第一章 追想

天神小学校、闇に包まれた校舎の中を二人の男子生徒が彷徨い続けていた。

立海大附属中の3年生、丸井ブン太とジャッカル桑原。

一階北東に位置する用務員室を出た後、階段で死んだ男子生徒の知り合いだと思われる悲鳴の主を捜してあちこち彷徨い歩いたが、目につくのは腐敗した遺体ばかりで何も進展しなかった。

やがて二人は疲れ果てて二階廊下で足を止めた。

「見つからねえな。どこに行ったんだ」

「こんだけ捜していないなんておかしいだろい。もうどっかで死んでんじゃねえのか?」

「そういう言い方はよせよ。怯えてどこかに隠れてるのかもしれないだろ」

「教室の中も全部調べただろ。だいたいそんな弱っちい奴、捜すだけ無駄だって」

「どんな奴だろうと今は協力して出口を見つけるのが先決だろ」

「出口なんかどこにもねえじゃんか!昇降口も開かねえし、窓だってビクともしねえ。閉じ込められたんだよ俺達は!」

極度の疲労と緊張感で二人の体力も気力ももはや限界に近づいていた。

些細な事が気に障り、行き場のない怒りや苛立ちが抑えきれなくなる。

「あーくそ、歩き回ったせいで余計に腹減った」

「もっと真面目に考えろよ。危機感が足りねえんじゃねえのか」

「何だよそれ。俺が能天気みたいな言い方しやがって」

「そうだろ。俺が少しでも脱出の手掛かりを見つけようと必死になってんのに、お前は食い物ばっかじゃねえか」

「っ……」

いつもならさほど気にならない言葉が何故だか無性に癇に障った。

「あーそうかよ!じゃあもう勝手にしろよ!俺も好きにさせてもらうからな!」

「それはこっちの台詞だ!」

ブン太とジャッカルは喧嘩別れをしてそれぞれ別行動になった。

苛立ちを抑えきれないまま階段を下りたブン太は、ふと違和感を感じて辺りを見回した。

「……ない」

階段の下に放置されていたはずの首無し遺体がなくなっている。

床には遺体を引きずったような跡があり、それが保健室の中へと続いている。

恐る恐る保健室の扉を開けてみると、ベッドの近くにうずくまる男子生徒の姿があった。

見慣れない制服だが、首無し遺体が着ていたものと同じ制服だ。

「?」

男子生徒はうずくまったまま何かを食べている。

この廃校に食料があるのかとかすかな期待を込めて覗き込んだブン太は、男子生徒が口にしている物を見て思わず腰を抜かした。

彼は、同じ学校の仲間と思われる首無し遺体の肉を食らっていたのだ。

血塗れの鋏を胴体に突き刺して、まだ腐敗していない仲間の肉を貪り食う。

血が滴り落ちて床に赤い水溜まりを作っていく。

おぞましい光景だった。

「っ……」

転がり出るように保健室を後にしたブン太は真っ青な顔で何度も深呼吸を繰り返した。

頭の中が真っ白になって何も考えられない。

けれどそれは単なる恐怖心や嫌悪感とは少し違っていた。

今までずっと心の奥底にしまい込んでいた何かが溢れ出すような、そんな感覚だった。

開けてはならないパンドラの箱。

その奥に封じられた災厄。

それがじわじわと自分の体の奥底から湧き上がって来るような、言い様のない不快感。

「っ……だめだ。一人でいると頭が変になりそうだ」

苛立っていた気分などもうすっかり冷めて、今はただ怖くて心細かった。

「ジャッカル……!」

ブン太は震える足で立ち上がると階段を上って二階へと戻った。

相棒と別れた場所に戻って来ると、そこには途方に暮れたように立ち尽くすジャッカルの姿があった。

ブン太が歩み寄るとジャッカルも気づいて顔を上げた。

「ブン太……!」

「っ……」

向かい合う二人。

しばらく沈黙が流れて、先に頭を下げたのはジャッカルの方だった。

「さっきは悪かった。柄にもなく疲れて余計な事言っちまって……本当に悪い」

「……」

ブン太は俯いたまま黙ってジャッカルの言葉を聞いていた。

慣れ親しんだ友人の声が心地良く胸に響く。

「きっとなんとかなる。だからもう一度一緒に……」

言い掛けたジャッカルの言葉をブン太が遮った。

「っ……」

喉に指が食い込み呼吸が乱れる。

「な……ぐっ」

それはいつものブン太からは考えられない凄まじい力だった。

呼吸が止まるより早く首の骨が折れてしまうのではないかと思える程、ブン太はジャッカルの首を両手で締め上げていた。

「がっ……やめろ!!」

どうにかブン太の手を振り払って叫ぶが、ブン太は眉一つ動かさずにまた襲い掛かって来る。

「どうしちまったんだ……おい、ブン太!正気に戻れって!!」

様子のおかしい友人に必死で叫ぶが、その声はもうブン太の耳には届いていなかった。

「だって仕方ない。空腹で死にそうなんだから。友達だから仕方ない。……仕方ない?本当にそう……なのか?仕方ないのか?俺は……。なんであいつが俺を食べてるんだ?友達なのに……。なんで、なんで、なんで。……あいつが俺を殺したんだ。きっとそうだ。だから俺を食べるんだ!腹が減ってたから……。そうに決まってる。じゃなきゃなんで俺が食われなきゃならない……!」

ブン太は焦点の合わない目でぶつぶつと呟きながらジャッカルに襲い掛かる。

「ブン太……っ」

「嫌だ、食われるなんて……。俺は帰るんだ。家に帰りたい!宿題もあるし、見たいテレビだって……。なんで俺が食われなきゃいけないんだ。俺は何もしてない!あいつが俺を……!うあああああ!!」

「くそ!」

明らかに様子のおかしいブン太をどうする事もできずにジャッカルは近くの教室に逃げ込んだ。

内側から鍵を掛け、鍵が壊れているもう片方の扉はロッカーで塞いで立て籠もった。

扉が強く叩かれて窓ガラスが揺れる。

「ブン太!いい加減にしろよ!なんで……っ」

困惑と恐怖心で上手く言葉が出て来ない。

まるで何かに操られているかのようにブン太は何度も扉を殴りつける。

老朽化した扉の鍵などすぐに壊されてしまうだろう。

そうしたらもうジャッカルに逃げ場などない。

だがたとえ逃げ道があったとしても、友人を置き去りにする事などできるはずがない。

王者立海のダブルスペアとして組んだこの一年間。

立ちはだかる強大な壁を何度も共に乗り越えて掴み取った全国大会優勝という奇跡。

本当に……楽しかった。

一生の仲間に出会えたのだと、そう思える程に立海テニス部での生活は充実していた。

色々と振り回される事も多かったが、今までで一番良い思い出を作る事ができた。

これからもそうやって繋がっていけるのだと、そう思っていた。

「っ……頼む。正気に戻ってくれ!」

扉越しにジャッカルは懇願した。

扉を叩く音が止んで静寂が辺りを包み込む。

やがて扉の向こうからブン太の声が聞こえた。

「……悪かった」

「!」

それは間違いなくブン太の声だった。

窓ガラスは汚れていて向こうに立つブン太の顔はよく見えないが、相棒の声を聞き間違えるはずがない。

「ブン太……?」

「……俺が悪かった。怒鳴ったりして」

「っ……別に、気にしてねえよ」

ジャッカルは鍵を外してブン太と向かい合った。

「元に……!」

言い掛けたジャッカルは腹部に強い衝撃を受けて言葉を詰まらせた。

「っ……なん……」

視線を下に向けると、自分の腹に木片のような物が突き刺さっていた。

じわりと血が滲んで手を伝い床へと零れ落ちていく。

「ブン太……っ」

「悪かったよ。怖がらせて。でもお前が悪いんだ。友達なのに俺を殺したから。だからこれでおあいこだよな?」

ブン太の顔に歪な笑みが浮かぶ。

ジャッカルは腹に刺さった木片を引き抜こうとして、足に力が入らずに後ろに倒れ込んだ。

「お前は友達を食ってまで生き延びたかったんだろ?俺を殺して、お前だけ生き延びた。じゃあ俺がお前を殺しても構わないよな?友達なんだから」

ブン太は倒れたジャッカルの上に馬乗りになると、折れた机の脚を拾ってそれをジャッカルの体に突き立てた。

「がっ……あぐ……っ」

顔に、腹に、喉に、何度も木片を突き刺す。

真っ赤な血が絵の具のように飛び散ってブン太の服を赤く染め上げた。

「友達だから仕方ない。友達なら食ってもいいんだろ?ああ、腹減ったなあ……」

眼球に木片を突き刺してえぐり取ると、ブン太はそれを口に入れて咀嚼した。

ぶちゅっとブドウが潰れるような音がして口の中に苦みが広がった。

でもすぐに慣れて舌の上で転がし飲み込んだ。

ブン太の足元には気味の悪いオブジェができあがり、林檎のように瑞々しく光っている。

「うまいな……人ってこんなにおいしかったんだ……」

歓喜の声を上げながら、ブン太は木片をフォーク代わりにして友達の肉を貪り食った。

教室の中にはいつまでも血を啜る音と肉を咀嚼する音が響き渡っていた。


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