I run with fen fire. 3



あの頃の記憶はおぼろげだが、アルとウインリィがずっとそばにいてくれた。だったらロイには誰がいたんだろう。もしかして一人だったんだろうか。
彼を一人にしたくなくて、死出の道から戻ってきたのにと、過去の想いがよぎる。

ロイの孤独を思い、エドは呆然とするしかなかった。一人なんて寂しくてたまらない。椅子に座っていられず、床に崩れ落ちた。ロイが目の前に膝をついて、背を支えてくれる。
ごめんな、俺思い出せなくて、エドはただ謝るしかなかった。心に悲しみが満ちて、声を出すと唇が震えた。目の縁が熱くなる。
自分は今度こそ泣きそうになっているのではないか。わからない、この状態がそれなのか。何故なら一年泣いた記憶がなかったからだ。もしかしたら、それも忘れているだけなのかもしれない。
ロイの相手だと喜んで馬鹿みたいだ。それならどうして彼を一人にしてしまったんだ。一人は寂しいのに、そんな想いを彼にさせた。

「どうして、俺こんな風になったのかな。悪い事、したからか。それで罰がくだったのかな」
きっとこれから先も、思い出す事はできないのだろう。けれどこうやって逢えた事を今度こそ忘れたくない。駄目だろうか。それでは足りなくて、ロイを失望させてしまうのだろうか。
ロイの制服に顔をすりよせると、彼の匂いがした。
「悪い事など何もしていない。もし誰かが君を責めるなら、私が代わりになろう」
だから泣かないでくれと、ロイもまた辛い想いを抱えながらエドに告げる。
ここまで明かすつもりはなかった。銀時計をエドに渡した事に、他意はなかった。エドが以前に逢った事があると知っても、無邪気に喜んでくれると思ったのだ。愚かだった。

自分のこの一年を思って、悲しませてしまうなど。絶対に避けなければいけない事だった。
一年の孤独は大した事ではないと、どう言えば伝わるだろう。リゼンブールで暮らす君を想えば、どんな事も平気だった。死なずにこうして生きていてくれるだけで嬉しい。
ロイは心にある想い全てを篭めて、エドの背に腕を回した。この存在が救いだ。
「私は一人ではない。こうして心配してくれる君がいる限り、何があっても平気なんだ」
唇がわなないて、エドはうまく声を出す事ができなかった。何か答えなければと焦るばかりで、どうにもならない。
ロイ、と声には出さず、口の中で呟いた。それでも消えてしまった思い出は甦っては来てくれなかった。過去の断片ではなく、全てが欲しいのに。
目の縁がずっと熱い。気づけばとうとう涙が頬を伝っていた。

何もこんな時に泣かなくてもいいだろう。情けない。どんな時だろう我慢できていたはずだ。そうだろう?違うか。
この水がこんなに熱いものだと知った。もっと冷たいものであるかと思っていた。止まれと、自分の体に言い聞かせるが、全く言う事を聞いてくれなかった。記憶だけではなく、体までおかしい。
水滴が幾粒も、頬から顎へと伝って、そして襟を濡らした。
ロイはきっと呆れている。返事もろくにできず、泣くしかない自分を。
「今止める。だからっ……」
まるで幼い子どものようだと思い、流れる涙を恥じた。乱暴に腕で頬をぬぐえば、ロイがそれを留めてくる。
「すまない、苦しめるつもりはなかった。私はいつも言葉が足りないな」
優しい声に導かれるよう、エドは顔を上げた。ロイの眼差しに浮かぶ苦悩を読み取って、心臓が指で掴まれたみたいに痛んだ。
苦しめるなんて、そんな事ない。どうか謝らないで欲しい。苦しんでいるのは目の前の男だ。無様に泣いて、彼を傷つけているのは自分なのだ。
嘆くばかりで何もできない。許されぬ嘘をついて、生き残って。
違うと、エドは首を横に振る。違う。
「……違うんだ、俺が嘘をついたから、あんたを苦しめる事になった」
自分は何を言っているのか。ロイに嘘をついた覚えはないが、そんな言葉が口をついて出た。何者かが自分の口を借りて、喋っているようだった。この状態は何度かあった。
胸の内に石があり、それがどんどん重さを増していく。このままでは潰れてしまいそうだ。何度もごめんと謝るしかなかった。

ロイもエドの言葉を受けて、目を見開く。
覚えているのか、撃ち込まれた銃弾によって、記憶は損傷したはず。奇跡は起きない。エドは生涯、記憶を取り戻さない。医者はそう宣告した。
わずかに蘇る断片がエドを苦しめるなら、それを取り除いて楽にしてやりたかった。
ロイは背を抱きしめていた腕を解いて、その肩を掴む。肉のないそれは骨が浮いていた。力を篭めれば、折れてしまいそうだ。それでも今は加減する気にはなれなかった。
ロイは両腕で、エドの体を囲い抱きしめる。力の限り。逃したくない、離したくないと想いを篭めて。
窓からの陽が翳ってきている。時間はもう残されていなかった。総統府に戻って戦わなければいけない。
「……そんな事を言わないでくれ、私は何も苦しんでいない。本当だ」
お互いに本当の事を言えなかった。君が錬金術を失った事はわかっている。

けれどそばにいて欲しいと告げれば、自分の元から離れていってしまうのではないか。その一瞬の迷いで、エドを失いかけた。
臆病であり、愚かだった。エド一人が嘆く必要はない。もっと多くのものを失う可能性もあった。思い出ならまた作ればいい。何度でも逢いに来るから。
何を失おうとも、お互い生きている事に意味がある。死ねば、全てが終わるのだ。
「苦しんでなどいない」
ロイはそう繰り返した。

抱きしめられる腕の強さ、伝わる体温。耳元で囁く声。ロイの心を受けて、エドはどうにか涙をとどめようとするが、嗚咽までこぼれる始末だった。数年ぶりの涙があふれて止まらない。
互いに本当の事を言えず、互いに間違えた。生きているならば、償う機会が与えられるはずだ。今度こそ間違えずに、想いを伝えて最後の瞬間、共にいたい。それが望みだ。
「次に逢ったら、もっと色んな事ができるようになってるから……できない事なんて一つもなくなってるから。だから逢いに来てくれよ」
濃藍の眼差しが何よりも好きだ。笑みも、声も、何もかもが好きだから。初めて、その色に気づいたのはいつだったか。
「私にもできない事はいくらでもある。君が生きていてくれるなら、それでいいんだ。必ず逢いに来る」
また数粒の涙がエドの頬を伝っていく。抱きしめてくれる、彼の体温を忘れずにいよう。次に逢える時まで、自分は決して忘れない。心に刻み込んで、覚えている。
「本当に?本当に逢いに来てくれるのか」
死が訪れる瞬間まで、この身は全て彼に捧げようと誓った。気高い不滅の誓いが心にはあったが、それすら忘れてしまった。
生きている限り、取り戻せるはずだ。例え全てを取り戻す事ができなくても、本当に大切なもの一つだけならば。

死に至る道のり、その暗闇を歩いていく中、鳥篭から幾羽もの青白い蝶が飛び立っていった。残された最後の一羽。魂の欠片。それが命を繋いでくれた。だから一つあればいいんだ。
彼を好きだという心が、あればいいんだ。

「本当だ、その為にここまで君を追ってきた」
鋼のと、失った銘をロイは口にする。
暗闇に落とされた蝶の燐光を辿り、君を追ってきた。もう離さない。雨の夜、この腕から逃がしてしまった事を、何度後悔しただろう。あんな真似を二度とするつもりはない。
お互いに必要なもの、それは約束だった。
さあ誓え。この体と心と、焔を賭けて、破れぬ誓いを言葉にしろ。
「必ずここに戻ってくる」
ロイの抱きしめてくる腕、言葉を信じよう。涙で息がつまって、声を出す事ができなかったエドは何度も頷いて、それに答えた。
「約束する、私は生きてまた君に逢いに来る」
「……っ待ってる」
込み上げる嗚咽が収まるのを待って、エドはロイに向かって告げた。無意識に彼をそう呼んだ。

「……いつまでもずっと待ってるから。大佐」
燐光を辿り、君を追う。


ただ一人、君だけを追う。







燐光を辿り、君を探し、君を追う。私はただ一人、君だけを追う。
その手を捕まえて、もう二度と離さないと囁けば、嬉しそうに笑ってくれる。
一年間、君に再会するまで私はずっとそんな夢を見ては、目を覚ましていた。

あの一週間を忘れてしまっただろうかと思いながら、名を呼べば君が振り向いて駆け寄って来てくれる。
ようやっと夢は現実のものとなった。




[燐光を辿り、君を追う]


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