Phantom ship 5



またナイフで自分を襲うとでもいうのか。逃げるには遅すぎるということを子どもには理解させてやらなければいけない。
ハボックの帰りを待つ間、ここに立って待っていてもしかたない。
陽は落ちる寸前の残り火。月はもう透けてはいない、はっきりと姿を形作っている。
夜が落ちてくれば、街中であろうと追剥が出てくるような場所だ。それに港に船が戻ってくる、獲物を手に入れ血の高ぶった海賊が何をしでかすかわからない。
騒ぎに巻き込まれる前に、責任とやらを果たしに行くとしよう。
孕ませたわけでも、結婚の約束をしたわけでもないのに、責任を取ろうというのだから感謝して欲しいくらいだ。

手首を掴んだ指に力を篭めて、子どもを傍に引き寄せる。痩せた体はいくらでも思うとおりになった。抱き上げる前に、相手の意思を確認する。少しは尊重してやらないでもない。
「抱いて部屋まで連れていってもいいぞ、どうする。自分の足で歩いていくか」
「歩いてくから。離してくれよ、腕……」
答える声が震えているのはわざとだろう。
「今日は駄目だ、聞いてやるわけにはいかない」
わざと清冽な笑みをつくれば、往生際悪く腕の中でもがいてくる。これでは子どもをさらおうとしている相当な悪人に見えてしまう。
しかし教会に通うような善人はここにいない。大切なのは、今日のラム酒と女を手に入れること。それ以上はないのだから。
もちろん子どもが自ら進んで歩くわけもなかった。引きずるのも骨が折れるので、肩に担ぎ上げればそれにも必死で抵抗してくる始末。

まだ夜は始まったばかりだというのに、入った宿の二階は盛況だった。
壁の向こう側からは娼婦の嬌声。そして自分達の部屋では、担いで来た大切な荷物をベッドに投げ出す音が響く。続くのは嬌声ではなく、悲鳴だった。
「あまり怯えられると、いくら私が優しい男でも苛めたくなる」
「そんなん。自分で言う男ほど信用できねぇんだよっ」
「確かに真理だ。どこで学んだ?本当は客を取ったんじゃないのか」
手首を掴んだ指に力を篭めれば、細い骨の感触が伝わってくる。
「……や。やだって……なあっ」
折るつもりはない、逃げない程度に力を緩めて、試しに抱き締めてみる。腕の中には暖かい体温。まずは頬につけられた傷を舌で舐め上げてやる。泥で汚れた跡を拭えば、露わになる赤。まだ血が滲んでいる。
子どもは唇をわななかせ、声を噛み殺している。頬ばかりではない、首筋まで舌で辿っていく。海風に吹かれているせいか、塩辛い味がした。
肌の下に潜む頚動脈、それに鎖骨までも食んで、強く吸って痕を残してやる。
子どもの肩の震えは止まらないまま。しゃくりあげるような声を聞いた気がした。
これは少しからかいが過ぎたかもしれない。首筋から顔を上げて覗き込めば、瞑られた眦に滲むのは汗、ではない。涙だ。

「何も泣くことはないだろう。やり過ぎた私が悪かった。聞いているか?」
「……っ」
それでも睨みつけてくる態度は、いっそ見事だ。泣き声まで聞かせておきながら強がってくるのだから。
拘束を解いたその手で髪を撫でてやる。触るなと呟く声は無視して、触れられたくなければ泣き止んでくれと返した。
「泣くわけ、ねぇだろ……そういうフリしたんだ。フリ」
「それは凄いな、すっかり騙されたぞ」
何でそうやってバカにしてくるんだと怒鳴り返される始末。どう慰めれば気に入るというのか。子どもの機嫌を取るのはつくづく難しい。
「馬鹿になどしていない、そうだな、まずは名を聞こうか。前は教えてくれなかったが」
これ以上手は出さない、からかわないという意思表示。
「……ただで聞けると思うなよ」
相手は精一杯の虚勢を張ってくる。いつまでも怯えたままではいないところも、また面白い。
「何が欲しい」
子どもは迷った末、自分の手を指してくる。嵌めているのは、石も何もついていないただのリング。
「この程度で聞かせてくれるなら、安いものだ」
大して欲しいわけでもないだろうに、宝石をねだる娼婦のような真似事を仕掛けてくる。
ロイは苦笑を浮かべながら、指輪を抜いて子どもの手の中に落とした。

驚きを露わに、子どもは眼を見開く。自分が願いを聞くとは思っていなかったに違いない。こんな指輪に執着はない。こぼれそうな金の両眼こそ、価値あるものだ。
「約束だ、名を」
その名を教えてくれと囁くように請う。
「……エドワード」
エドワード、エルリックと不本意そうな口調で名乗ってくる。
「年は」
「聞けんのは一つだけ、もうおしまいだ」
指輪はもうない。
元々、こういったものに興味はなかった。船が沈まない呪いだとか海賊らしい身なりにする必要があるとか、船員である部下に押し付けられたものを、しかたなく身に着けていたに過ぎない。
瑪瑙の指輪をやったと知れた時には、したたかに嫌味を喰らった。明日船に戻れば身ぐるみ剥がされたかと言われるだろう。

ロイは左手首に嵌めていた銀のバングルを外す。これは、ただの装身具ではない、剣を防ぐ為に必要なものだ。後で何か代わりのものを手に入れなければ。
ベッドに落とせば、エドはそれをじっと見た後、視線を窓際にそらした。名前よりも更に言いたくなさそうな顔をしている。たかが年を教えることを何故躊躇うのか。
「……今年の冬で十六になる」
数瞬の沈黙。聞こえてくるのは、外からの怒鳴り声。隣室からの喘ぎ声。その中、再び口を開いたのはエドの方だった。
「っ……あんただって、俺のこともっと子どもだとか思ってたんだろ。バカにするならしろよ!ってか、許さねぇからな。背のこととか。ち、小さいとか言ったら」
「まだ何も言っていない」
年よりも随分幼く見えることに驚きはしたが、それは心の内にしまって。表に出せば、更なる怒りを買ってしまう。おそらく今まで背丈や顔つきのことを散々言われてきたんだろう。
「誕生日が冬なら祝わなければな。何を贈ろうか」
嘘つくのもいい加減にしろと吐き捨ててくる。信用のないことだ。出逢って二度目だが、また逢いたいと思っていたというのに。しかし、そろそろ本題に入らなければ。
「だって俺のことばっかりで、あんたは何も教えてくれないだろ」
「私のことなどどうだっていい。それより重要なのはお互い共通の敵を持っているということだ」
忘れてはいない、最初に出逢った時に口にした黒髪、隻眼の男が仇だという言葉。
「俺の仇、取ってくれるとでも」
「まあ、そういうことになるな。あの男を殺さなければ、代わりに私は命を絶たなければいけない」
命が惜しいわけではない。それよりも取り返したいのは名誉と誇りだ。
事も無げに言い放てば、いぶかしげな顔を見せてくる。それでいて不安そうな。
よく変わる表情は、本当に見ていて飽きない。
「……どういう意味だよ」
「ただでは教えてやれない」
子どもの言葉を真似れば、強く睨みつけてくる金の視線。舐めれば、どんな味がするものか。それをロイが思った時、過去の記憶が甦って来た。

国を出る前夜に男など気持ち悪いと言ったのではなかったか。誤りだった。撤回しよう。
この子どもなら抱いてみたい。
「じゃあ、いらねぇっ。返す」
預けた指輪や腕輪を押し返そうとしてくる。返すから全てをなかったことにしようとは、都合が良すぎやしないか。
「これは贈ったものだ。もう私のものではない」
それでも返すというなら前の指輪も含めてだ。どうせ売ってしまったんだろうと子どもの手に無理やり嵌めようとしていたところで、部屋の扉が唐突に開いた。


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