔化すように水でも飲むかと訊ねると、困ったように視線を外す兄の姿につい口を開けポカンとする。いそいそと起き上がりベッドに座り込む兄はどこか余所余所しい。まるでいつもの兄ではなく、中に誰か違う人間が入ってしまったかのような…。いやそんなまさか、そんな事あるわけないだろうに。先ほど掛けてあげたブランケットを胸元で握りしめる兄に、嫌な予感がした。

「あに、」
「悪い、誰だっけ」
「は…?」
「記憶喪失、みたいだ」

何かを誤魔化すようにはは、と乾いた笑みを浮かべる兄に、記憶喪失って自分で認識出来るものなのか、名前とかも忘れてしまったのだろうか、いつ治るのか、治らないのか、そもそも冗談なのではないか。そんな疑問が浮かんでは消え浮かんでは消えを繰り返して、不安げな兄と視線が絡んでからは結局は何も考えられないというように頭は真っ白になってしまった。
縋るような兄の視線に口の中がカラカラに乾いていく。こぼれ落ちるように出た言葉は、彼を労る言葉でも真偽を確認する言葉でもなく、掠れた声で呼ぶ、兄の名前だった。


つづく




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