Fight 3



扉を叩けば入室の許可がかかり、中に踏み込むと、ロイは窓際に立っていた。
こちらを振り返ってくる。女が好みそうなきつく整った顔は出会った頃から変わっていない。見る度、好きだと思う。
軍の一室に立つと、ここが中央なのか東方なのか、今でもわからなくなりそうだ。
朝に相応しい静謐な空気。窓をすり抜けて入り込んでくる陽は、いっそ煩わしい。辺りの物に反射して生み出される煌きが、眼に眩しかった。
一歩、一歩。歩み寄って行くたび、彼の抱く苛立ちが感じ取れた。先ほどから一言も口を聞いていない。自分に向かって伸ばしてくる腕。
抱擁か、暴力か。抱きしめる腕なら拒もう。痛みなら受け入れよう。
振り上げる手を避けもせず、エドはただじっと見つめた。室内の空気を乱して響く、激しい音。それでも手加減をくれた方か。
本気なら、多分歯が折れていた。前に殴られた時は、地面に吹き飛ばされた。手をつきそうになった体を、どうにか立て直す。ここで無様に倒れるわけにはいかない。
ロイに手を上げられるのは、これで二度目だった。
一度目はこの中央で。ロス少尉の死を偽装する彼を追いかけて結果、その計画を無に帰そうとした故に。ならば今は。
直轄府に使われている罰だ。

「……顔は、やめろよ」
一言喋るたび、口の中は痛みが増していく。切れたせいで、赤い酸味が広がった。吐き出してしまいたいのをこらえて、エドは血が混じった唾を飲み込む。
「女のような台詞だな。やめて欲しいならどうすればいいか、わかっているだろう?」
容赦のない嘲り。言われてみればそうだ。
俺、あんたの女みてぇなもんだし。
でも、そういう真似を、他所の狗となってからはされていない。ロイは飽きたのかなと、頭の端で思った。体を売ってるとか馬鹿な噂のせいで、疑われているのかもしれない。
「痛みを怖れるなら、何故私の言うことを聞かない」
体の痛みなどどうだってよかった。

死なない限り、いつかは治るのだから。彼だってわかっているはずだ。自分がどういう意味で言ったのかを。
あんたのそういう甘いところ好きだよ。
どんな手段を使っても、自分を安全な所へ置いておこうとする。安全な場所というのは故郷なんだろう。俺は遠く、あんたを待つしかないのか。
中尉や少尉みたいに、俺のことどうして使ってくれねぇんだ。昔よりは役に立つようになった。なあ、違うのか。そうじゃないのか。あんたにとったらまだ足りないのか。いつになったら利用してくれる。錬金術くらいしか俺はできないんだ。だから使ってくれよ。
欲してやまない。幕僚の立場に立つことは、どうしても出来ないらしい。
それでも自分の心は変わらない。
心許した者へ与える情や笑み、声。少し荒れた掌。凛冽な両眼。彼の全てが好きだと思う。
「……俺が、こんな顔腫らしてたらさ、あんたしかいねぇだろ。外聞とか悪くなるだろ」
直轄府と、マスタング。二重の手綱をつけられた狗と呼ばれているのだから。
顔以外ならどこでもいい。腹だろうと足だろうと蹴りつけてくれていい。
ロイは喉奥からの哄笑を聞かせてきた。
眼で値踏みして、口元を歪める。下卑た印象に見えないのは、何故だろう。
取られた腕ごと体を引き寄せられた。彼の体温、匂いが近づいただけで心臓が震える。哀れな恋情は一生消えてくれそうにない。
「相変わらずか、鋼の。私の眼を盗んで北部へ向かったようだが、どうだった」
低い声が、自分の銘を呼ぶ。彼のものである証だった。ロイが言ってくれたのだ。君が私のものだと知れるように私だけが呼ぼうと。

「どうだって……何もねぇよ。報告書が必要なら、あんたにも明日、上げとくし」
「昇進が望みか。勲章が欲しいのか?……銀時計では満足できないのかね」
お前がそんなことを望むはずもないと断言する鋭さがあった。
「望みくらい俺にだってある、大佐」
エドは囁くよう、呟いた。語尾は消えかかるほど細く、ロイの耳には届かない。届いてはいけない、彼を差す名称としては、それはもはや相応しくなかった。
階級に固執するのは、あの頃の関係に戻りたいからなのか。その考えを押し殺すよう、エドは数瞬、眼をつぶる。
数年前は弟の躰が欲しかった。ならば今は何をあさろうとしているのか。
「望み?」
問い返す彼にエドは伏せていた眼を、ゆっくりと上げる。
藍とも黒ともつかぬロイの眼差しが、そばにあった。
時さえ経てば、もう少し対等に並べると思っていたのは、自分の自惚れだったらしい。
見上げなければ届かない。今も負う機械鎧が成長を留めているせいで。それは十二分にわかっているが、だからといって手放せるわけもない。
これはもう自身の一部だった。死ぬまで負っていく罪業だった。
先ほどのか細い声が幻だったかのように、エドは強く言い切る。
「あんたをもう誰の前にも跪かせない」
それは願いなど脆いものではなく、決意であり誓いであった。賭けるものはこの命だ。
叶うなら明日死んでもいい。
「君がどうしてくれる」
どれだけの心を篭めて告げようと、彼の返答は嘲りを宿していた。

一年前、同じような約束を交わした時、ロイは笑ってくれたのに。
俺は大佐の錬金術だ。借りを返すのに、そばについていてやると言うと、君への貸しは多い、私は長生きしなければいけないなと。
故郷に帰らず、軍部に残った。そこから軸がずれてしまったのだ。ロイは自分を厭い、遠ざけようとする。駒として使ってはくれない。
そばにいると言って、喜んでくれたのが嘘だったのかと問うこともできない。
彼の言う『そば』が故郷なら、あまりに遠すぎる。





「誰か、連絡しておく人はいるかい?」
当直の兵であろう男が、エドにむかって話しかけてきた。定年まぎわの年ではないだろうか。五十代か六十代か。考えてみても、男の年はわからなかった。他の人間は面倒事はごめんだとばかり、どこかに行ってしまったようだ。
冷えた廊下に並べられた椅子に、ぽつんと座っているのは自分一人だった。軍部の椅子は押しなべて硬い。総統府はあんなに豪奢だというのに。あそこは別格だ。
今いるのは地方の軍司令部だった。東方司令部よりも、建物がこぢんまりとしている。
真冬の今。建物の中でも空気は凍りつきそうなくらい、冷えている。借り物の上着では、暖を取れそうになかった。
自分のコートも上着も血まみれで使い物にならない。後ろも見ずに、突っ走ったせいで、雑魚みたいなやつにやられた。石の情報を焦るあまり、愚かな振る舞いをしてしまった。
突きつけられたナイフは、エドの脇腹を掠り、赤い花が飛び散るように、血液がばらまかれたのだ。

事情を問われたついで、今日一日は軍に留まるようにとのこと。長くは留まれない旨を伝えると、明日の朝一番で、調書を作成すると請け負ってくれた。
本当はその時間すら惜しかった。
せめて一日は休んで、傷の様子を見ないといけないこともわかっているけれど。
『アルは先、宿に戻ってろよ。俺は大丈夫だから』
心配性の弟にはそう言ってある。だから平気だ。、血が足りないのか、眠る場所を求めて歩き回る気力もなかった。
その時、老兵が無骨な手で、牛乳を運んで来てくれた。
一口だって飲めないほど牛乳は嫌いだが、拒むことも出来なかった。優しい気持ちを無碍にする。
カップを手に抱えこんでいると、じっと視線を注がれた。

「誰か、連絡しておく人はいるかい?」と暖かい声がエドの耳元に落ちてきた。顔を上げれば、自分の答えを待っているようだった。
連絡をするなら、家族にだろう。
家で待っている家族はいない。家もない。自分には弟だけだ。そう断ろうとして開いた唇は止まった。
……ピナコ婆っちゃんに。それは踏みとどまる。ウィンリィにも余計な心配をかけるだけだ。痛いというのは簡単だが、言われた相手は困るだろう。


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