何度も乾杯をして余興で大はしゃぎし、桜が見えなくなるまで誰も寝ようとしなかった。
雪が止んで冬島の海域を出た頃そろそろ寝ようと片付けが始まったが、チョッパーの気持ちは落ち着かない。
ウソップ達に男部屋に案内されてハンモックに横になってもなかなか寝付けない。
海賊入りした高揚と、ビビから聞いたこれからの戦いに対する緊張と、故郷への寂しさが入り交じって、目を瞑っても眠気がやってこない。
暫くして寝ることを諦めたチョッパーは、風にあたろうと寝室を出た。
甲板に行くと、故郷のように冷たくはないが乾いた風が吹いている。
数時間前まで散らかって騒がしかった甲板は、すっかり片付けられ聞こえるのは波の音だけ。
「…〜〜〜♪」
そこへ風に乗って聞こえてきた歌声。
小さな声が聞こえたのは上からで、見上げるとあったのは見張り台。
あんたにも近い内に不寝番してもらうわよ、と寝る前にナミが言っていたのを思い出す。
今日の当番はいったい誰だっただろう。誰であっても拒まれる心配はないだろうと縄梯子を登ってみた。
「チョッパー?どうしたん、こんな夜中に」
「あ…えと、眠れなくて…」
梯子の軋む音に気付いたのか歌が途切れ、見張り台から顔を見せたのは恭だった。
モゴモゴと理由を答えるとにっこり笑ってチョッパーを隣へ招き入れた。
チョッパーにとって、恭はよく分からない生き物だった。いや間違いなく人間なのだが。
チョッパーの知る人間は、自分を見て開口一番可愛いとは言わない。
「私も寝れんくてさ、ゾロに当番変わってもらっちゃった」
「え…?」
「こーんなに可愛い船医さんが仲間になったからさ〜もう目が冴えちゃって!」
「……」
今でこそ解るが、自分の姿はトナカイのものとも人間のものともかけ離れている。
大抵の群れは異質を嫌う。この一味も育ての親達ですら、初めて会った時は「なんだこれは」というような反応だった。食肉扱いしてきたルフィは今は脇に置いておく。
自分の性格も生い立ちも全く知らないまま手放しで可愛いと言ってのけたのは恭が初めてで、それを素直に受け止めるには彼女は未知の領域だった。
でれっと顔を崩す恭にどう反応していいか分からず俯くと、一変して落ち着いた声が落とされる。
「もしかして嫌?見た目のこと言われたり、触られたりするの」
「そ、そんなことねェよ!ただ、慣れてないんだ……ずっと化け物って言われてたから…」
驚きはしたが不快に思ったわけではない。
彼女の言葉を最初は疑ったし警戒していたが、こちらを見る満面の笑みも、元国王達と戦った時の真剣さも、嘘ではできない顔つきだった。
あの時の言葉は文字通り口をついて出た彼女の本音だともう解ってはいるけれど、これまで言われ続けた謗りの数々が脳裏を過ぎる。
可愛いという言葉の意味を知っていてもそれが自分に当て嵌まる言葉なのか、チョッパーにはいまいちピンと来なかった。
「…化け物じゃないよ、なんて月並み以下やし何の慰めにもならへんな……なあチョッパー、ここは化け物の巣窟なんやで」
「えっ?」
「ルフィの強さは見たやろ?本調子のサンジの蹴りはもっとすごいし、ゾロの剣は人間技じゃないし、私の力やってちょっと特殊やしな」
「…お前の能力すごかった。あれ一体…」
「うーん…暗い話になるからまた朝にでも話すわ。とにかくさ、偉大なる航路にはもっと化け物な奴らがうじゃうじゃおるんやで?今にチョッパーも自分の見てくれなんか気にならんくなるよ」
だから大丈夫と恭は笑い、水筒の蓋を開けて差し出す。
受け取って鼻を近付けると湯気と一緒にカカオの甘い香りが漂った。チョッパーも好きなココアだ。
サンジが不寝番の恭のために作ったものだろう。一口飲むとじんわりとした温かさが身体に広がった。
「チョッパーは食べると危険なものってあるん?」
「匂いの強いやつとか辛いものは苦手だけど、食べられないものはねェぞ」
「それもヒトヒトの実の影響かな。じゃあこれからも、一緒に同じものを食べて美味しいって言えるんやな。よかった」
そこでチョッパーの中で少し納まりがついた。
今は同じ船で同じ時間を生きる仲間達と、同じ出来事を分かち合えればいい。
解らないことはこれからもっと増えるし、知らないことは一緒に知っていけばいい。
旅はまだ始まったばかりなのだから。
「そろそろ眠いんちゃう?部屋に戻り」
「…さっきの、また歌ってくれよ」
「えっ」
「おれ歌はあんまり知らないから、聞きたいんだ。ダメか…?」
言われた通り今なら眠れそうな気がしたが、ここで立ち去ってしまうのはもったいないように思えた。そこでふと思い出した先程聞こえた歌をねだってみる。
恥ずかしいのか渋っているが、我儘を言ってもきっと許してもらえる。そう信じてじっと見つめると恭は口元を手で覆い、鼻からん"ん"ッと変な音を漏らした。
「ぐう、かわ……その顔はずるい…!」
「え、ごめん…?」
「いや、いいんやで……下手でも文句言わんとってな」
恭の挙動はまだよく解らないところがある。でも自分に向けられるまっすぐな好意は疑わなくていい。もちろんルフィ達のことも。
やがて聞こえてきた音は恥ずかしさ故かか細く震えていたが、桜を連想させる歌詞が優しくチョッパーの耳を擽った。最後まで聞いていたいのに瞼が重くなってきてゆらゆらと頭が下に落ちていく。
「おやすみチョッパー…また明日…」
優しい手付きに導かれるままチョッパーは横になる。頭に感じる柔らかい感触は恭の腿だろうか。そっと体に掛けられた布の感触は彼女の着ていた上着だろうか。
歌の合間に聞こえた名前を呼ぶ声に、トントンと緩やかなリズムで背を撫でる手に、チョッパーの意識はゆっくりと沈んでいった。
明日から騒がしくて、物騒で、未知に溢れた冒険の日々が始まる――
ぼくのかわいい ハニードロップ
「戦闘員、シェフ!戦闘準備!」
突然の大声にチョッパーの意識は強制的に覚醒した。
どのくらいの時間が経ったのか、空がほんのり赤くもうすぐ朝日が水平線から顔を出そうとしている。
今の声は敵襲だろうか。まだうまく働かない頭で辺りを見渡すチョッパーに鋭い声がかかった。
「チョッパー、今から我が一味の仕事について教える」
「んぇ……しごと?」
「不寝番の一番大事な仕事といっても過言じゃない。クルーの命に関わる仕事や」
「ええっ」
なんて責任重大な仕事だろうかと慌てて立ち上がるチョッパー。恭がそっと足元の板に触れると、まるでチャックを開けるような音がして板が左右に分かれる。ドラム王国でも見た恭の不思議な能力だった。
まだ空が暗いためよく見えないが、開かれた穴の中からゴソゴソと音が聞こえる。
目を凝らすと穴の先に見えたシンク。穴は台所に繋がっているらしい。そしてその傍で物音を立てる怪しい影。
泥棒?どこから来た?と少し怯んだチョッパーの耳に届いたのは…
―んぐんぐ…むしゃ…
「性懲りもなくまた盗み食いに来よったか…」
「え、仕事って…?」
「食糧泥棒の捕獲。情けは無用やで」
そう言うや否や穴の中へ飛び込む恭。これがもし昼間であれば、穴の中にできた空間の歪みにチョッパーはたじろいだかもしれない。
けれど今は唯一よく見える恭の背中を頼りに、意を決して後に続いて台所へと降り立った。
影が動きを止め「うげっ」と声を漏らす。
「目標はキッチン!ターゲットは麦わらのルフィ!」
ドタバタと走って来る音も聞こえる。本当にこの一味では深刻な事態のようだ。
よし、と意気込んだチョッパーは身体を大きくして冷蔵庫に近付いた。
これから騒がしくて、物騒で、未知に溢れた冒険の日々が始まる。
「これは(食糧の)ピンチだ!絶対逃すなァ!」