悪運だけはいいと評される男にも、時として不運は襲ってくる。
それはもう平等に。世の中油断は大敵だ。


Kiss this 1



午前の会議を終え、イーストシティの外れに在る工場の視察に駆り出されたのが、約三時間前の話。
戻ってきてみればそっちの商売だろうか、女同士のつかみ合いの喧嘩に出くわしたのが、今現在の状況だ。
時刻は午後四時を回ろうとしていた。
市内の安全警備を預かるのは憲兵だが、このまま見過ごし、通り過ぎるわけにもいかないだろう。横暴な上司は行けとばかりに、顎をしゃくった。隣に控えていた部下の顔に浮かぶのは、もはや諦感の念。
へいへいと口調だけは適当に、しかし真面目に向かう少尉には、幸あれと言った所。
命じたロイは腕を組み、早く片付けろと言わんばかりの表情を見せていた。

部下に対する無常極まりないその態度に天罰が下ったのか、控えめな口調でもって、横から涼やかな声がかかる。
「……少尉が劣勢に見えますが」
「私に行けと?」
階級章、三星を取る大佐。別称、焔の錬金術師。英雄の呼び名も高い、イシュヴァール内乱での軍事功労者。
もぎ取ってきた勲章は数知れずの東方指令官。重々しい肩書きを持ちながらも、鷹の目には弱かった。
「他に誰がいますか」
疑問というよりは、諭すようなその物言い。
逆らう余地はどこにもなく、ため息をつきながら、ロイは乱暴に歩み寄って、ハボックに喰ってかかっている女の肩に手をかける。
わかった、わかった。話を聞くからと両者を引き離そうとすれば、いい男じゃないと片方の女にしがみつかれる始末。
きつく匂う香水。濃い化粧。鮮やかな唇。
開いた胸元を腕に押し付けられ、そこに冷めた視線をくれる。

別にわざとじゃない。
習慣のように、こんな素敵な女性が喧嘩するものではないよとか何とか、引き寄せて耳元囁いてしまったのは。
むしろレディに対する礼儀だろう。悪気も浮気心も欠片もなかったと、誓って言える。
次の瞬間、そばにいたハボックが引きつった顔をした。何なんだ、こいつはと思う間もなく、ロイの疑問はすぐに解決することとなった。
視線を巡らせば、乱暴に編んだ金の髪。赤いコート。黒い上衣。鎧の騎士が隣にいる子どもが視界に映ったのだ。

そこまでの条件がそろった子どもなど、自分は1人しか知らない。めったなことでは崩れない端正な顔も、さすがに強張る。
副官にも弱いが、それよりも、もっとずっと大切な弱みだ。こんな場面は決して見せたくなかった。
女に甘い言葉を囁いた口で、とっさに笑いかけて、答えを返してくれると思っているならば、愚かも過ぎる。

「あ、俺今普通に大佐のこと可哀想だと思っちまった」
なんて部下の感想など、決してもらいたくはなかった。
ありえない偶然も、たまにはある。
信じられないような不運が襲うことも、たまにはある。





とりあえずハボックに女達を押しつけて、向かうは子どもの元だ。声をかけると、無視されることはなかった。
この街に現れたということは、また何か必要な文献か書類が生じたんだろう。よってここで知らぬ振りをして自分達の前を通り過ぎるわけにもいかなかったというわけか。
ロイは背をかがめ、子どもの顔を覗き込む。
甘い顔を惜しげもなく晒して。全く見ていられない。いたたまれないのは周りの面々だ。
部下二人の内、1人はライターを軍服から取り出し、煙草を銜えて小休止を取ることに。
清楚な顔をした副官はアルフォンスを相手に、柔らかな笑顔を見せている。
後はどうとでもして下さい。
大佐のお好きなようにと、二人我関せず。薄い笑みを浮かべたロイとは対照的に、エドは嫌そうな表情を隠そうともしない。
自分と顔を合わせたことが嫌なのか。女と絡んだ自分を見たことが嫌なのか、そこまでは計り知れないが。


「元気な姿を見て安心したよ」
「あんたに安心される覚えねぇし」
「何を言う、君と私の仲じゃないか」
「そんな仲になった覚えもねぇっての!俺は」
「つれないことばかりを言って気を引くのが得意だな?鋼の」
「…てめぇっ」
どこまでも噛み合わない会話だが、傍から聞く限りでは痴話喧嘩の有様だ。
本人達は気づいていないんだろう。
二人とも軍の機構に身を置いているわけで、エドのそれは上司に聞く口ではない。幾ら子どもとはいえ、中央でそんな振る舞いを見せれば不敬罪と取られてもおかしくないが、ロイは何一つ気にせずに、暴言すら嬉しげに受け止める。
再会は三か月ぶりだ
とりあえず先程の動揺は嘘のようなロイの態度は、いっそ見事といっていい。
ポーカーフェイスだったらお手のものだ。
中央の宿業老人共を相手に、ここ数年無事に生き残って来たのだから。口の上手さも、笑顔の良さも保証していい。
その彼が相手の機嫌を伺うことに必死というのは、部下二人、胸の内に留めておく。
先程一瞬見せた強張った顔が、内心の動揺を物語っていた。
現時点では将来を確約された男。
黙っていても、将軍の地位くらいは手の中に落ちてくるだろう、その男の唯一の致命傷といっていいくらいの弱み。
十四も下の子どもの態度に振り回される程には夢中。
浮気現場を見られたわけでもないのに、求められたら言い訳さえしそうな勢いだ。
上層部に知られたら即失脚、それくらいにはスキャンダラスだというのに、二人の間にそんな色気は欠片もなかった。




先を一人行こうとする子どもを追い越さないよう、普段よりもゆっくりとした歩調でロイは隣を歩く。
門衛の敬礼を、軽く受け流しながら、着いた先は東方司令部の執務室。
ここに来る前、「じゃあ兄さん、喧嘩腰にならないで、大佐に頼むんだよ」とエドは弟に言い含められていた。
あれでは一体どちらが兄なのかわからない。
一方でロイ・マスタングの方といえば、「明日から一週間残業をすると誓約書を書いて下さい、ここにサインを」と副官に請求されている始末だった。
執務室の扉を彼自ら開けながら、エドを待ち望む。頼りない背を押しながら、ロイは部下に視線を向ける。
目が邪魔をするなと物語っていた。

静かな音を立て扉が閉まり、その後、彼らは複雑な表情を浮かべる。
「大佐が満面の笑みで、出てくるに俺一票」
「明日から真面目に仕事してもらえるなら、なんでもいいわ」
扉の前に居続けるのは聞き耳を立てるような真似だし、さすがに気が引ける。大佐も今はまだたわいない、ままごとのような恋愛に付き合う気があるようだし。
放っておいても大丈夫だろうとばかり、二人は去っていく。
そう、他人の恋路には、関わり合わないに限るのだ。馬鹿を見るのは自分なのだから。


「今日中にこれだけは目を通しておくように」と渡された書類を、重厚なデスクの上に投げ出しながら、ロイはゆっくりと振り向く。
何か欲しい書類でもあったかと、エドに尋ねてみたが、それに対して返答がなかった。
間の取りようがない。
相当に機嫌を損ねたと言っていい。それを嫉妬と取っていいのかは微妙な所だが。
だいたい嫉妬と取るなら、自分達の関係を、エドがそういったモノだと捉えているということが前提にある。
どれだけ優れた才能を持っていようが、相手はまだ年端行かない子ども。
本当にわかっているかどうか怪しい所だ。

「私と口を聞いてくれないか。まずはお茶でもどうだい」
内乱から戻ってきて、ここ数年築いた醜聞は数えきれやしない。だというのに賢者の石についての文献を、餌に呼びよせるか。はたまたお茶でもどうかという問いかけしか持ち札がないとは。これはどういうことだと自身に問いたい。
なかなか口を聞こうとしない子どもを前にして、ため息をつきつつ、ロイは額に散る髪をかきあげる。

どうするべきかと思っていると、ようやっとエドは伏せていた顔をゆっくりと上げてきた。
自分をまっすぐに見上げてくる視線。相手をしてくれる気になったかと思えば。
「口紅ついてんぜ、大佐」
エドはぶっきらぼうにそれだけを言い放ってくる。
先刻つけられたのだろう。
触れられた覚えは全くないのだが。
気づいていたなら言ってくれてもいいだろうに。ロイは薄情な部下の顔を思い浮かべる。
左顎のあたりを乱暴に拭おうとすれば、そこじゃないと指摘された。警戒するように扉付近に佇んでいた子どもは、やっと近づいてくる。
「……かがめよ、拭いてやっから」
これはどういうつもりなのだろう。未だ怒っているようにも見えるのだが。
今一つエドが何を考えて掴めないまま、軍服の裾を掴まれ、軽く引っ張られる。
引き寄せられたついでに、引っ叩かれるかもしれないとも思ったが、この際甘んじて受け止めることにしよう。
いつからこんな弱い立場になったものか。こんな甘い男に成り果てること、一体誰が予想ついたか。

「ああ、すまないね」
ロイは肩にも届かない子どもの為に、背をかがめる。顔を覗き込もうとすると、次の瞬間エドが両腕を伸ばして、乱暴にしがみついて来た。
勢いがあったせいで、バランスを崩しかける。このままでは共倒れだ。
とっさに薄い背に片腕を回し、支えた。腕の中に落ちてくる暖かい子どもの体。高い体温。
どうしたのかと問う間もなく、がぶりと耳元を噛まれた。思いもよらない行動に、息もつけない。
ぬるい口内に自分の肌を引き込まれる。子どもだからこそ、次が予測つかないのだ。
薄い皮膚を甘噛みされ、一度離れていく唇。首筋にきつくしがみつかれているせいで、エドの表情までは伺えない。
今どんな顔をしているのか、それすらもわからない。

散々、醜聞を流して来た手練手管持ち合わせている癖に、ロイは他に言いようもなく無粋な言葉を口にしてしまう。
「……何を、してるのかな。鋼の」
何故なら、エドが誘っているとは思えなかったのだ。
愚問だとわかっていたが、だからこそ、問わずにはいられなかった。
これが手慣れた女ならば、自分も簡単に乗ったろうが、この子どもは違う。
大切すぎて手が出せないなど今更この年になって言うことではないだろうと、自身に呆れたかったが、事実だ。
泣かれることを考えただけで、どうしていいかわからない。

「痕つけてんだよ」
返ってきたのは、不機嫌一直線の声だ。ついで耳の後ろの皮膚も喰まれるが、くすぐったさしか感じない。
柔らかい唇の感触に、笑いがこぼれそうになってどうにかそれを耐えた。
やり方一つ知らない子どもの幼さに、嬉しさまで覚えて。今までどれだけ甘い言葉を囁こうが、意味が通じていなかった。
それを考えれば。良い傾向だと思っていいのか。

「そこではつかない」
ロイは軍服の襟元を緩めて、首筋を晒す。
「さてどこにつけてくれる?」
「……バカにしてんだろ、俺のこと」
どうせできないと思ってるんだろうと言わんばかりに、拗ねた声、眉間に刻まれた深い皺。
「まさか」
エドの肩を囲い、背をかがめたままの姿勢でいるのも辛かった。今なら多分拒まれないだろうと踏んで、そのまま両腕を膝に差し入れ、抱き上げる。
機械鎧の分があっても、簡単に抱えられる程、軽い体。年端行かない子どもなのだという現実をつきつけられる。

十四も下の子どもに心を落とすなど、つくづく愚かな恋をしたものだと思わずにはいられない。
しかしわかっていても、どうにもならないことは世の中に色々あるのだ。
目線の位置を合わせれば、純度高い金の両眼が睨み付けてくる。甘い色を見せて、幼さを際立たせる、緩やかな頬。
誘われるように口づけようとすれば、ストップとばかりに手で遮られた。


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