Fight 5



自分が十三の頃の話だ。
正直、あの頃の思い出は、苦しさと痛みに満ちていたけれど、彼がいてくれたことによって随分と救われた。
どれほどの優しさを、助けを与えられてきたか、時が経ち、ようやく思い知る。
あの頃、もっと素直に感謝の言葉を伝えられていたら、ここまでの後悔は覚えなかっただろう。
今はもう言えない。
大佐、俺すげぇ嬉しかった。家族になろうって言ってくれて、本当に嬉しかった。大佐と一緒にいられるなら、俺は幸福過ぎて、いっそ死んでしまうかもしれない。
胸の内で呟いた。この状況では声にすることは生涯ない。

エドの身の内から、眠気が去っていく。そっと目を開ければ、月明かりが部屋を透かしていた。白々とした半月が、虚空に輝いている。
明日、明後日になれば欠けていた部分が露わになり、いずれ満月になる。
官舎のベッドは相変わらず固く、寝心地は最低だったが、構うほどではなかった。所詮ここは仮の住まいだ、いつまでもいるわけではない。またすぐに地方へ派遣されるはずだ。
一つ所に留まらず、旅をしていたあの頃を思い出す。弟がいないのが違うことだった。遠くにいても、いつだって幸せを願っている。
顔が見たいと思ったけれど、逢ってしまえば、きっと離れられなくなる。

リゼンブールには戻れない。内乱で両親を失い、ウインリィは軍人を嫌っている。軍部に残ると告げた時の悲しそうな顔。それでもあたしはエドの技師だから、他の人には見せないでねと言ってくれた。
そうだ。俺が壊すたびに何度も直してくれた。
毛布の中から左腕を上げ、頬に触れてみると、朝殴られた箇所は、もう熱が引いていた。やはり手加減してくれていたんだろう。弟も幼なじみも、ロイも皆優しい。
手を上げる方が辛い。けれど簡単に軍から抜けられない所まできていた。
直轄府が独立機関であることに助けられた。彼も早々手出しできないに違いない。あんたはそこで見ていて欲しい。俺は裏切らない、死ぬまで戦うから。

右手には銀時計の鎖を絡めておいた。これは彼から与えられたもの。誰にも奪われないように、いつも眠る時はそばに置いてある。
エドは銀時計を開けた。蓋の内側は滑らかで傷一つない。刻んだ数字は錬成で消した。
見たのは、結局ウィンリィだけだ。弟にも最後まで明かさなかった。文字を消したのは、誰かに見られた時のことを考えて。年月を知られ、そこから辿られることを怖れた。
自分には敵が多い。
認めてくれてる奴も増えてはきたけど、俺のこと、疎ましく思ってる奴もやっぱりたくさんいる。この才能が妬ましいんだろうと、嗤おうとしたが上手くいかなかった。
溢れる才能と人は言うが、これしかできない。
中尉や少尉のようにたくさんのことができる方が何倍もいい。
表面には国家錬金術師の証、六芳星に囚われた獅子の紋章を怖れるほど、子どもでもなかった。
昔、刻んだ文字を見られたくなかったのもそうだが、怖くて使いたくなかったのだ。自分を縛る軍の象徴を。

窓から入り込む月明かりが、硝子盤に反射して、時刻は何とか読み取ることができる。
夜明けはまだ先だ。後、数時間眠れる。寝ておかなければ体がもたない。
毛羽立った毛布を引き寄せた。夢など見ないように深く眠れ。その先、待ち望むのは灼熱の陽だった。夜など蹴散らして、早く陽が明けてしまえばいい。どこだって戦いに行く。
「だからさ……」
呟いた声は、掠れて乾いて、言葉にならなかった。
聞く者はいないとわかっているのに、つい声にしてしまいそうになった。エドは唇を閉ざし、喉奥に殺す。もう誰もいない。
寝なければいけないのはわかっているのに、なかなか眠りは身の内に落ちて来なかった。
家族になろうと言ってくれた彼も、いまや准将の椅子に座っている。
少将、中将、大将。元帥。左の指を折って数えていく。大総統への階段を。
隻眼の男は滅びてしまったが、一人沈んだからといって、そう易々と手に入る地位ではない。
行く手を阻む者達は数知れなかった。だが胸に潜めた野望が叶うまで、後少しだ。自分もまた待ち望んでいる。

先日、遠くから見た、隣に並ぶ女とは対の人形のようだった。総統府の庭園を連れ立って歩いていたということは、どこかの軍閥の娘か。この世界において血筋は重要だ。
回廊から見つめる自分こそ未練がましい気がして、早く立ち去らなければと思ったのだが、なかなか足が動かなかった。これほどの距離があろうともロイは気配に聡い。あまり見つめていれば気づかれ、疎まれてしまう。それでもエドは顔をそらせず、すがるように目で追った。
自分が立ち去るよりも先に、彼らは噴水の影に消えていった。大理石の台座から湧き起こり、跳ねる水粒が濃紺の軍服を霞ませる。
時間にすれば数瞬のことだったがやけに長かった。一瞬が数刻のようにも感じられた。
最後まで場を動くことができなかったのは、女に向ける優しい眼差しが、昔、与えられたものと同じだったからだ。
ロイは連れ立っていた彼女と家族になるのだろうか。
それはそうだ。俺と家族にはなってくれない。当たり前のことだ。
エドは顔を伏せ、床に佇む己の軍靴を見つめた。暗い影が落ちている。吹く風が頬をくすぐり、金の髪を揺らした。
目元にかかって邪魔だ。指を折り、手の中に握り締める。爪が皮膚に喰い込む。これよりもっとはっきりした痛みが欲しい。疼くこの心を抑えられるような、痛みが。理性で割り切ろうとも感情がついていかない。
『俺は大佐の錬金術師だ、ずっとそばにいてやるよ』
あんな言葉を言えた過去がいっそ懐かしい。

彼の夢を見て目覚めたせいか、思い出が連鎖するように脳裏をよぎっていく。早く寝ろとこれだけ言い聞かせているのに体は従わない。
昔は馬鹿なことを願った。大佐と家族になれたらいいのにと、真剣に願った。ロイは冬の夜に約束をくれた。そうしてキスもくれた。触れてくれた。
大佐は忘れてないんだと信じられた。家族になるという言葉の代わりを、俺も中央で伝えたんだ。そばにいるって。
でも俺のことを使ってくれない。
だから今は代わりの願いがある。それは願いなどと脆いものではなく、決意であり誓いであった。賭けるものはこの命だ。
あんたをもう誰の前にも跪かせない。膝を折らせたりしない。
早く見たい。軍装に剣を下げ持つ姿。きっと似合うだろう。誰よりも相応しいはずだ。
必ずこの眼にしてみせる。叶うなら、明日死んでもいい。それさえ見れば、もう目覚めなくていいと思っている。


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