▼ とどかぬ手(2)
「ロイ、今日非番でしょ。一緒にどこか行かない?」
朝食の席で、サンガからそんな誘いを受けた。今日は二人揃って非番の日だった。
「いいよ。どこに行くの?」
「いい案があるんだ」
にかりと笑いながら、サンガは言う。目玉焼きを乗せたトーストを頬張る彼の口元は食べかすが付いていて、年上なのに幼い印象がある。
「ニサとテューラの友達にテミスって奴がいるんだけどさ、そいつが言ってたんだ。廃坑近くの凍った湖で貴石蝶を見たって!」
「廃坑って、ボースロン鉱山?」
「うん。馬で行けばあんまり遠くないよ。なあ、行こうよロイ。貴石蝶も見てみたいし、廃坑ってのも楽しそうじゃん」
「うーん……貴石蝶はいいけど、廃坑は反対かな。あそこ、煤の発生報告が多いんだ」
「え? そうなの?」
きょとんとした顔で、サンガはトーストをもう一口かじる。
「すごい、俺より詳しい」
「隊長の手伝いしてるから」
「ウガン砦の次期隊長はロイかなぁ」
「……はあ?」
「やだな、ロイってば冷たい。笑ってよ」
言って、サンガは笑いながらチーズに手をのばす。話に夢中になっていた彼の手は完全にお留守で、上手く掴めずにテーブルの下に落としてしまった。
朝食を食べながらしばらく談笑した後、二人は厩へと向かった。馬を二頭借りると、砦の東へと向かって走らせる。風が冷たい日だった。空には雲が広がり、少し薄暗い。西の彼方には隆々とした入道雲が見えていた。
馬を走らせてしばらくすると、件の凍った湖に辿り着いた。
湖に張った氷は、二人が上を歩いても割れないくらい厚いのに、恐ろしいほど透明だった。きらきら光る魚の背や、湖底を彩る薄いピンクや紫の宝石は、呼吸すら忘れるほどに美しかった。――クリスタルである。水中で五色の光帯を乱反射させ、幻想的な世界を作り出していた。
「すごい。すごいよサンガ。俺、こんなきれいなもの初めて見た」
サンガはロイへの返事すら忘れ、湖底に見入っていた。大きく開かれた彼の瞳に、色とりどりの光の粒が飛ぶ。氷を隔てた未知の世界は、しばらくの間少年達の時を奪っていった。
「テミスは、うそつきだ。ここに貴石蝶はいない。だって宝石が水の中じゃ、蝶は近付けないもの」
やっとのことで湖底から視線を離しながら、サンガは言った。
「うん……でも、来て正解だった。こんな素敵なものが見られるなんて」
「貴石蝶はいなそうだけど、十分だよね。偽情報だったけど、テミスに感謝しなきゃ」
それから二人は、氷の下を泳ぐ魚の背を追いかけたり、つるつる滑る氷の上をどこまで転ばずに走れるか競ったりして遊んだ。こんなにはしゃいだのは、とても久しぶりだった。それこそ、ロズベリーにいた頃まで遡るかもしれない。
空気が低く唸り始める。しかし時間も忘れて遊ぶ二人には、空の機嫌が変わり始めている事に気が付かなかった。
ただの曇りだった空は、あっという間に分厚い雪雲に覆われた。ロイが不安になって空を見上げた時には既に遅く、大粒の雪が舞い始めた。みるみるうちに視界を覆う雪片は増え、激しいブリザードとなった。しかし湖の周りは開けていて、身を隠せそうな所が全くない。
「どうしよう、このままじゃ雪に埋もれちゃうよ!」
サンガが恐怖で声を裏返しながら叫ぶ。馬の手綱を握って立っているはずの彼の姿が、すぐ側にいるはずなのに霞んでいる。それでも、外套を頭からすっぽり被った頭や肩に、すでに大きな雪の塊が乗っているのが分かる。
「ロイ。どうしよう、どうしよう……! こんなに激しいブリザードが来るなんて……いくら毛皮があったって、雪の下に埋もれちゃったら凍え死んじゃうよ」
余りにおろおろするサンガの姿に、ロイは逆に冷静さを失わずにすんだ。
俺がしっかりしなくちゃ。考えろ。考えろ。どこか近くに、身を隠せる場所はないのか。どこか……
――ニサとテューラの友達にテミスって奴がいるんだけどさ、そいつが言ってたんだ。廃坑近くの凍った湖で貴石蝶を見たって!
そうだ、廃坑! ボースロン鉱山はすぐそこだ!
「サンガ、馬に乗って! 廃坑に行くよ!」
馬に飛び乗りながら、ロイは叫んだ。コンパスを取り出すと、向かうべき方角を確かめる。
ブロウに任された煤発生の集計のとき、嫌というほど地形図を見たのが幸いした。ウガン砦から真っ直ぐ東の方角に、ボースロン鉱山はある。そのウガン砦寄りの少し北に描かれていた小さい歪な丸が、おそらくこの湖だ。ならば向かうべきは、南東。
「いいか、絶対はぐれるなよ!」
誰も足を踏み入れる事のなくなったボースロン鉱山の坑道入口は、真っ白い景色の中で黒々とした口を開けていた。打ち捨てられたトロッコが、入口の脇で横倒しになり雪を被っている。トロッコと接触している部分だけ、錆が移って赤茶けていた。
天井を補強していた梁は崩れ落ち、柱も歪んでいる。崩れた壁は瓦礫となって坑道に散らばり、足元を危うくさせた。
「ここ……本当に入っても平気なのかな」
ロイに続いて坑道に足を踏み入れたサンガが、不安そうに呟いた。
「仕方がないよ、吹雪のせいで外にはいられない。とりあえず雪の吹き込んで来ないところまで入ろう」
馬の手綱を引きながら、ロイは慎重に歩き始めた。そのあとに、サンガがおっかなびっくりと続く。
「うわっ」
少し中ほどまで歩いたとこで、サンガがトロッコのレールに躓いた。派手にすっ転んだようで、坑道内に大きな音が鳴り響く。その音に驚いた『何か』が一斉にキーキーと声を上げ、羽根をばたつかせた。
「コ……コウモリだ!」
羽根を生やした小さな黒い塊が、天井から幾つも幾つも降ってきた。醜い声で威嚇をし、縄張りを荒らす侵入者を追いだそうとする。興奮したコウモリに牙を立てられた馬が高い声で嘶き、二人の持っていた手綱を振り払って坑道の外へと逃げ出した。その上、パニックを起こしたサンガは悲鳴を上げながら坑道の奥、馬とは逆方向へと駆け出していく。
「サンガ! ただのコウモリだろ――無暗に走ったら――危ないよ!」
頭すれすれを飛んでいくコウモリを叩き落としながら、ロイは必死でサンガを追いかけた。もう少しでサンガの外套に手が届く。掴んで、足を止めて、「落ちつけ」と頬を張ってやるつもりでいた。しかし――
「え――?」
手が届く直前、サンガの姿が消えた。そう思ったのと同時に、身体が宙に浮いた。ふっと内臓が引き攣る感じがしたあと、真っ暗な縦穴へと吸い込まれるように落ちてゆく。あまりに唐突な出来事に、悲鳴すら出なかった。
そして再び唐突に、落下は終わった。どうやって着地したのかも分からず、全身に痛みが走る。サンガの声が聞こえるような気がした。でもそれは、酷く遠くから聞えた。
何も見えない。分からないよ――
闇が、ロイの意識を塗りつぶしてゆく。
どうして、俺を助けてくれたの?
「お前が俺の足を掴んで離さなかったからだろう」
ブロウは、どこから来たの? 故郷は?
「そんなの、どこでもいいだろ」
人間みたいな見た目だけど、やっぱり人間? 同盟国にいたって事は、亜人なの?
「それを知ってなんになる」
なんになるって、俺はただ、気になっただけで……
「くだらない」
くだらない? 俺には、くだらない事なんかじゃないんだ。ブロウ。どうして、いつもはぐらかすの? どうして、何も答えてくれないの――?
一度だけ、意識が浮上した。
真っ暗なはずの坑道に、薄ぼんやりとした炎の色を見た様な気がする。ブロウの瞳の色の様だなと思った。
再び、ロイの意識は沈んでいく。
俺、早く軍に入りたいです。ブロウの指揮している部隊に入れませんか?
「駄目だ。お前にはまだ早い」
大丈夫です、俺、頑張りますから。家で待ってるだけなんて嫌だ。
「戦う相手はイラじゃない、人間だぞ」
分かってます。でも俺、早く働きたい。
「……なら、まずは馬の扱いに慣れろ」
――隊長。血塗れだ。人間の血だ!
「馬を洗っておけ」
俺が? この血を?
「お前がやると言ったんだ」
言いました。でも、足が震えて、動けない。
「……やれ。お前が望んだ仕事だ」
怖い。怖い。怖い。吐き気がする。手がぬめる。血なまぐさい――!
「おい」
……なんですか。
「グローネンダール領の第四地区へ異動だ」
……どうして? だってブロウは遊撃隊の隊長でしょ。功績だってある! どうして突然そんな辺境に?
「飽きたんだよ」
そんな理由で、辞められるわけない! まさか俺が……足を引っ張るから? ちゃんと、仕事できてないから? 隊に迷惑かけたから?
「馬鹿か。うぬぼれるなよ。お前が仕事できようができまいが俺には関係ない」
本当に? はぐらかさないで、ちゃんと言って下さい。教えてください。もしかして、俺は、あなたの――……
「――、……ウ……」
「ロイ! ロイ大丈夫? 気が付いた?」
肩を揺すられ、ロイは意識の糸を手繰り寄せた。次第に明瞭になる視界に、サンガの泣き顔が映る。手にはどこからか拾ってきたらしいランタンを持っていて、掲げたそれが眩しかった。
体中が痛かった。幸い骨は折れていないようだが、右足首が特に痛む。
「サンガ……俺、……どうしたんだっけ?」
「ああっ……! よかった、俺、ロイが死んじゃうんじゃないかって、怖くて」
上を見上げると、天井に穴が空いていた。どうやら、一つ下の階層に落ちたらしい。昔は土砂を引き上げる為の簡易的なリフトがあったようだが、ロープは外れ、ロイの足元でとぐろを巻いている。見上げれば、遥か頭上の天井に滑車だけが残っていた。
「上るのは……無理そうだね」
暗い声で呟く。「やっぱり、そうかな?」と返すサンガの声にも、いくらの期待も込められていなかった。
どれくらいの時間が立ったのだろう。外の光も届かない地下では、時間の感覚がまるでない。お腹がすいて仕方がなかった。サンガの持っていたビスケットを分けて食べたけれど、朝食後何も食べていない二人には、少しの足しにもならなかった。
「黙っていると悪いことばかり考えちゃう」と、サンガは色々な事を喋り続けた。昼間の湖でのことを話したり、帰ったら美味しいものをお腹いっぱい食べようという計画を立てたりした。他にも、ニサとテューラが調練中にふざけてブロウにこっぴどく怒られたとか、副隊長がそれを宥めたとか――思い付く限りのことを、サンガは話し続けた。
しかし、話題はとうとう尽きた。
「俺たち……ここで死んじゃうのかな」
最後にぽつりとこぼしたサンガの言葉が、暗い坑道に吸い込まれていった。
しんと静まる坑道の中、お互いの息遣いだけが聞こえていた。心細くて仕方がなくて、二人はぴったりと寄り添って膝を抱えて座っていた。
これから、俺たちどうなってしまうのだろう。サンガの言う通り、ここで誰にも見つけられること無く、死んじゃうのかな――
サンガを助けなきゃと必死だったロイの勇気は、すっかりしぼんでしまった。ランタンの炎の色が、なぜか暗い気持ちに拍車をかける。きっと、あの人は探しに来ないに違いない。
「隊長、俺達のこと探してくれてるかなぁ……」
ぽつりと漏らしたサンガの言葉に、どきりとした。自分を励ます様に、サンガはロイに問い続ける。
「捜索隊とか組んでくれるかな? きっと組んでくれるよね? 隊長だもんね?」
「さあ……どうかな。ううん、たぶん、隊長は来てくれないよ」
ウガン砦に来てから忘れていた心の膿が、ロイの中で息を吹き返していた。
「『いい厄介払いの機会だ』とか、思ってるかも」
ブロウに拾われたという経緯は、以前サンガに話したことがあった。しかしそうと知っていても、全く予想していなかったロイに答えに、サンガがきょとんとしている。
長い事ためこんでいた不安は、一度口にすると止まらなかった。
「そうに決まってる。だって、ずっとずっと頼りっきりで、役に立とうとしても上手くいかなくて、足を引っ張ってばっかりで……きっと、うんざりしてる。僻地に異動になったのだって、俺のせいだ。俺がいなかったら、きっと今でもウガン砦じゃなくて遊撃隊の隊長だった!」
「ロイ……」
「俺なんて、きっと拾わなきゃよかったって思ってる。だから、探しになんて来ないよ。足手まといの『厄介者』だもの。だからきっと、ちゃんと話もしてくれないんだ」
俺は、ブロウのことを何も知らない。何を考えているのかも、年も、種族も、出身も。きっと、話すに値しないんだ――
「俺は、違うと思うな。ロイのことを『厄介者』だなんて、思ってるはずないよ」
サンガは、真っ直ぐにロイを見ながら言った。言葉を飲み込む。気休めなどではなく、本気でそう思っているようだ。
「ロイは、意外と思いつめちゃうんだね」
ぐずる弟をあやす兄のように、サンガは優しくロイの頭をなでた。
「あのね、知っての通りウガン砦ってさ、同盟国の中で一番なんじゃないかって思うくらい田舎なんだ。年中雪に埋もれて、する事と言ったら雪かきばっかり」
くすくす笑いながら、サンガは言った。
「一年前、前の隊長は運悪く雪崩に飲まれちゃって、死んじゃった。それ以来、ウガン砦の隊長はずっと決まらなかったんだ。誰もやりたがらなくって、副隊長がずっと代理をしてた。それでも十分任務はこなせたから、軍の人も無理に後任の隊長を派遣して来なかったんだ。そこにわざわざ『志願』してきたのが、ブロウ隊長だよ」
「……志願? 左遷じゃ、ないの?」
「違うよ。副隊長が「まさか志願者が現れるなんて」って、すごく驚いていたもの。……子供のせいで左遷されるなんて、あるわけないじゃないか」
「でも俺、仕事、ちゃんとできなくて。足……引っ張って、ばっかりで、」
「うん。だからね、俺、隊長がウガン砦に志願したのはロイの為なんじゃないのかなって思うんだ」
「俺の、……ため?」
そんな事、考えたこともなかった。それなのに、サンガは自信たっぷりに頷き、満面の笑みを浮かべる。
「全部俺の想像だけどさ、結構自信あるよ。だって、考えてもみてよ。ロイの言う通り、本当に隊長がロイのことを『厄介者』だって思ってたら、とっくに孤児院に預けられてるよ。もうちょっと自分に都合よく考えても、ばちは当たらないよ」
「……でも、」
「ロイは、前線で大変な思いをしたんでしょ? だから、」
「俺、隊長に仕事の事で泣きついたことなんてないよ!」
「やだな。そんな意地、すぐばれちゃうよ。隊長じゃなくたって、俺でも分かるもん。ロイ、初めてウガン砦に来た日、自分がどんな顔してたか知ってる?」
首を振ると、サンガがにやりとする。
「この世の終わりみたいな、ものすごーく暗い顔!」
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