世の中には信じてはいけないものがたくさんある。
人を見たら疑ってかかれとは言いすぎかもしれないが、綺麗なものや清いものばかりで、世界が成り立っているわけではないのだ。
そんな信じてはいけないものの一つ。
経験豊富な男の言葉。
特にどこか東部の司令官。醜聞甚だしい焔の錬金術師なんて、かなりの注意が必要だ。


Sweet heart 1



これで東方司令部を訪れるのは何度目だろうと、エドは何とはなし考えた。
平均して一か月か、半月に一度。今年に入ってからは……と数を数えてみれば、そう多くはない。けれど季節が移ろい、年数を重ねていっても、いつだって変わりなく皆は迎えてくれる。
軍という完全な大人社会の中に子どもが紛れ込んでくるというのは、それだけでちょっとしたイベントなのだ。
鎧の騎士に子どもという組み合わせが訪れるたびに、皆構いたくて仕方ないという態度を見せてくる。

今日も今日とて訪れてみれば、あれを食べろ、ちょっと寄っていけなど、ついつい引っかかって彼らの中に紛れてしまい、ハボックがそれを見つけ、まだ大佐の所に行ってやってなかったのかと、問いかけてきた。
「大佐だって別に俺のこと待ってる暇ねぇだろ」と思ったままの言葉を口にすれば、ハボックは苦笑を浮かべる。
年を取るにつれ大人は寂しがりになっていくものだということを、子どもはまだ知らない。
全く、上官も報われないものだ。これでは焔の錬金術師の名が廃るだろう。
散々、醜聞を流して他人の女を惹きつけ、人の恋路をぶち壊しておきながら、子ども一人思い通りにできないとは。
それをからかいのネタにした日には、二倍、三倍になって復讐されるのは目に見えている。

「とりあえず俺らの為にも、早く行ってやってくれ」とハボックはエドの頭を軽く叩いて、髪をかき混ぜるように撫でてやった。
大佐以外にならそう意地を張ることない子どもは、ハボックの声に後押しされる。
そうしてとどめは弟だった。
「兄さん、ここで待ってるから早く行ってきなよ」と言われれば、エドにとって行かざるをえない状況の出来上がりだ。
いくら違うと言っても、弟は気を回すのを止めようとしない。
もしかして大佐にあることないこと吹き込まれたのではないかと、疑いたくなる時がある。
あの男なら、それくらい罪悪感の欠片もなくやるだろう。
実際のところ、一般人である弟が軍の中枢まで入り込むことは許されていないので、一人で彼の元に行くしかないのだが。
……仕方ないからそろそろ大佐の顔、見に行ってやる。
意地っ張りな子どもは、久しぶりに逢う大人は何を言ってくるだろうと内心、気にかけた。変わりはないだろうか。油断も隙もない、澄ました顔で笑いかけてくるだろうか。
そんなことを考えつつ歩いていれば、いつの間にか執務室の前に立っていた。
銀時計がなければ逢いたいと思っても、そうそう簡単に面会の叶う相手ではないのだ。彼に飼われた錬金術師という立場によって、それが許されている。


「大佐?」
まずはノックを二回。
照れくささが混じって、乱暴になってしまうのを否めないけれど、そう呼びかけ、エドは扉を開けた。
隙間から覗き見る、光景は相変わらず。
今日は一つだけ違う。ロイは頬杖をつき、顔を伏せていた。普段だったら、すぐに立ち上がって声をかけてくるのに、それもない。声は届いているはずなのに。どうしたんだろう。もしかしてこれは無視されているんだろうか。
いつも乱暴な言葉で返して、ろくな態度を取らない自分への意趣返しか。
「大佐、なぁ」
もう一度呼びかけながら、エドはデスクへと近づいていった。
入室の許可を与えていないと言われたら、それはその時に考えるとしよう。けれどすぐに彼が答えを返して来なかった原因が判明する。
……寝てる。
ロイは額に手を置いて、頭を支えて、目を瞑ったまま。これは随分と珍しいこともあるものだ。
ここ最近、忙しかったのかもしれない。自分の前ではそんな様子を見せないが、あまり家に帰っていないと知っている。
起こすのは何となくためらわれた。

少し睡眠を取るだけでも随分と違う。邪魔するわけにもいかないから、引き上げようか。どうしようか。
エドは手の中に握り込んでいた報告書を思い出す。とりあえず置いておけば目が覚めた時に見るだろうと、それを口実にして、ロイのそばへ立った。
顔を覗き込む為に。
本音は寝顔が見たいと、ただそれだけ。
ハボック少尉が前に言っていた。大佐は死んだように眠るから、時折不安にさせられるのだと。息をしているか、していないのか、それがわからないくらい静かに眠ると。
本当だ。
少尉の言っていたことは。
一見して、寝ているかどうかなんてわからない。ただ瞼を閉ざしているだけにも見える。密やかすぎて怖いくらいで、反対に起こしたくなった。鋭い両眼が潜むと、まるで別の顔のようだ。
大人の寝顔を、エドはじっと見つめる。
早く瞼を上げて欲しい。黒に近い、濃藍の両眼を見せて欲しいと心に浮かぶ。
自分とは正反対の色味。目だけでなく髪も、肌さえ違う。それを見るたび、何となく不思議な気持ちになる。

起こしてはいけないということは、わかっている。
だって気配に聡い大人がこんなに自分がそば近くにありながら、目を覚まさないなんて、余程疲れている証。
それでも、……それでも少し触れるくらいだったら。頬に触れるくらいなら、いいだろうか。
起きている時だったら、そんなことをすれば、ロイに何を言われるか。からかいの言葉を投げられるに決まっている。けれど今だったら何も言われないし、誰も見ていない。
悪いことをするわけではないのに、妙に心が騒いで仕方なかった。
エドは左の手袋をそっと脱いで、生身の肌をさらす。ためらいの気持ちは未だあったが、やはり好奇心には勝てない。
まずどこから行こう?頬か額?髪?
いつのまにか自然と口元には、笑みが浮かんだ。次いで昔、弟とした悪戯を思い出した。近所に黒い獰猛な犬がいて、それに触れるかどうかと二人、度胸試しをしたのだ。
簡単に人に触れさせない、心を許さない。彼にはそういったイメージがどこかしらある。
迷ってばかりいるのも、もったいないのでとりあえず頬から行くことにした。
肉のない、鋭いラインをエドは指で辿る。

その後は、目元にかかった髪を払ってやった。しなやかな黒い色の髪。ためらう気持ちは薄れていって、どんどん楽しくなる。
もう一回くらいなら。そう思い、手を伸ばしたのに。
次の瞬間、彼の唇が息を吐くように震えるのを見た。そうして瞼が上がる。
潜んでいた昏い両眼で、真っ直ぐに見つめられて、何をしているのかと尋ねる代わりに与えられた言葉は。
「……ああ、ここに」
いたのかと、安心するように、ロイは腕を伸ばしてくる。肩を囲われ、あっという間に抱きこまれ、突然の拘束にエドは驚きのあまり、目を見張った。

突然の拘束に、エドは言葉もない。
触れていたことを気付かれただろうか。しかし叱責ではないのだろう。
失くしたものを見つけたように、探していたものを手に入れた時のように、ロイは息をついてくる。
抱き込まれたせいで顔は見えなかったが、気配でわかった。腕の中に囚われたままで、身動きが取れない。こっそり触れていた負い目があるせいで、普段のように喚いて突き放すこともできない。
いや、ちょっと待て、これは誰かと間違えているということはないか。
名を呼ばれたわけではない。寝起きなんだから、寝ぼけていることだって有り得る。
勘違いされていたら、それは嫌だ。誰かと。

嫌だ。
その可能性を思った瞬間、そばにあったロイの体を突き放した。
「あんたな、間違えてんなよ!」
威嚇のつもりで睨みつけてやったが、ロイにとってはその意味こそわからなかった。
違う女の名前を呼んだわけではない。一体何を子どもは怒っているのか。再会して間もないというのに。
抱きしめたくらいで、他に怒るようなこともしていないだろう。自分が、目の前にいる一番大事な弱みである子どもを間違えるはずもない。それともこれは疲労のあまりに見た幻か、白昼夢だとでもいうのだろうか。

そばに誰かいると気配を感じて目を覚ませば、いるはずのない子どもがいて、最初は何の錯覚かと思ったくらいだ。いなくならない内に咄嗟に腕の中に囲うと、返ってきた体温は暖かく、ようやっと安心できたのに。
間違えるなと言われて、どうすればいい。
言葉が足りなかったか。名を呼べばよかったのか。
「……間違えた?誰とだ?」

珍しく心底わからないというロイの表情を見て、エドも勘違いに気づいた。
大佐は間違えたわけじゃない。自分を捕まえようとしたのだということを。いたたまれなくなって言葉を失った。
恥ずかしい、こんなことなら誰かと間違えられた方がましだったかもしれない。

そんなエドの気持ちを知ってか知らずか、ロイからは普段どおりの挨拶が返ってくる。
いつ着いたんだいと低く甘い声を与えられながら、緩く腕を引かれた。何をするつもりかと逆らう間もなく、彼の膝に乗り上げることに。
逃げようにも腰に腕を回されて、そうそう簡単に振り切れない。近くで見るロイの顔は、相変わらず整っていて、隙がない鋭さが潜められていた。
何だかこの顔を見ていれば騙されそうになるが、これは変だろう。
いつもの調子で、膝の上に乗ることになってしまったものの、自分はもう十五にもなる。男の膝の上に乗っかるなど、絶対におかしい。
ついでに思い出すことが一つ。小さい頃にこっそりと見た白黒映画。出て来た女性がねだるように、こんな姿勢を取っていたような記憶がある。あの時は意味がわからなかったけれど。今ならわかるから。

「何すんだっ、大佐」
必死で拒もうとするのも、当然至極のこと。
嫌だ、触るなとばかりにエドは喚くが、ロイにとってそれは本気ではないと気づいている。
「いいから。とりあえずおいで」
「何だよ、この体勢。降りる、俺」
「君の話をゆっくり聞く為だろう?」
「……そんな場合じゃねぇだろ。居眠りしてたくせに」
万年無能だって言われたいのか。
容赦もない言葉が、子どもの口からは矢継ぎ早にこぼれる。
「見られたのは一生の不覚だな」
膝に乗り上げた、この状態で何を言っても無駄だ。男は気にした風もない。
「もう、いいから離せよ。それで黙っててやるから」
「言いたければ言えばいい。皆同情してくれるはずだ」
連日に渡って、激務が続いていることは周知の事実なのだから。
「取引にはならないと思うが?鋼の」
口角をゆがめるような笑み。本当に一筋縄ではいかない男だ。
「だいたいそれは私が言うべき言葉だろう。君を離してやる代償は?」
気づけばあっという間にロイの都合の良い方へ、話をすり替えられる始末。
エドは唖然とし、言葉も出ない。口を開けたり閉じたりしていたが、このままではいられないと反論の声を上げた。
「こんなことにまで、そんなん言うようになったのか!大佐は」
いつからそこまでがめつくなったと噛み付けば、ロイはわざとらしくため息をつく。
「君の言う等価交換を真似てみただけというのに、つれないな」
ああ言えば、こう言う。この男はその言葉の見本だ。
これ以上言い合ったところで、泥沼に落ち込むのは目に見えている。黙ったままでいた方が、いいということもわかっている。
ロイにとっては、誰と間違えているのかと言ったことへの軽い意趣返しなのだろうけれど。

「つれないとか、とりあえずいいから。…っ離せよ。大佐」
腰に回っていたロイの腕が上がり、指先で背を辿られる。そんな触れ方やめて欲しい。焦るばかりで、他の言葉が出てこなくなる。
罵詈雑言を投げかけてやりたいのに、上手く行かないなんて。
「離して欲しいなら、どうすればいいと思うかね?」
「こ、こ。こんな場所で、抱、抱っ……する気か。あんたは」
一気に飛躍したエドの発想に、さすがにロイも目を見開く。
真昼の執務室で、手を出すわけがないだろうに。
抱くという直接的な言葉一つも口に出せずに、エドは息を詰まらせ、目元を赤く染める。まるで毛を逆立てた動物のようだ。
こんな稚拙さに落ちるのは自分くらいのものだろう。心から参ってる、重症だ。
「ではどこまでだったら許してもらえる?」
「……全部、駄目に決まってんだろ」
「全て駄目だと言われれば、余計に煽られるものだよ」
少しくらいは許すものだ。
そんなロイの言葉に、エドは恨みがましそうな表情を見せる。

……こんな男の寝顔を見たいなんて願うんじゃなかった。つくづく馬鹿な真似をした。
それでも大佐は俺が近くにいただけだと思ってるらしいから、まだいいけど。
頬に、髪に触れていたことまで知られたら、この程度では済まなかっただろう。口を閉ざしていると、ロイもそうそう無茶なことを要求してはこない。ならばキスをと請われれば承知するしかなかった。
この男の望む口づけが親愛の情を示す為の、頬や額へのそれではないだろうが、今は言うことを聞かなければ。
一体何故こんな羽目になったのか。
「じゃあ……目、つぶれ。それくらい大佐も聞けよ」
エドの示してきた条件に、ロイは目を眇めるような表情を作ったが、結局はその言葉に従ってやる。
鋭い両眼が潜めば少しはどうにかなるかと思ったが、それはエドの見当違い。目を瞑られると、余計に緊張してしまった。先ほど見た寝顔が脳裏にちらつく。
あのまま寝ててくれりゃよかったのに。その方が俺の好きに出来たのに。

手をどこに置けばいいかよくわからなかったので、エドは両手で男の肩をぎゅっと掴んだ。膝に乗り上げているおかげで、自分の方が目線が高い。
これじゃやりづらい。顔を傾けて近づいても、上手く唇を合わせられない……。
「もっと。顔上げろ。これじゃできねぇって」
「注文が多いな。鋼のは」
低い笑いを含んだ声を与えられ、この野郎と腹立ちと同時、緊張が増した。変な冷や汗が出そうだ。
この程度で焦る自分は、随分と滑稽だろう。経験を積めば上手くいくのだろうが、こんなことをする相手は大佐しかいないのだから、どうにもならない。


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