Don't remind me. 3



彼が自分の願いを叶えてくれなかった事は、本当にあの夜まで一度としてなかった。甘えて依存して、すがって。いつの間にかそんな関係がずっと続くと錯覚してしまったのかもしれない。
だから、きっと罰が下ったんだ。

ふとエドは目を開けた。睫の影が頬で揺れる。
夢から覚めるとそこは東方司令部ではなく、中央の自分の部屋だった。机の上でうたた寝してしまったらしい。辺りには文献やノート、ペン。インクが散らばっている。
今何時だろう。
そばにあった銀時計の蓋を開ける。針は正確に時を刻んでいた。夜が明けるまで、後わずかな時しかなかった。
こうやって眠ってしまった時、見る夢は決まっていた。東方司令部にいた頃のロイの夢だ。どれだけ懐かしく思っても戻る事はできないのに、未練が自分にそんな夢を見せるのか。
夢の余韻が、なかなか脳裏から離れてくれなかった。
待たせたから怒ったのかなんて、司令官の台詞とは思えない。それを受け止めていた自分も信じられない。そんな言葉を言わせていい男ではなかったのに。

この間、ハボックがファルマンの結婚が決まったと教えてくれたせいか、夢の内容はそれに関係したものだった。
君が寂しがるからしないなんて、その通りだ。大佐。
「……当たってる、大佐の言うとおりだ」
目覚めたばかりの声は掠れて、泣きそうにも聞こえた。泣きたいわけではない。
しっかりしろ。眠っている場合ではないだろう。旅をしていた頃は眠らなくても、食べなくても平気だったはずだ。ロイを取り戻したいなら、もっと必死にならなければ。
夢を見て懐かしんでいる場合ではない。あれは二度と還る事のできない過去。それをわかっていて尚、あの頃の関係に戻りたいんだ。
じゃあ、その先はどうするんだ。彼が自分の知らぬ女性の手を取るところを祝福するのか。
乾いた笑いが、エドの口からこぼれた。俺は頭がおかしいなんてもんじゃない。つくづくこの女々しさが嫌になる。反吐が出るというのは、こういう事を言うんだろう。

本当の彼を取り戻して、そして祝福だってできるはずだ。
「できるだろ?なあ……」
誓ったはずだと。そう言い聞かせなければ辛かった。周りの人間に嘘をついて、彼に抱かれて、囚われて。そんな状況が絶え間なく続く。
彼と同じ態度、声、体温に一年かけて慣らされて、心が麻痺していく。
しばらく触れられていないような気がした。
あの七日間からどれくらい経つんだろう。数えたって何の意味もない。やめろ。体の奥に甦ってくる疼きは無視した。
されなくたって、平気だ。思い出したら駄目になる。彼を取り戻したら、もう抱かれる事もなくなるのだから。こんな熱無視しなければ。

エドは机を、手の平で叩く。
朝まで、まだ時間がある。もう一度シェスカがくれた資料を読み返さなければ。
彼女は言葉どおり、すぐに自分へと届けてくれた。まだ調べ足りないとは思うが、これ以上集めている余裕はない。時間がそれを許してはくれない。
この一年での知識で錬成式を組むしかなかった。
本当は組もうと思えばすぐにできる。構成式を一つ編み出すだけなのだから。
足りないのは覚悟だけだった。





夏は刻一刻と近づいていた。熱を孕んでいく空気。姿を見せる陽は、落ちる影の色を濃くしていた。
時間はあまり残されていない。この状況に変わりはなかった。
『外に出してやるのも、今の内だと思った方がいい』
あの男は自分よりも、余程覚悟が備わっている。言葉の通りに実行してくるはずだ。何をされるにしても、こちらから先に仕掛けなければいけない。取り戻す為の錬成陣を敷いて祈るんだ。
それもおそらく容易にはいかない。
相手を滅ぼそうとするのだから全力を持って抗ってくる。敵うかどうかはわからない。唯一、対抗できそうな方法は錬金術だけ。

しかし三年前、練兵場で完膚なきまでに打ちのめされた。今度こそ彼の焔に勝てるという保障はない。
敵わなかろうと、やるしかなかった。俺は命を賭ける。覚悟を決めろと己に命じた。いつまでも時を引き伸ばしていても、何もならないのだから。
そうして嵐の到来を待っていた。
何が起こっても、全てを隠してくれる雨と風の音が欲しい。錬成式は構築できた、嵐さえ訪れてくれたら、もう何も考えずに行動するだけだ。
人の血肉を取り戻すわけではないから、石灰も塩も必要ない。
そう、後は嵐だけ。自分はいつだってやれる。嵐を待っているんだと。言い聞かせていなければ、不安だった。覚悟は決まったといっても迷いはある。
これが一番正しい方法なのか。彼の体を傷つけずにすむのか。
そしてあれは、本当にウロボロスなのか?胸の奥にしまい込んでいた可能性。違いを一つも見つけられないなんておかしいじゃないかと思う心と、彼が自分を欺く理由がないと否定する心。


相反する心を抱えたまま、総統府に赴く日々。
今日は朝から式典があった。
新しいトップは、ブラッドレイの政策を引き継いでいきたいようだが、カリスマというものに徹底的に欠けた。
あれはただの凡人、俗人だ。任期を完了できるかどうかも怪しいという評判だったが、自分にとってはまずい事をやらなければ、それでいい。
整備された道、等間隔に立てられたポール。咆哮を上げた獅子の旗がなびく。風だけは強いが、まだ嵐はやってきてくれなかった。
濃紺の軍服がこうも一同に揃うと圧巻だ。
軍部は序列がはっきりしている。自分の場所から、ロイは遠かった。
周りの男達からは浮いた容姿も、しかたない。まず年が違う。あの中では彼一人が若い。二十代で国軍大佐の地位を獲った事が異常なのだから。そして来年には准将になろうとしている。

隣に立つ男に耳打ちされ、ロイは口の端に笑みを浮かべた。如才ない態度を見せながら、奥底で何を考えている。
大佐の事だから、馬鹿にしてんじゃねぇかな。
自分は何を言っているんだ。違うだろう、あれは彼ではない。あまりに違いがないから、混同してしまいそうになる。それに気づいて否定する。何度も繰り返して、心が少しずつ疲れて、おかしくなっていくようだった。

しっかりしろ。弱みなんて見せたら付け込まれる。自分もまた周囲から浮いた存在なのだから。
軍部には相応しくない外見と嘲笑われ、直轄府に引っ込んでいればいいとさえ言われた事がある。
風が自分の髪をなぶって乱していく。
邪魔でしかない、やはり切ればよかった。本当のロイではないのだから、言う事を聞く必要なんてなかったんだ。切らないでくれと請われた時に従ったのは、あの声で囁かれたから。
どうして声に弱いんだろう。聞いてしまえばもう駄目だ。
想いを篭めて、彼を見つめた。

あんたは誰なんだ?そして俺をどうしたいんだ。
ロイが自分に気づいたらしい。わずかに顎を引いて、目を眇めるように、こちらを見てくる。黒髪が頬骨にこぼれ落ちる。
すぐに視線は外されたが、それだけで息が止まりそうになる。顔を伏せて隠したい。この場で、そんな態度は許されなかった。
『全部取り戻したから、今度は俺が大佐の役に立ちたいんだ。大佐が自慢できるような錬金術師でいるからさ。だから、そばにいるの許してくれよ』
彼に呼ばれて、期待と喜びを抱えて逢いに行ったあの夜、そう伝えたかった。表面上その願いは叶った。彼のそばにいて、彼の錬金術師と呼ばれている。
けれどそれも、もうすぐ終わろうとしているのかもしれない。




ロイは自分の上官だ。総統府にいる限り、関わりを持たないまま、過ごすなどできなかった。許可をもらうのに彼の印章が必要になって、執務室を訪れた。
さっき式典で見かけた時は、まだ遠目だったから、どうにかなったに過ぎない。声をかけられる心配もしなくて良かった。触れられる可能性もなかった。
今は違う。
出迎えてくれたロイの顔をまともに見る事ができなかった。
こうやって間近で接するのは、あの七日間以来。それに、この間の夜の事を知られたわけではないのに、無性に恥ずかしい。体の奥が疼いて、どれだけ触れられていないんだろうと思ってしまった事を。
考えるのではなかった。それを恥じてエドの頬に血が昇る、心臓の鼓動が増すのを止められない。
自分の態度をいぶかしがったのか、ロイに腕を引かれ、顔を覗き込まれた。
「どうした、とうとう私の顔も見たくなかったか」
真っ直ぐに注がれる視線。あまりに鋭くきつい。見返すのが辛かった。気圧されるようだ。怯んだ事を知られたくなかったが、どうにもならない。
「違っ……触んなよ」
掴まれた腕が痛いわけではないのに、そこから伝わってくる指の強さと熱に肩が震えてしまった。

拒む声など、ただの虚勢。彼もそれをよくわかっているはずだ。
拒否の奥にある、自分の今の望みを。この手で触られたいと思ってしまう心が、どこかにあった。
「私はこんなものでは足りない」
嫌だとまた声を上げたが、どこかしら甘さを含んでいた。ロイも気づいて、密やかな笑いを滲ませてくる。
体温まで上がっていくようだ。いつの間にか、ここまで慣らされてしまった。触れられない時間が、熱を育ててしまっていたようだ。
「そろそろ満足しただろう?」
「何、がっ……や」
ロイの唇が頬を掠めて、耳元に触れる。俺を軍から引き離すつもりだ。とうとう来たか。しかしエドの予感は半ば当たり、半ば外れた。
「軍にいる事をだ。大切な君をいつまでもここに置いておくわけにはいかない」
大切だとか何を言っているんだ。白々しい嘘をつくなと、エドは咄嗟に笑う事ができなかった。声に宿るのはあまりに真摯な響き。そこには皮肉も嘘も、欠片とて混じっていないように感じた。

ロイは今どんな顔をしている。大佐と呟いて、エドはそっと顔を上げる。
視線を合うが、暗色の眼差しの奥に潜む感情を読む事は、やはりできなかった。彼の体を支配する大罪が、何故そんな事を望む。
聞いてみたい、どこまでが本当の彼の意思なのか。
もし少しでも含まれているなら、自分の事を好きでいてくれているのか。それとも嫌っていたのか。疎ましく思っていたのか?
大切だと言うのなら、何故こんな真似をして、居場所を奪おうとするのだろうか。

俺は大佐がすげぇ好きだったから、嫌われてるかもしれないなんて思った事なかった。でも俺の態度も何も最悪だったから。それに俺のせいで、大佐は命に関わる怪我まで負った。
彼の右肩の傷跡は凄惨なまでに残り、決して消えない。
「……何考えてるか、わかんねぇけど、あんたの言う事が全部嘘だってのはわかるからな」
必死で反論を試みようとすれば、掴んでいた腕を離され、代わりに頬に触れられた。彼の大きな手の平、硬い指先。慈しむように触れてなど来ないで欲しい。
「私の考えがわからないと?いつだって君を想っている。鋼の」
君は私の大切な錬金術師だ。想う事は許されない。だから代償を払ったんだと。
何も言葉にならなかった。エドは目を見開いて、ロイを見つめるしかなかった。惑わせるにしても、この言葉はあまりに酷い。自分を想っているなど。
「君に憎まれるという代償を払った」
何かを得ようとすれば、対価を要求される。望みが大きければ、それは等価では済まない。重い犠牲を強いられるのが、この世界の理だった。
「あっ……」
エドの唇から呟きがこぼれる。彼に呼びかける事はできなかった。

これ以上、ロイの言葉を聞いてはいけない。
まるでウロボロスなどいないみたいじゃないか。疑う度に否定してきた。彼が自分を騙すはずがないと。今も拒め、否定しろ。目の前にいるのは、人の心を持たない罪のはずだ。
エドはロイの腕を払いのける。ロイもそれ以上触れてこようとしなかった。視線を合わせて睨みつけて。そしてエドは男に背を向ける。

全てを賭けて、彼を取り戻すと誓ったはずだ。
誓えるもの全てに誓うと。ロイが何を仕掛けてこようと、迷ってとどまるわけにはいかなかった。


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