上官の躾 2



「可愛い声だったな。君の弟……アルフォンスだったか、彼が聞けばどう思うだろう」
自慢の兄がこんな声を上げると知ったら驚くんじゃないかと男は喉奥、低く笑う。
もしや彼は人ではなく、獣なのではないか。または悪魔。
神様を信じないと決めた手前、悪魔もいないと言い切らなければいけなかったが、彼が人だとはどうにも思えなかった。
だって俺に酷いことするし、酷いことを言う。俺を食うつもりでいるのかもしれない。

呆然としていると、鋼のと呼びかけられ、そこで我に返った。人が人を食べるわけがないのに何を考えているのだろう。
エドは舐められた頬を、慌てて手の甲で擦った。痛いくらいに。
こんなことしてただで済むと思うなよと怒鳴りたかったが、また舐められては困る。
ひとまずトランクを抱えて逃げた方がいい。

目線を合わせる為に、ロイは跪いてきた。距離が狭まったせいで肩が跳ね上がって、それが恥ずかしい。もう嫌だと繰り返し思った。
「私が言ったことは守らなければいけない、出来るか?」
出来るとも出来ないとも言いたくなかった。言質を取られたくないからだ。
「……アルは関係ねぇだろ。あんた酷い、最低だ」
「最低?私ほど優しい男はいないというのに、鋼のこそ酷いことを言う」
「俺が!?……っ何言って」
「傷ついたぞ、この責任はどう取ってもらおうか」
駄目だ。口では到底敵わない。
男は頬を傾け、顔を寄せてくる。笑いかける唇の端に覗く糸切り歯。人間くらい食べるのは簡単ではないか。
認めたくはないが、自分はまだ子どもだ。大人に捕まえられては身動きが取れなくなる。
従うのはプライドに障るが仕方ない。

大佐の言うことを聞くと、頷くしか道はなかった。あまりに意地を張っていれば、舐められるだけでは済まない。喰われる。頭からばりばりやられる。その両腕は自分を簡単に抱き上げてきたのだから。
「電話、する。手紙も書くからっ……大佐に」
悔しさゆえに声が震える。
「その言葉を待っていた。鋼のはいい子だな」
さすが私の錬金術師だと機嫌を取る上官を睨みつけても無駄だ。あまり怖い顔をしないでくれと躱されるだけ。
足がまだろくに言うことを聞かなかったが、覚えてろよとか何とか、そんな捨て台詞を残して執務室を出ていくことになる。
上官に対する口の聞き方ではなかったが、ロイはそれについては何も言ってこなかった。


廊下には自分一人、別棟に出るまで誰にも逢わない。門衛にもう行くのかと背に声をかけられて、こくこくと首を縦に振るのみ。司令部から早く離れるに限る。
エドはトランクを抱えて坂を下っていった。宿で待っているだろうアルの元へ帰る。
信用できない男に電話をしたって、有益なことなんてないのに。ロイだって時間の無駄ではないだろうか。
大佐は忙しいんだから俺と電話で話したりするの面倒だって思うはずだ。手紙を送っても読むか怪しい。
しかし約束を破るわけにはいかない。旅が続く限り、これから先、幾度も東方司令部を訪れるのだ。命令を無視したくらいで食べられるのは割に合わない。いや、食べられるなど有り得ないことなのだから、いい加減その想像を振り切らなければ。
舐められた頬を歩きながらごしごし擦った。こんなことされたの初めてだ。
アルの名前まで持ち出しやがって。
悲鳴を上げたことを弟に知られたら一生の恥だ。兄として弟を守っていかなければいけないのに。
大佐の卑怯者、大佐の馬鹿、アホ、間抜け。
これでは駄目だ。もっと良い罵りの言葉を考えるとしよう。同じ言葉を繰り返し思うようでは、自分こそ愚か者に成り下がってしまう。

愚か者ではないが、いい子でもない。人体錬成という禁忌を犯したせいで罰を喰らって、故郷を離れる羽目になったのだから。それなのにロイは、いい子だと言う。
銀時計を渡された時、これで君は私の錬金術師となったと告げられた。実質、彼の助けがなければやっていけなかったので反論せずにいると、鋼のはいい子だなと彼は笑った。
俺がすげぇ悪いことしたって知ってる癖に、そんなこと言う大佐は何を考えているかわからない。だから怖い。怖いとは認めたくなかったので、信用できないという気持ちをすり替えた。
けれど電話を掛けたり、手紙を送るように命じられる。
俺のこと心配してるみたいに錯覚したら困るからやめて欲しいのに。結局、胸に思っていることを一つとして声に出来ず、司令部を出てしまった。
再会は一か月後か、二か月後。
随分と先のような気がしてしまって、その時またどんなことを話すのか思い浮かばなかった。





面会時間は一時間と決めて予定を空けたのだが、大幅に余ってしまった。顔を合わせて、ほんの少し言葉を交わしただけ。
本当は旅の話をもっと聞きたかった。もつれる足を見れば、これ以上構うのも可哀想に思ったので逃がしてやるしかなかった。

ロイは床から立ち上がり、椅子に深く腰掛ける。机の上に足を乗せたいところだったが、それは我慢した。ホークアイがコーヒーか何か運んで来るはずだ。
彼女を待つ間、何とはなし自身の手の平に視線を落とす。思っていた以上に体は小さく軽く、簡単に持ち上がった。機械鎧を身に着けているせいでもっと重いような気がしていたのだが。
あれなら抱き上げたまま運べる。ふにゃふにゃした悲鳴を上げて可愛らしかった。
親友の娘は別として、子どもをこうまで可愛いと思ったのは初めてだ。口からこぼれる文句は小鳥のさえずりのようで、その中に指を入れてみたくなったのは秘密だ。
そうしてエドが出ていって十分もしない内に、扉が叩かれる。

応えて視線を向けると、予想とは違う姿が先にはあった。金髪の男が小さな盆を抱えている姿は笑いを誘うものがある。
「代理です。中尉から託かったんで」
室内を見たハボックは訝しげに首を傾げた。
あのちっこいのはどちらですと敬語が入り交じった口調だ。国家錬金術師は少佐相当官に当たる。軍部は階級が全ての縦社会。エドがどれだけ幼くとも、ハボックにとっては上位の人間だ。
「行ってしまった。子どもの相手は初めてで難しい、思うようにはいかなくてな」
「大人とじゃ理屈が違いますからね。俺んところは兄弟たくさんで。あの年くらいのを見ると弟を思い出しますよ」
どうぞと机にカップが置かれる。白い器に映える鮮やかな紅色からは甘い匂い。子どもの好みそうな匂いだと感じた。
上等な茶葉は軍の備品ではない。副官の私物ではないだろうか。その上、カップの横にはキャンディも添えられていた。
「これは?」
「錬金術師殿にってことだったんっすけど、いないみたいですから。良かったらどうぞ」
次はもっと別のものを用意するそうですよと教えられる。鋼の錬金術師が訪れて喜んでいるのは自分一人ではないようだ。

大人の中に子どもが紛れ込むのは滅多にない、特別なことだ。
包み紙をほどいて口に放り込む。舐めているのも面倒で噛み砕くと甘ったるい味が口内に広がった。水が飲みたくなる。
美味いとは思わないが、エドが好むなら慣れた方がいいのかもしれない。
東部の端であの子どもを見つけたのは自分だ。一番に頼って欲しいと思っていながら、この有様だった。
子ども二人の旅とあっては何が起こるかわからない。無事でいるのか、電話を掛けて欲しい、手紙を寄こすようにと言ったのだが反発されたので今日はやり方を変えてみた。
約束を守るとエドは頷いたが、それもいつまで持つか。すぐに翻すのではないか。

「理屈が違うというが、鋼のは私の言うことを全く聞こうとしない、困ったものだ」
何気なく言った言葉にハボックは少し困ったような顔をするので、どうしたのかと視線で問う。
「俺が言うことじゃないのはわかってるんっすけど、相手はまだ子どもですから。その……手上げるとかってのは」
思ってもみなかった返答に、わずかに目を見張ることとなる。
「無論、体罰を与えるつもりはない」
そう告げると、気のいい男はほっと息をつく。
軍属とはいえ幼い子どもだ。約束を破ろうと、勝手をしようと叱責を与えるつもりはない。抱き上げてからかうくらいだ。落とされると思ったのか、必死でしがみついて来た様を思い出す。次いで悲鳴を上げさせるような行為をしたことがよぎった。
部下が想像していることと、自分が行ったことには大きな隔たりがある。
頬を舐めたのは言わずにおこう。



士官学校時代、外れの教官に当たれば、殴られ蹴られたりしたものだが、そんな真似をしてたまるか。
あの小ささだ。手を上げたが最後、骨が折れるかもしれない。抱き上げた時、腕に余るほどだった。
傷つけずに守っていきたい。その為にも動向を知る必要があり、連絡が欲しかったのだが、子どもに伝わらない。
心配していると、その一言で済むことにも気づかなかった。

しかし少し舐めただけであの反応なら、噛んだらどうなるのだろう。飴を噛み砕くように強くではない、痛みを与えないように、甘噛み程度ならいいのではないかと質の悪い考えが浮かぶ。
子どもの相手をすることに不慣れな男は、その行いで泣かせることとなる。


上官としての躾もほどほどに。
いつしか口に含んだキャンディよりも甘い態度を取っていくことになるのだから。


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