Chapter3
食堂エリアから保健室へ戻る途中、廊下の曲がり角で不意に黒崎が足を止めた。
「あ、俺ちょっとトイレ寄ってくから先行っててくれ」
「は?」
呆気に取られている内に黒崎は廊下の角にある男子トイレへと入って行く。
「黒崎!」
慌てて刻命が止めるが黒崎は不思議そうに首を傾げる。
「わかってるよ、保健室に行くんだろ?俺もすぐに行くって」
「そうじゃない!今は非常事態なんだ。とにかく一度山本達と合流してから……」
「非常事態って……たかが停電くらいで大げさだなあ。懐中電灯あるんだからトイレ行くくらい一人で平気だって」
「だからそういう問題じゃ……」
「んじゃ、ちょっと行って来るわ」
「おい!」
結局黒崎は男子トイレの中へ入って行ってしまった。
刻命はユキと顔を見合わせて深いため息をつく。
「仕方ない。ここで待っていよう」
「うん……」
壁に背を預けながら両腕を組む刻命の隣でユキも暗闇から目を逸らすように手の中の懐中電灯に視線を落とす。
だが日吉だけは二人から少し離れた場所でじっと何か考え込んでいた。
「……ん?」
ふと聞こえて来た足音に刻命が顔を上げて廊下の奥に目を向けた。
こつこつ……という革靴のような足音が聞こえる。
自分達は上履きのままだし、結衣もナースシューズを履いているのであんな足音はしない。
では、一体誰の足音なのか?
懐中電灯のような明かりがだんだんとこちらに近づいて来る。
「お兄ちゃん……っ」
不安そうな顔でユキが刻命の制服を握り締めた瞬間、暗闇からぼうっと照らし出されるように一人の男が姿を現した。
年齢は20代後半から30代前半くらい。
赤いドレスシャツに黒いトレンチコートを着た男で左手に点滅する懐中電灯を持っていた。
顔に見覚えはないが、高校ともなれば知らない教師が一人二人いてもおかしくはない。
だがどうも様子がおかしい。
男は宙を見つめながらぶつぶつと何か呟いている。
「!」
何者なのかと尋ねる前に、刻命はある事に気づいて鳥肌が立った。
男が着ているのは赤いドレスシャツだと思ったのだが、これは赤ではなく"白"だ。
白いドレスシャツに
夥しい程の赤い液体が飛び散っているので赤いシャツに見えたのだ。
よく見ればトレンチコートにも赤い何かが付着している。
暗いのでそれが何かはよくわからないがペンキには見えない。
おまけに男の右手には長い鉄パイプのような物が握られている。
付着している赤黒い物体が錆びなのか何なのかよくわからない。
どちらにしろ結衣が呼んだ電気会社の職員には見えないし、ましてや教師にも見えない。
「……っ」
刻命はユキの手を握り締めたままゆっくりと後退する。
だがトイレの中にまだ黒崎が残っている事を思い出して足を止めた。
……どうする?
それは一瞬の迷いだった。
だが次の瞬間、男が突然大きな叫び声を上げて右手に持っていた鉄パイプを振り回し始めた。
進路指導室の曇りガラスが鉄パイプの一撃を受けて粉々に割れる。
「ユキ、こっちだ!」
「!」
刻命がユキの手を掴んで逃げ出すと、日吉もすぐにその後を追った。
だがコートの男もその後に続き3人を追って来る。
家庭科棟とB棟に続く渡り廊下へ足を踏み入れた3人は、そのままB棟を回って美月のいる保健室に逃げ込もうと考えたが、階段近くまで来たところでユキが足を滑らせてその場に転倒した。
すぐ背後に男が迫る。
「ユキ!!」
男が鉄パイプを振り上げるのを見て、刻命はとっさにうずくまったままのユキに覆い被さった。
鈍い音と共に右側頭部に衝撃が走り、刻命はそのまま崩れ落ちるように廊下の脇に倒れ込む。
明かりが点いたままの懐中電灯が床に投げ出されてころころと転がった。
「お兄ちゃん!!」
ユキの悲鳴にも似た声と共に男の動きが一瞬止まる。
それを見て日吉が壁に取り付けられた消火器を手にして男に向かって噴射した。
男がよろめいた隙に素早く刻命に駆け寄り、腕を自分の肩に回して刻命の体を持ち上げる。
身長差があるので肩を貸している日吉の方が押し潰されそうになっているが、この状況で四の五の言ってはいられない。
刻命は日吉の肩を借りてどうにか立ち上がると、壁に手をつきながら歩き始めた。
白いもやに包まれて男の姿はよく見えないがまだ近くにいるはずだ。
一刻も早くこの場から離れなければ危険だ。
「おい!何をグズグズしてるんだ!」
「きゃっ!」
刻命が落とした懐中電灯を拾った日吉が、茫然と立ち尽くすユキの背中を強く押す。
3人はそのままB棟を通り過ぎ、C棟にある3年の教室へと逃げ込んだ。
なるべく音を立てないようそっと扉を閉めて刻命を奥の椅子に座らせる。
教室の二つの扉には鍵を掛けたが、ここでじっとしているのはあまり得策ではない。
それは日吉も理解していたが、頭に怪我をしてふらつく刻命をこれ以上連れ回す事はできない。
男が追って来ない事を祈りながら、日吉は刻命に歩み寄って怪我の具合を見た。
「……」
刻命の怪我は思っていた以上に酷いものだった。
鉄パイプで思い切り頭を横殴りにされたのだから無理もない。
運が悪ければそのまま即死していた可能性もあるのだ。
だが助かったからと言って安心はできない。
殴られたのは右側だが、壁にぶつかった時に左側頭部を窓枠に打ちつけ傷ができているのだ。
頭部は皮膚のすぐ下に動静脈が通っているので小さい傷でも出血が多いのだが、刻命の場合は重傷だった。
どうにか意識はあるものの、出血が多く今にも倒れそうな状態だ。
本当ならすぐにでも救急車を呼んで病院に運ばなければならないが、携帯電話は相変わらず何の反応もしない。
せめて保健室まで行ければ応急手当くらいはできるかもしれないが、刻命は同学年の中でも体格が良く身長も186cmある。
小柄という訳ではないが中学生の日吉やユキの力ではとても刻命を背負って保健室まで運ぶ事はできないのだ。
「お兄ちゃん……ひっく……うっ……」
負傷した兄を見てユキはすっかり気が動転しているようだった。
どうすればいいのかもわからず、ただ兄の隣で嗚咽を漏らしている。
「っ……ユキ……大丈夫だ……だから落ち着……っ」
過呼吸を繰り返す妹を安心させる為に刻命は朦朧とする意識の中で手を伸ばした。
だがその手はユキに届く前に力を失い、ぶらりと椅子の横に崩れ落ちたのだった。
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