▼ 004 エラルーシャ教
店の奥にある狭い階段を上った二階に、アークの部屋はある。階段を上る際にギシギシと足を乗せるのが不安になる音を立てるが、もう何年も前からのことだ。
アークの部屋はとても狭く、家具はどれも簡素なものだった。ベッドとサイドボード、小さなデスクセット、腰の高さまでしかない本棚――それで全部だ。もともとこの部屋は亡くなった母親(自分を生んですぐ後に病にかかり、産後間もなくして息を引き取ったと聞いている)のものだったこともあり、そのどれもがアークが使うには小さい。デスクは低いし、ベッドは満足に足が伸ばせない。それでも、晴れた日は南向きの窓から太陽の光がたっぷりと差し込むこの小さな部屋が、アークは好きだった。
閉じてあった色褪せたベージュ色のカーテンを開けると、眩しい程の午後の陽光が差し込んでくる。ベッド脇のサイドボードの上に置いてある小さなランプの金属部分が光を反射して、部屋の壁や床に黄金の光が煌めいた。
「それで、何の話だよ?」
アークのベッドにどっかと腰を下ろし、レニが問うた。アークもその隣に腰掛ける。
「お前たち、これを見たか?」
ウッツは持ってきていた麻布の鞄の中から、何かの紙を取り出した。黄色がかった薄い紙の束だ。その紙面には、黒くて小さな文字がびっしりと並んでいる。アークはその紙の束を受け取り、広げてみる。
「昨日の新聞がどうかしたの?」
カピの月、十四日。日付が昨日だ。昨今のヘレ同盟国との情勢、西の町で起きた暴動に教会の小さなコラム。いつもどおり細々とした事件が並ぶ、何の変哲もない新聞だ。
「おっと、そっちは裏面だ。見て欲しいのは表の一面記事だよ。どうせ起きたばかりの事件だから情報量は変わんないと思ってさ、けちって民間の安新聞買ったからちょっと見出しが胡散臭いけど」
新聞をべらりとひっくり返す。すると表の一面には大きな見出し文字と、針のように尖った山々が燃えている風景を描いた絵が載っている。太く大きな文字で書かれた見出しに、アークの目がとまった。
「『燃える蛮族の聖地! 断罪の時来たれり』――何これ、どうゆうこと」
「幽罪の庭が燃えたって……冗談だろう!」
ウッツは腕を組み、ふうっと重い息を吐き出した。レニは目の前の見出し文字が信じられないようで、アークから新聞をひったくり小さな文字を齧りつく様に追っている。
「アークたちが外に演習に行ってる間に起こったんだ。民間紙だからってガセネタじゃない。ちゃんと教会も認めている。街中その話題で持ちきりさ。炎上だなんて……誰も予想してなかったことだ。同盟国軍にとってはかなり痛手だろう。フランベルグとは違ってエラルーシャ教の聖域と崇めている場所だ。……今頃、フランベルグ王は小躍りでもしてるんじゃないか。過激派が勢い付くぞ」
レニが新聞から顔を上げる。
「だろうな。でも保守派の騎士には痛手だぜ。それこそ士気はガタ落ちだろうな。だってあそこはもともと――」
「ちょっと待って、僕にも分かるように説明してくれ!」
レニとウッツの間を飛び交う会話に付いていくことが出来ない。二人の会話はアークの理解できる範疇を超えている。
「幽罪の庭だとか、過激派だとか、蛮族の聖地だとか……さっぱり分からないよ。いったいどうゆう事なの? 僕、エラルーシャ教の事にあんまり明るくない」
「お前、幽罪の庭を知らないのか? 明るくないどころの話じゃないぜ!」
話に割って入った無知なアークに、レニは呆れた様に新聞をベッドに放った。
三人は仲良くなってからになってもう随分たつが、この手の難しい話はあまりしたことがなかった。馬鹿な笑い話しやレニが興味を持ち始めた女の子の話し、裏通りの抜け道散策や、フラムの少年達の間で流行り始めたカードゲーム。他にすることがありすぎて、宗教の話なんてしたことがなかったのだ。
「アークはエラルーシャ教を学んだことはないのか? 国教だぞ。今の時世……王都では危険だ。親父さんが信仰してないのか?」
「うん、父さんはフランベルグじゃなくて、南の島国ルルカ諸島の出身だから。あそこは無宗教だからさ、父さんはもともと宗教に関心がないんだ。食事前のお祈りとか、挨拶の仕方とか、必要最低限のことしか知らない」
なるほど、とウッツが額をかく。
「だからお前の親父さん褐色の肌なのか。日焼けの色でもないし、珍しい色だと思ってたんだよな。でも、お前は俺たちと同じ肌だよな。赤い髪も珍しくも何ともない」
「母さんがフランベルグ出身だからじゃないのか」
それもそうか、とウッツは肩を竦めた。
「悪い、話がずれたな。何だっけ……エラルーシャ教の話か。もうすぐアークも十五歳になるし、騎士団に入っているならちゃんと知っておいたほうがいいよ。でも長いからな、少し端折らせてもらうよ」
一呼吸置いて、頭の中で話の道筋を整える。そうしてから、ウッツは話し始めた。
「エラルーシャ教は、純血神・創造主エール、混血神・繁栄主ディメル、獣神・破壊主グエロの三大神を掲げている。俺達が生き、そして死ぬのは、エールが俺達を作り、ディメルの加護を受けて生活し、グエロが命を摘み取るからだ。この自然な流れを受け入れ、限りある命を善く生き、神々を崇める真の信仰心があれば俺達は幸せに生きてそして再び生まれ変わることが出来る。この命の流れを『リベルの輪』っていうんだけどな、そうして何度も生まれ変わって磨かれた魂はリベルの輪を脱して『輝ける大地の庭』と呼ばれる場所へ行き、生きる者の繁栄を促す大地の礎となって、永遠の安らぎを得ることが出来る――概要としてはこんなところかな。ここまではいいよな」
「そのエラルーシャ教を、フランベルグの皆が信仰してるんだろ。それは分かる。でもさっき、過激派って言ってたよな。同じエラルーシャ教徒じゃないのか?」
「それなんだが……エラルーシャ教は、南のフランベルグ王国、中央のオンディーヌ湖に浮かぶ宗教都市ジェノ、北の大国ヘレ同盟国を有するエパニュール大陸全土に広がり、信仰されている。けど、この国では昔から少し人間主義に偏った信仰をされていてね。その中でも特に人間主義に執着している連中が、俗に過激派といわれているんだ」
「そいつらが厄介でね」とレニ。
「十一年前に、フランベルグと同盟国の関係が悪化した紛争があっただろ。それまでは、多少の小競り合いはあったがお互い割と上手く付き合ってたんだ。でもその紛争で、争いの鎮静に向かった王子が殺された。それからだな、フランベルグが歪み始めたのは……当時からのアドナイ(王位)、セヴル八世が極端な人間主義に偏り始めたのをきっかけに、国内で配布される聖典の内容が改訂されたんだ。勿論、エラルーシャの総本山であるジェノからの抗議があったが、王は取り合わなかった。使節団は門前払いさ。今じゃフランベルグは半鎖国状態だな」
「レニ、あまり話を広げすぎるなよ。アークがついてこれなくなる」とウッツが遮る。
「その過激派と化した王と、王の息の係った教会関係者が改訂した聖典の内容で最も大きな事が、エラルーシャ教の聖域のことなんだ。紛争前は同盟国と同じく、エパニュール大陸最北端にある女神エルダの眠る土地、『白の庭』だった。それを改訂し、穢れた土地――禁域『幽罪の庭』としたんだ」
何故、とアークは首を捻る。
「どうして聖域を変える必要があったんだ? それに女神が眠る土地なのに、穢れた土地だなんて……」
「聖典エル・アリュードにおける神節第七項『朱の紡ぎ歌』、エールの怒りと魂の再生の話――知ってるか?」
いいや、と首を振る。
物心ついた頃から、父親と厨房に立って料理をしていた。食材の切り方、火加減、フライパンの返し方――料理のことばかり習い、学校に通う同年代の子供たちとはかけ離れた生活をしていた。この国の子供たちの教科書でもある、三大神の神話とその教えを綴った聖典エル・アリュードは、今頃料理の本が溢れる本棚の奥で埃を被っていることだろう。
「フランベルグでは神節第七項の解釈が他国とは異なるんだ。先に言ったように、人間主義に傾いてるから……そこで重要となる神が二人いる。創造主エールの娘である純血の神、太陽の女神エルダと、繁栄主ディメルの眷族である月の神ゼスタ。二人とも転生を司る神様でね。エルダがエールから生まれた魂を朱の炎で祝福して大地に送り出し、そして命を全うとした魂をまた朱の炎で昇華しエールに還す。ゼスタはその魂の旅を淡く照らす道標になるんだ。二人の神には、そういった大きな役割があった。だけど……」
「問題が起こった。二人が恋に落ちちまったんだ」と、レニが続く。
「ゼスタに夢中になったエルダは、エールから送られてくる魂を祝福する事を怠った。ゼスタも魂の道標になるはずなのに、その役目をないがしろにした。そのせいで多くの魂は再びエールの元に帰ることができずに、道を失って消えていったんだ。我が子同然の魂たちが消えていったことにエールは酷く嘆いて、そして怒った。エールは当然、ふたりの仲を裂こうとした。エルダはゼスタに会えないよう、北の大地に幽閉されたんだ。でも、これにゼスタは反発した。ゼスタはエルダを連れ出そうとしたが……エールはそれに激怒して、ゼスタの体を焼いたんだ。ゼスタの体は真っ白な灰になって、北の大地に降り注いだ。これが『白の庭』と呼ばれる由縁だ。そして首だけとなったゼスタを、エールは空に磔にしたんだ。自分の役目だけを果たすようにな。一方、エルダには眠りの呪いをかけた。自分の役目を果たすときにしか目を覚まさないように。こうしてふたりの神様は離れ離れになって、魂の輪廻がもとに戻ったってわけだ」
乾いた唇を舐めて潤す間に、ウッツがまた続く。
「北の最果てには、今レニが言ったような逸話がある。エールが生み出した魂がこの世に生み出される始まりの地、またエールへと還るための転生の地――だから今まで聖域とされていたんだ。だけど過激派と化した王は神節第七項で、フランベルグが尊ぶ純血であるはずのエルダは罪を犯しその地に幽閉され、この国では禁忌である混血、ゼスタの灰が降り注いだことを厭い、白の庭を穢れた土地『幽罪の庭』としたんだ。そして新たな聖域をフランベルグ王国で最も大きな教会を有する都市、イビセンコに置いた――これが聖域改革。それから蛇足になるが、この聖典改訂を是としない人達を保守派って呼ぶんだ。まあ、今の時世じゃ同盟国寄りの考え方だっていわれて公言は出来ないがな。……おい、ついてきてるか?」
「……たぶん。何となくでしか、分からないけど」
二人の口から次々と飛び出す聞きなれない単語、ややこしい名前の神々に、頭が追いつかない。今し方説明されたばかりの話を反芻しようとするが、反芻出来るほどの事柄が頭に残っていなかった。
ウッツは年上で昔から博識だった。小さかった頃、レニと二人でウッツの話をわくわくしながら聞いていた覚えがある。しかし、今はどうだ。アークが働いている間にレニは学校へ行き、知識面で大きな差をつけられてしまったようだ。
「一度に覚える必要はないよ。これからゆっくり覚えていけばいい」
首を捻ったままのアークに苦笑しながら、ウッツがそう励ました。緩慢に頷きながら、ぐるぐると迷走を続ける思考回路を落ち着ける。幽罪の庭のこと。もとは白の庭といったこと。過激派と王。聖域改革――簡単には飲み込めない情報の数々を整理するには、時間がかかりそうだ。
そうした難しい事柄をいったん頭の隅に押しやると、素直な疑問が一つ生まれた。
「じゃあ、どうしてそんな聖域と呼ばれるような土地が燃えるんだ? 同盟国にとっても、フランベルグにとっても、意味のある土地には変わりないんだろう。警備の人とか、そういった土地を守る人はいないのか?」
「いねぇよ、そんなもん。幽罪の庭にそんなものは必要ないんだ」
腕を組み、難しい顔をしたレニが答えた。
「あの土地は、不可侵の土地だ。エトス(聖職者)の中でも、上層部の限られた人間しか出入りできない。上層部の奴ら、何か奇妙な術を使うらしいんだが……そのせいか、それ以外の者が足を踏み入れれば気がふれちまう」
「気がふれるって……」
「廃人になるのさ。心をどこかに置き忘れてしまったみたいに、ただ息をするだけの人形になっちまうらしい」
生きてはいる、しかしその目は何も映さずガラス玉のようで、ただ目がある場所にくっついているだけの飾り物。浅い呼吸に胸が上下するものの、その他の部位が動くことは決してない。力なく横たわる、人間の体温を宿したままの動かぬ人形――ぞっとした。
レニはベッドの上に投げた新聞を摘み上げ、アークに投げてよこした。
「たいしたこと書いてないけど、お前にはいい勉強になる。今のうちよく読んどけ。きっとこれから忙しくなるぜ新米騎士君。フランベルグにいい流れが来るかもしれない。そうしたら、ようやく亜人どもをこの手で叩きのめす日が来るんだ」
にやりと笑い、腰かけていたベッドから立ち上がると、大きな伸びをして体をほぐす。ウッツも同様に体のこりをほぐし、置いてあった鞄を拾い上げた。窓から午後の陽光が差し込んでいる。その光の中、親友二人はとても対照的だった。
爛々と瞳を輝かせ、これから大きく動くであろう戦局を見据えるレニ。
一方、ウッツはいつか戦の渦中に放り込まれるであろう親友たちの未来を憂いている。
じゃあ、僕は? 僕には何が見えるというのか。
二人が見通す先の事が、アークにはよく分からなかった。今し方聞かされた幽罪の庭炎上の事件だって、まだどこか他人事のような印象が拭えない。レニは、ようやく亜人を叩きのめす日が来る、と言うが、それこそ実感が湧かなかった。誰かの命を奪うことなど、自分には到底出来るはずもないのだから。
けれど、僕は国の騎士団に所属し、闘う訓練を積んでいる。
その証拠である傷ついた腕の痛みが鈍く疼き、己が立っている場所を明確に教えてくれる。剣を振りかざす戦いの場。それだけは嫌に現実味を帯びている。しかし、アークに分かるのはそこまでだった。二人はきっと、自分の立っている場所からもっと先を見据えているに違いない。
このままではいけないという危機感が、気持ちを焦らせる。
これから、僕はどうなるのだろう。
対照的な二人の表情を見ながら、アークは気持ちの悪い、しかしどう処理することも出来ない膿の様な苦い不安を飲み込むほかなかった。
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