Phantom ship 4



元上官であった男が賭けに負けたのを、元部下は見たことがない。
こういった男は一生金に困らず生きていくのだろうと思う。
何でそんなに勝てるんです。イカサマでもしてるんですかと尋ねれば、イカサマなど何故する必要がある?私は勝負の女神に愛されているんだと嗤って来た。
その言葉を証明するように、安宿での子どもと再会したのは数週間経った頃か。
かくて上官の運の強さは証明されたわけだ。女と名のつく者ならば誰だろうと惹きつけてやまない男が、まさかその子どもに落ちるとまでは思っていなかったが。


路地に立つバイオリン弾き。軽快な音色に混じる、人の笑い声、それに銃声。
見上げれば、東の空に透けた月が浮かんでいる。月が昇り、港に血の夕陽が落ちようとしている。夜がすぐそこまで迫っていた。
今日も街は騒がしく、そして物騒だ。生まれる人間よりも、死ぬ人間の方が多いに違いない。その騒ぎにいちいち関わっていてはきりがない。
本国の連中はどう制圧するか、頭を抱えていることだろう。それまではここは海賊と娼婦、泥棒の天国だ。

目指すは路地を曲がった先の酒場。
歩いている間にも、寄って来る女達。コルセットで締め上げた腰、それに豊満な胸を見せつけて。結い上げた髪、小首を傾げて、媚びた笑顔を振りまいてくる。
金回り、それに顔の良さがあれば言うことはないとばかりの態度。つくづく正直だ。天に召されたとしても、魂は救われるだろう。
左目のその傷はどうなっているのと、いつの間にか隣に寄り添ってきた娼婦がロイに手を伸ばす。見たら呪われてしまうかもしれないと笑って交わして、囁きを女の耳に。
何を甘い言葉を告げているものやらと、後ろに控えたハボックはため息を一つ。女の肩を抱いても、野卑に見えないのは、彼の言うところである人格の違いなのだろうか。

他の仲間達とも話し合ったことがある。何故ロイ・マスタングばかりが女達に好かれるかという不毛な話し合いをだ。
確かに、これ程整った顔はそうはない。何気なく見せる紳士的な態度。当然だ、元は提督なのだから。
女達と別れて、また声をかけられて。幾度か、それを繰り返した後、ようやく目当ての酒場に辿り着いた。まだ夕刻だというのに、漏れ聞こえる喧騒は相変わらず。
酒場の入り口を覗いても、それらしい子どもは見当たらなかった。いないのならここに入る意味はない。女を買うつもりはなく、酒なら他でも呑める。

「……いないな」
「じゃあ俺が聞いてみましょうか。名前何でしたっけ」
「お前もあの場にいただろう、もう忘れたか。名前など聞いていない」
あの夜、仇だとナイフを向けてきた子ども。指輪をくれてやり、その手を離せばあっという間に逃げていった。つかの間の出逢いに過ぎない。
「……また来るとか悠長なこと言ってないで聞いときゃよかったのに」
呟きはロイの耳に届けられる。視線を向ければ、ハボックは顔をそらしてきた。
通りかかった女達に手を振ってごまかしている。目を合わせることもできないのなら、最初から口を開かなければいいものを。そう思うのはこれで何十度目だ。

確かに、子どもに向かって何一つ聞かなかった。そして自分のことも何一つ言わなかった。
ここをまた訪れる日がいつになるかさえ、わからなかったからだ。
ただの子どもを、こうまで気にすることこそおかしい。己の有様に嗤えて来る程だ。国にいた頃には考えられない話だった。
それでも約束どおり指輪は作って来た。こんな細いリング、他にくれてやろうにも誰にも合わないに違いない。
無駄にするには惜しいが、どこを探そうか。相手は名も知らない、住処も知らない。この街にまだ留まっているのかさえ。
あ、と呟きを漏らしたのは、横のハボックだった。
「どうした、お前好みの女でもいたか」
声の先を何気なく見れば、剣先で脅されている子どもが。空腹に耐えかねて盗みでも働いたのかもしれない、誰も気に留めず通り過ぎていく、ここではよくある風景だ。
しかし違うことが一つ。
子どもは鋭い刃にも臆さず、相手を睨みつけている、純度高い金の両眼で。ほつれた三つ編みも揃いの金だ。
ロイは口元を歪める。想った矢先に見つけるとは、つくづく運がいい。それは相手か、自分か。そのどちらもだ。子どもは死なずにすむし、自分は恩を売ることができる。
早く助けてやりましょうと焦るのは気のいい部下。
「あんたが行かないなら、俺が行きますよ。ほらっ」
「それは困る。役目を譲るわけにはいかんな」
鞘から剣を抜く音はまるで空気を切り裂くよう。
再会の言葉は何にしようか。まずはその名を聞かなければ。もう一度逢った時に教えてやると言ったのはあちらの方だ。

自分の姿を認めると、子どもは金の両眼を見開いて、驚きを伝えてくる。
逢いたかったと告げれば、信じてくれるか。否か。
子どもを脅した相手と剣を組み合わせ、押す。大した腕前ではない。鋼が擦りあう音が鈍く響く。折ってしまえそう程、粗悪な刃だった。
「先約は私にある。引き取って頂こう」
柄を握る手を攻めれば、無様に剣が転げ落ちる。
あっという間に勝負はつき、男は地面に這い蹲る羽目に。歯向かわないよう、その背に足を乗せて体重をかければ、骨がぎしりと歪む感触が伝わってきた。
命を取るのは簡単だが、これは自分の敵ではない。どう始末をつけようか。そこで後ろから子どもの声が上がる。
「殺すのは駄目だっ!」
思ってもみなかった言葉に、起きる一瞬の隙。男は脱兎のごとく通りに駆け出していく。
間隙をつかず、ハボックに命じた。
「追え」
ハボックはそれに短く答え、後を追っていく。彼は信頼を裏切らない優秀な猟犬だ。無事に獲物を手に入れ戻ってくるだろう。

振り向けば、子どもは呆然としたまま、言葉もない様子だ。地面に膝をついている。先程の声は、咄嗟に上げたものらしい。
立てるかと手を伸ばせば、我に帰ったように睨みつけてくる。
よく見ると、頬に傷がついていた。あの男につけられたものか。子どもは睨みつけたまま動こうとしない。自分の手を取るのをいつまでも待つのは面倒だ。
相手を待つような忍耐は、国で全て使い果たしてきた。
子どもの二の腕を掴んで、上に引き上げる。それでも目線が合うことはない。何せ相手は、胸元あたりまでしかない背丈だ。今日は髪を染めていないらしい。金色には、ところどころ泥がついている。
「また逢ったな。賭けは私の勝ちでいいか」
唇を開いて、また閉じて。何から尋ねようか迷っている様子。答えるまでに間が空く。
名を知らないのは不便だ。こんな時、呼んで促すことができない。
「……賭けなんて最初からしてない。あんたの名前だって覚えてねぇ」
ようやく口を聞いたと思えばこれだ。
しかし可愛げのない態度は新鮮でいっそ心地良かった。媚びた態度も笑みも、もはや見飽きた代物だった。
「覚えていないならいい。私は逢えて嬉しいが。それで?何をした。盗みか」
「……何も」
これ以上喋ることはないとばかり、顔を背けてくる。

「白状するつもりがないなら、代わりにあの男に聞くとしよう。ハボックが捕まえて戻ってきたら、船のマストに吊るして最後は鮫の餌だ」
楽しいぞ。見に来るか。
それを聞いた途端に子どもは勢いよく見上げてくる。
「楽しいわけねぇだろ。どうしてそんな真似するんだ。あんたには何の関係もないはずだろ!」
「顔に傷がついているのが気に喰わん」
手の甲で乱暴に頬の泥を拭えば、痛かったのか顔をしかめて来る。子どもの肌は思っていた以上に柔らかく、加減がわからない。
後で舐めてやろう。
「酒場に行ってみたが、いなかったんでな、首にでもなったか?」
あんたのせいだと呟く声には拗ねたような響き。背を屈めて覗き込めば、幼さが垣間見える表情。この子どもの年が幾つなのか、今更ながら気にかかる。
「あんたが……俺を買ったりなんてするから」
客取らされそうになったんだと、語尾は消えかかる程、細くなっていった。
宿を治めていた魔女の顔を思い出す。確かにそれくらいの真似はするだろう。
「取ったのか。男の客を」
嗤い混じり尋ねれば、返って来たのは怒鳴り声。
「取ってねぇよ!だからやめる羽目になったんだ、あんたのせいだからな」
「私のせい。構わんぞ。だったら責任を取らなければ」
責任という言葉を聞いて、子どもの肩が跳ね上がる。喉をこくんと鳴らして唾を飲み込む、金の眼に走るのは怯えの色。


可愛げのない態度もそうだが、考えが全て表情に出るところも見ていて飽きない。好ましいと感じる。あんたから逃げてやると叫ぶ声。
腕を掴まれたままで、どう逃げるつもりなのか。


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