Deep dark of the night 3キスなんてリゼンブールで暮らしていた頃、母や弟にしたくらいでそれきりだった。数年も前の話だ。それにロイは家族ではない。 「君がそう言ってくれて嬉しいよ。故郷に帰るつもりかと思っていたから」 ロイは軍部に残る事を許してくれた。嬉しいとまで言ってくれた。 その言葉を喜ぶよりも先に、エドは無意識に身を引こうとする。けれど彼の腕の中に囲われたまま。 逃げた方がいいと、頭の中では警鐘が鳴り響いていた。それを抑え、踏みとどまる。感情に従うわけにはいかない。 逃げれば、彼を傷つける事になる。きっと冗談か、からかってるだけなんだ。そうだろう? 早く言ってくれ。大佐。 早く言ってくれ。 「……する相手、間違えてるぜ」 それか大佐、実は酔ってるんじゃねぇ?とありえないとわかっていながら問うた。 ロイは何も答えなかった。ただひたすらに見つめ、視線を注いでくる。目の前にいる男は誰だ。俺の、大事な大佐だろう。十一の時から知っている。誰よりも力になって護って、導いてくれた。 旅を続けられたのも、アルの体を取り戻せたのも、今自分がここに立っているのは、全て彼のおかげだ。 ロイの唇が開く。きっと冗談だ、すまないと今度こそ自分の望むくれる答えをくれるはずだ。 どうか早く与えてくれ。そして安心させて欲しい。 「私が怖いのか?」 静かな声だった。彼は冷静だ。これは遊びでも冗談でもない。本気だと予感が走った。 怖い?俺が大佐を。 そんな事はないと、首を振らなければ。 この世で一番に信頼している。手を差し伸ばして助けてくれた事を、感謝している。だから自分も彼を助けたいと思った。 エドの口から否定する言葉は出てこなかった。喉が凍りついてしまったようだ。そして体も動かない。怖れで手足は強ばってしまったままだ。 逃げる機会はこれで永遠に失われた。 怖がらないでくれと、囁く声がロイの声が与えられ、もう一度、口吻けを落としてくる。今度は触れるだけではすまなかった。歯を割って、舌が入り込んでくる。 頭を大きな手で掴まれて、唇を閉ざす事もできない。彼の舌で、自分のそれを絡め取られる。絡めて、くすぐるように舐められて。それから咥内を好きにあさられ、彼の唾液を流し込まれた。 口の中に溢れる体液。唇が離れた時、苦しくて喉を鳴らしてそれを飲み込んだ。余韻が残って消えない。 こんなキスをしたのは初めてだった。 そしてまだ終わらない。 唇を閉じられないよう、顎を掴まれる。また合わせられる。不快感はなかった。ただひたすら驚くばかりで、心臓が破けてしまうのではないかと思った。 ようやっと舌を開放される。もう無理だ。身をよじってロイの肩を押そうとして、負った怪我を思い出す。 下手に暴れるわけにはいかない。治りかけたロイの傷が開いてしまったらと思うと、それも怖かった。彼の血なんて、二度と見たくなかったから。 熱い舌が、自分の唇を舐めて離れていく。こんなキスを仕掛けておいて、ここで終わるとは思えなかった。自分が幾ら子どもでもそれくらいはわかる。 「……っ嫌だ。こんなの」 ようやく声が出たと思ったが、それはか細いものでしかなかった。 「私を嫌いになったか」 寂しさを滲ませるのは、彼の手なのか。嫌いなわけがない。ただ自分にこういう真似をしてはいけない。 「だって。こういうの、俺にするなんておかしいだろ。からかうのもいい加減にしろよ」 「からかってなどいない、鋼の」 ロイの言葉の意味がわからなかった。だったら本気だとでも言うのか。それこそあり得ないだろう。 何も言えずにいると、ロイはワイシャツの釦を外してくる、顕わになる首元、そして浮き出た鎖骨。 そこにエドは有り得ないものを見た。 左の鎖骨のすぐ下。浮かぶ黒い印。血の固まった傷跡、ではない。 純粋な黒で描かれているのは、六芒星に尾を噛む蛇。蛇は不滅と堕落を現すウロボロスの紋章だ。何故これが彼の体に刻まれているのかわからない。 俺はいつの間にか眠って、また夢でも見ているのか?だったら早く覚めて欲しい。そして現実に還りたい。 エドは腕を伸ばし、震える指で彼の肌に触れる。触れても痣は消えてくれなかった。そして伝わってくる彼の体温、これは夢ではない。 幻でもない。 現実だ。ならば逃げ場はない。 「私が助かったのは、この痣のおかげだ」 「……やめてくれっ」 エドは息を飲む。 ロイの中にいるのは誰なのか。表情も態度も、口調も何もかも彼なのに。 けれど、その痣がロイではないのだとエドに告げてくる。 人の体に宿り罪を犯す魂。七つの大罪の名を冠せられた者たち。全て滅びたと思ったのに、何故現れる。何故、ロイの体に。 宿ったのは器のなかった強欲だ。 熱いものが胸から喉へと込み上げてくる。こらえる事ができない。 目の縁が熱い。唇がわななく、金の両眼に浮かぶ水滴。眦にたまった涙はあっけなく頬へとこぼれ落ちていった。 「あっ……」 ロイは子どもの涙を見て、一瞬眉を寄せた。それはまるで苦痛に耐えているかのようにも見えた。 彼の前で泣いたのは、初めてかもしれない。ロイが腕を伸ばし指の腹で、こぼれ落ちていく涙をぬぐってくれる。その動作はこの上もなく優しかった。泣かないでくれと囁く声もまた。 その瞬間だけ、自分が数年接してきた、いつもの彼だと思えた。 彼が自分を傷つけた事などない。 そうだ、大佐は俺をからかってるだけなんだ。俺を庇って怪我なんてしたから、その仕返しに騙そうとしているんだ。俺が怖がって逃げようとしたところを、君はすぐに騙されると笑うつもりなんだ。 それこそがあり得ない可能性だった。この後に及んでそんな事を思いつく自分はやはり愚かだと、エドは涙をこぼしながら自嘲の笑みを浮かべた。 泣いたって、どうしようもないのに。ウロボロスが宿ったから、ロイは死なずにすんだ。刻印の力が治癒力を高め、傷を塞いだのだろう。これで最後にするからと思いを篭めて尋ねる。自分はつくづく未練がましい。 「なあ、大佐だろ?本当は俺を騙そうとしてるんだろ……」 問いかける声が震えるのを、押しとどめる事はできなかった。今だったら許してやるから、俺をからかった事と言葉を継ぐ。 さっきまで軽口を叩きあって、自分達の間に流れる空気はいつもと同じだったじゃないか。 子どもの問いかけに対して、ロイが一瞬口をつぐむ。 沈黙は長かった。待ったのはわずかな時だったのかもしれないが、その時は酷く長く感じた。 もう風の音は聞こえなかった、代わりにどこからか、時計の針の音がした。他にはどんな音もせず、世界は自分たち二人の間で閉じてしまったかのようだった。 ロイの答えを待つ間、エドは心の内で必死で祈るしかない。 望む答えを早く与えてくれ。あんたが俺の言う事を聞いてくれなかった事なんてないじゃないか。 いつだって、仕方ないなと笑って聞いてくれた。もうこれから先何も願わないからと、だから今だけ叶えてくれ。 俯けば、涙がまた頬を伝っていった。これは彼に甘えすぎた罰なのかもしれない。自分を庇って怪我などしなければ痣など負わずに済んだのだから。 涙が止まる事はなく、頤から落ちて、服に染みをつくった。 泣いたのはいつ以来だろう。あまりに昔の事で、思い出せなかった。 しかし幾ら祈り、泣こうとも、ロイから返ってくる答えは望むものではなかった。 「君を騙すわけがない。私以外の誰だというんだ」 ロイは口角を歪めて、笑みを形作ってくる。その表情を見た瞬間、彼ではないのだとエドは確信した。 嘘だと呟く。すると、どう言えば満足すると皮肉が返ってきた。 「望む答えをくれてやっただろう。これ以上何が欲しい」 その口で望めばいい、幾らでも欲しいものをやるからと、誘いをかけられる。 「……大佐から、出て行ってくれ」 取り込むなら自分にしてくれとすがる。媒体なら何だっていいはずだ。 俺は錬金術だって使える。そう役に立たないわけじゃないと、彼の腕を掴んで、その目を覗き込んで、エドは言い募った。 ロイはエドを腕の中に閉じ込めて、耳元で囁いてくる。 「私は何も変わらない。頼むからそんなに怖がらないでくれ、鋼の」 嘘だ、黒い痣がついてしまったじゃないか。 本当に叶えて欲しい事は聞いてくれないなら、意味がない。 腕を掴んでいた指の力が抜けて、ずるりと落ちていく。 「どうして、俺じゃ駄目なんだ…」 大佐の代わりに俺にしてくれと、涙混じりの声で呟く。 「君の体に、こんな痣はいらない」 肩を抱かれて引き寄せられ、涙をぬぐうよう頬へ口吻けられる。優しい唇。けれど拘束は狭まっていく、強くなっていく。 逃れられないように、ゆっくりと確実に。 きっと、この夜から抜ける事はできない。彼が離してくれない限り、囚われたままだと予感を覚える。 この部屋を訪れるまでに感じた不安を無視してきたのは自分なのだから。唇ばかりでなく舌までも奪われた、そして後は?先に待つ現実はきっと残酷なものだ。 「大佐は、本当は俺が嫌いだったのか。だから、こういう事しようとするのか」 ロイを縛る魂が、ロイの望みを叶えようとしているのだろうか。 だからこんな風に口吻けて捕らえてくるのではないか。生意気な子どもだから辱めてやろうという想いがあるのかもしれない。 問えば彼は笑みを浮かべ、首を振ってくる。否定したところで、どこまでが本心か。 辱める以外にどんな目的がある。こんな体を犯して何が得られるとも思えなかった。だったらこれは、遊びなんだろう。 人ではないものは残酷な遊びを好む。 「私は君を抱きたいんだ。そうしなければ欲が治まらない。誰でもよくなって襲ってしまうかもしれない」 そんな脅しをかけられたら、何をされようとも逃げられなかった。 自分がここで従わなければ、彼は言葉のとおりに実行する。もし人に知られたら、ロイの経歴と名に傷がつく。それくらいの計算はできる。今、取り戻す事ができないなら、せめてそれだけは護らなければいけない。 結局、自分にはその程度の事しかできないのだ。何でこうも役立たずなんだと、エドは心の内で己を罵って、また涙をこぼした。 泣いたところで、目の前に横たわる現実に変わりはない。ロイの肌にある痣は消えなかったし、眼差しにある欲ははっきりと見て取る事ができる。 自分を抱きたいという言葉が嘘ではないのだと感じた。 いつだって現実は、一番残酷な光景を形にしてくる。そこから逃れる術はなく、全てを受け入れるしかない。絶望を覚えたからといって死ぬ事は、できない。 だいたいこの程度の事で、死ぬなんて考えるのは馬鹿らしい。 好きな男に犯されるだけの話だ。 好きな。そうだ、ロイが好きだった。出逢ってからずっと好きだった。憧れてもいた。笑みも、銘を呼んでくれる声も。眼差しの強さも。全てが。 手を繋いでくれた事もあった。 彼の手は大きくて冷たくて、子どもの手は暖かいものだなと言って機械鎧の手を握ってくれた。 自分はあまりに子どもで、ロイを困らせるような事ばかり起こしてしまった。 その度に彼に呆れられて見捨てられてしまうのではないかと後悔した。 離さないから安心するといいと笑ってくれたロイ。だから、俺も逃げない。彼の心を取り戻さなければいけない。どんな事をしても。 この男が好きなんだろう、大切なんだろう。だったらこれくらいの事、耐えられるはずだ。 わかってはいても、涙がまたこぼれていった。 |