BENNU | ナノ


▼ 025 遠き日々1―死の淵より―

 読んでいた書物から目を上げると、雪が降り出していることに気がついた。大粒の雪片が窓に張り付いて、外の風景をモザイク画のように曖昧なものへ変えていく。雪ばかりの白い風景だけれど、見慣れれば、藍を帯びた影の白、深緑をはらんだ木陰の白など、ただ『白』と括るには惜しい色の情景が、窓の外には広がっている。それが舞い落ちたばかりのまっさらな銀白色のヴェールで、やさしく覆われていった。
 生れてこの方雪国で暮らしてきたので、深々と雪の降り積もるいつもの景色は見慣れており、とても馴染み深いものだ。けれども最近は、遠い世界の窓を覗きこんでいるような、所在ない気分がしていた。
 咥え煙草をうんと深く吸い込めば、胸の奥まで紫煙が満ち、同時に苦しさに噎せ返る。咳と喘ぎの隙間から落ちた血の雫が、ダアトの唇と膝の上の書物を汚した。
――どうして契約を拒むんだ。そんなものまで吸って……私たちの体には、毒にも等しいというのに。
 そうまでして俺は生にしがみ付きたくはないのだと、ダアトは思う。袖口で乱暴に拭った血が、文字の上で掠れた赤い線となる。
『死にたがりのダアト』。自分が陰でそう皮肉られていると知ったとき、全くそのとおりだなと、不快さよりも笑いがこみ上げたものだ。
 ハヴァ率いるヲドル勢による竜族封印戦争より、二十年がたった。反乱軍の指導者ハヴァ・ナルを王位に据えた新興国『ヲルタニア王国』は、竜族によるくびきを逃れ、新たな時代を築こうとしている。
 しかしながら、その代償はあまりに大きすぎた。封印戦争に動員された多くのヲドルたちは、竜の爪に屠られるか、自らの魔力を使い果たして衰死した。残ったのはハヴァとその一部の部下達と、戦えるほどの魔力を持たない者ら、そして多くの非ヲドルたちだ。
 これは危機的状況なのだと、ダアトは苦い思いを噛みしめる。
 封印戦争で、大陸側も大きく戦力を削がれた。もしも、万が一、封印が破られて竜が異界から溢れ出したならば――大陸側には、再び対抗する力など、残されていないということだ。
 その『もしも』が起こるなど、勝利を勝ち取ったばかりの大陸人は思ってもみないだろう。戦の復興も進み、力ある王のもとで平和を享受する暮らしの中に、その不安の影が入り込む隙間はまだないだろう。
 だが、『影』は確かにあるのだ。輝かしい平和の隅で、地中を這う蚯蚓のようにひっそりと、卑しく、意地汚く、自らの生にしがみ付いている。
 それが、エトスエトラ族だ。
 エトスエトラ族は、どの種族よりも強大な魔力を有しながらも、その魔力に耐えうる器を持たない、短命な種族だった。脆弱な身体は徐々に強すぎる魔力に蝕まれ、平均的な寿命は三十前後。生れた理由など定かでないが、遠からぬ未来、滅ぶ運命にあることだけは確かであった。その運命を脱しようと足掻いた先人たちが辿り着いたのが、強い生命力を持つ種族と契約を交わし、力を分けてもらうという手段だ。
 他者に生命力を寄与し続けることができるほどの強い種族は、ひとつしかなかった。
 竜族だ。
 コツコツと、扉をノックされた音に気付き、ダアトは読むともなく睨みつけていた書物から視線を上げた。「どうぞ」と返せば、馴染みのある顔ぶれが現れた。
「調子はどうだ、ダアト」
「まだ生きてる?」
「ロクサーヌ、そんな言い方するものじゃない」
 悪戯っぽく笑うジャハダ族の女を、人間の男が窘める。「これくらい軽い方が辛気臭くならなくていいのよ」と、ロクサーヌはふんと鼻で笑った。
「セヴルは真面目すぎよねぇ。ねえダアト、そう思わない?」
「そうだね」微笑みながらダアトは答える。対照的で、しかし不思議と馬の会う二人のやり取りが、ダアトは好きだった。
「でもロクサーヌ、それがセヴルのいいところじゃないか」
「どうだかね」
 肩や頭に積もった雪を入り口で払った二人は、冷えた身体を温めようと暖炉の前までそそくさと入ってくる。赤々と燃える炎に手を翳しているうちに、落とし切れなかった外套の裾に付いた雪が、雫となって床に敷かれた毛織物に落ちた。
「ああ、敷物を汚してしまってすまない」と、セヴルが床を見たとき、つと眉間に皺を寄せた。ダアトが咳込んで落した煙草と、赤い飛沫に気がついたのだ。
 ロクサーヌもそれに気付き、まだ火の付いたままの吸い殻を摘み上げる。ダアトの膝の上の赤く汚れた書物を見つけると、セヴル以上にむすりと顔を顰めた。
 長い鼻先に皺を寄せる表情は、亜人をより獣然として見せるので、やめたほうがいいと前に言ったのに。そんなことを考えながら、ダアトは身を固くして飛んでくるであろう怒号に備えた。
「またこんなもの吸って……それで咳込んで血を吐くなんて、本当に馬鹿なのね。頭おかしいんじゃないの!」
 汚れた本をダアトの膝から取り上げ、苛立ちのままに床に放り投げた。
 予想通りのロクサーヌの反応に、ダアトは苦笑した。分かりやすい人だ。口は悪いけれど、優しい女性なのだ。その証拠に、眦には涙が浮かんでいる。友人がそんなにも自分を心配してくれることは、素直に嬉しかった。
「ダアト……どうかもう少し、自分を大事にしてくれないか」
 セヴルが本を拾い上げ、テーブルの上にそっと置く。
「君は、もう二十七だろう。エトスエトラのその年齢が意味すること、私たちも良く知っている」
「まどろっこしい言い方するんじゃないよセヴル。要するに、こいつはもう死に片足突っ込んでるんでしょう。自分からね!」
 契約のないエトスエトラの平均寿命は約三十年――二人は、それを知っている。
 ダアトは、この気の置けない友人たちには、悩ましい自らの状況を告白していた。
 エトスエトラが非常に短命であること。生への活路を見出すため、先の戦争で封印したはずの竜族と接触を図ったということ。それはつまり、竜族を封じてきつく閉じたはずの異界の門に、ほんの少し隙間を空けたということだ。その行為は、恐れている『万が一』を引き起こす可能性がある。大陸人全てを危険に晒しながらも、一族が生きながらえる方を選択してしまったエトスエトラの愚かしさに納得できず、ダアトは竜族との契約を拒み続け、『死にたがり』などと呼ばれるようになった。
 息の詰まるようなエトスエトラの集落を飛び出して得たのが、この友人たちだ。彼らは、集落に留まっていては得ることのできない、ダアトの短い人生の中での宝だった。しかしそれもまた、ある意味でダアトを苦しめた。辛い戦を乗り越えて得たこの二人の平穏な生活も、自分の一族が壊してしまうかもしれないと。契約など交わしてしまえば、『自分の一族』が、『自分』へと変わる。『俺』が、この二人の平穏を壊してしまう――
「ダアト、契約してこい」
 セヴルの言葉に、ダアトは無言で拳を握り締める。
「もう、門に隙間は開いてしまっている。それは君のしたことではないし、君のせいではない」
「その通りよ」ロクサーヌがダアトの肩を掴む、身体の大きなジャハダ族の彼女が目の前に立つと、壁が覆い被さって来るかのようだ。けれど、圧迫感は不思議とない。
「今更あなたが拒んだところで、現状は何も変わらないじゃない。門は開き、あなたはただ死ぬだけ」
 ああ、彼女の涙が、こぼれる。
「だったら――お願い、生きてよ」
 懇願するように、ロクサーヌが頭を垂れた。
 ずっと軽蔑していた自分の一族と、同じ道を辿るのか。他者を犠牲にしてまで自らの生にしがみつき、おめおめと生き長らえるのか。
 迷う。この反抗心と、友人との離別を惜しむ心と。強気なはずのロクサーヌの涙は、ダアトの心の天秤を揺らす。
「私も、君に生きていて欲しい」セヴルがダアトの座る椅子の横に膝をついた。
「君は、私たちに心の内を話してくれた。私たちも色々考えたが、君の悩みを解決できる明確な方法は、まだ分からない。でも……力になりたい」
 セヴルの真っ直ぐな群青色の双眸が、ダアトを貫く。彼は軽く握った拳で、トンと、ダアトの胸を突いた。
「君は強い。死に直面してまで、納得できないことは納得できないと、意思を貫く力を持っている。だから、」
 神妙な面持ちだったセヴルが突然、にいと笑った。
「それをもう少し貫いて、一歩先まで行ってみないか」
「……一歩先?」
 問えば、セヴルがうんと頷いた。
「エトスエトラの行いに納得できないなら、止めてみせろ。門を閉じ、かつ一族の活路を見出してみせろよ」
「そんな――」無茶な、とまでは言えなかった。
 ふと、沈んでいた水底に、思いもよらぬ一条の光が差したように思えたからだ。
 暗い水底ばかりに目を向けていた。諦めるしかないと思っていたし、それが正しいと思っていた。意地汚い蚯蚓は、水底の泥に塗れて、消えていくべきだと。けれどもそれは、卑屈を正当化して泥に逃げ込んでいただけではないのか。
「君だけだ。隙間の開いた門の状況を知るのも、ヲドルが激減したこの時代に強い魔力を持っているのも。そして――竜族とエトスエトラ双方に接触できるのも」
「どうすればいいかなんて、私たちもまだ分からない。けど、一緒に考えるから」
「私たちは君の力になりたんだ、ダアト」
 不意に、窓の外が眩しく、新鮮な景色に感じられた。遠いと感じた世界に袖を掴まれ、「ここに立てばいい」と居場所を与えられたように感じた。
「その為には、まず生きなくてはいけない」
 窓に張り付いた雪片が硝子の向こうでつるりと滑り、色彩豊かな白の世界が、ダアトを再び迎え入れる。目の前で、自分のくすんだ白い前髪が揺れた。
 また、世界の白に、俺の白を混ぜて、呼吸をしてみようか。
「諦めて命を捨てるのは、足掻いてからでも遅くないんじゃないか?」
 窓の隙間から入り込む白の冷気を吸い、身体の内に満たしていく。
 足掻け。抗え。考えろ。お前にはまだ頭も身体もあるのだから。
 白の世界が、そう叱咤する。
 冷気を吐ききるときには、ダアトの心は決まっていた。


「なんとまあ。あの『死にたがり』が、ついに契約する気になったのか」
 エトスエトラの集落に帰り、そんな皮肉を散々聞かされたけれど。ダアトの気持ちは、もう少しも揺らがなかった。
 異界への入り口は、集落の中央に座する巨大な白の塔の地下にある。ダアトは本音と建て前を交えながら、これまでの非礼を詫びて許しを請い、契約の手筈を整えてもらった。
「異界の環境は竜族にとっても厳しいものだ。お前は契約を決断するまでに時間をかけすぎた。残念だが、あまり良い竜は残っていないぞ」
「どんな竜でも、かまいません。これまでの私の非礼を思えば、こうして契約の手配をして頂けるだけで、頭の下がる思いなのですから」
 同族への侮蔑を悟られぬよう、感謝と親しみを込めた微笑を張り付けて、深々と頭を垂れる。それが白々しく見えないことを祈りながら、ダアトは異界へと繋がる紋章陣へと足を踏み出した。
 爪先が陣に差しかかると、陣がぼうっと暗い光を帯び始める。転送先への不安を募らせるような、薄墨色のヴェールが足元でたなびいた。
「異界は煤で溢れている。向こうに着いたら身体の周囲に薄い防御壁を張りなさい」
 助言に頷きつつ、ダアトは陣の中央に立った。目を閉じ、その時を待つ。目蓋越しに暗い光が強まるのを感じ、転送者が唱える呪文が遠ざかるのを聞き、鼻が微かな異臭を捉える。身体の内を捩じられるような奇妙な感覚を覚え、それが強制的にまた逆方向に捩じられたような不快感をやり過ごしたあと、ダアトはようやく目を開けた。
 目の前に広がる空間が、一変していた。
 白石の床に紋章陣が描かれた薄暗い塔の地下室は、煤けた濃紅の絨毯が敷かれた部屋へと変わっていた。抉れた石壁、蜘蛛の巣のようなひびの走った窓硝子。錆ついた燭台に灯された炎のゆらぎに合わせ、自らの影と、彼を取り囲むようにして並んだ者らの影が、ちらちらと揺れる。
「ようこそいらした――我らが友よ」
 歓待の言葉を並べこそすれ、そこに字面通りの親しみの感情などは、ダアトには見いだせなかった。まるで捕食者に素っ首を甘く噛まれて弄ばれているような、背が粟立つような恐怖を覚えた。
 煤交じりの黒ずんだ空気の流れの向こう、ダアトの目の前に立つ竜の青年は、冷たい笑みを湛えて立っていた。強い癖のある漆黒の髪がこけた頬にかかり、その奥に隠れた切れ長の緋色の瞳は、仄暗い沼のよう。
「此度の契約の見届け人を務めさせていただく。私は竜王が息子、ラファーガ。そなたの名は」
 問われ、答えようとした、その時だ。
「放せっ! このクソ兄貴」
 竜の青年ラファーガの足元に蹲っていた誰かが、語気を荒げ暴れ出した。しかし襟首を掴まれた手を振り解けず、呆気なく床に引きずり倒される。暴れていた少年の頬が、ざらついた絨毯で擦り切れるのを見た。その痛ましい様にダアトは顔を顰めるが、床に倒れる少年を見やって、はたと気がつく。
 少年は、既に傷だらけであった。
 彼の短い金の髪は血と泥で汚れ、強かに殴られたのであろう頬は腫れている。腹を庇うようにして起き上がろうとする様子から、擦り切れた服の下には多数の痣があるに違いなかった。
「……そなたは、運が悪いな。エトスエトラよ」
 深い溜息を吐きながら、ラファーガが少年の髪を鷲掴み、顔を上げさせる。竜族に共通する少年の緋色の双眸は、痛みと怒りの炎が、ぐらぐらと燃えているようだ。
「そなたの契約者は、出来損ないの我が愚弟。名をブロウという。長の一族にありながら、目下の同胞にさえ勝てぬ弱き竜……一族の恥晒し者だ」
 兄のぞんざいな紹介を聞いた少年の瞳の奥に、ダアトは微かな感情の揺れを見た。既視感を覚えた。燃える炎の裏に隠された、暗い水底のイメージ。
 あれは、嫌悪のゆらぎだ。諦めという名の汚泥に塗れた、卑屈な感情の波紋だ。
 ブロウが怪訝そうに眉を顰めるまで、ダアトは自分の口元が薄く笑っていることに気がつかなかった。





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