▼ 021 心の繋がり
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アークへ
この手紙がお前に渡るころには、私は妻のもとにいるのだろう。お前を残していくのが忍びなく、とても心配でならないよ。
元気にしているか? ご飯はちゃんと食べているか?
ほんの少しの時が流れる間に、お前の周りは多くのことが移り変わってしまったね。王都では、きっと辛いことがたくさんあったはずだ。とても傷つき、混乱したことだろう。
どれも全て、私の責任だ。お前に伝えなければいけないことを、私はずっと言えずにいた。私に勇気がなかったせいだ。私の弱さが、お前を苦しめてしまった。
それなのに……お前は、最期まで私の『息子』でいてくれたね。おかげで私はこの命尽きるまで、お前の父親として生をまっとうすることができた。
ありがとう。私は本当にいい息子をもった。世界一の幸せ者だ。
さて、少しだけ昔話をしようか。お前の前からいなくなってからしか伝えられなかった私の卑怯さを、許して欲しいとは言わないよ。けれどせめて、お前の知りたかったことが、なにがしかの答えになるものが、伝えられたらいいと思う。
お前との出会いは、十五年前だ。その日、私はそれまでの人生で経験したことのない、深い悲しみの底にいた。最愛の妻ヒルダが流行病で命を落とし、埋葬をすませた夜だったんだ。
真っ暗な家の中で、私は妻の幻を見ていた。台所に立つ背中や、箒で床を掃くきびきびとした手付きや、私を見る柔らかい笑顔。瞬きをするたびに、彼女のいろんな姿を思い起こしていた。
その中で、私はもうひとつの幻を見ていたんだ。私たち夫婦が授かった、子供の幻だ。
私たち家族の中心となるはずだった。一緒に食卓について母の手料理を食べただろう。背が伸びれば、柱にその成長を刻んだだろう。叱ることもあれば、褒めることも、一緒に喜びを分かち合うこともあっただろうと、たくさんのことを想像しては、その幻を追いかけ家の中を歩き回った。
けれど……病に倒れたヒルダと共に、お腹に宿っていた小さな命も、死んでしまったんだ。私やヒルダと、一目も会うことなく。
もう、分かるね? 私たち夫婦の間にできた子供は、この世に生まれることができなかった。だからね、アーク。お前は、私の本当の息子では、ないんだよ。
……分かってはいたことだけれど、こうして言葉で綴ってしまうことは、恐ろしいことだね。言葉は率直に、偽りなく、事実をありのままの姿で形作ってしまう。私にはそれを飾りたてることも、上手くぼかせる技も持たないから、お前の心にナイフを突き立てているようで心苦しいよ。
すまない。話が逸れてしまうね。続きを書こうか。
落ち込んでいたそのとき、不意に家の扉を叩く音がしたんだ。訪ねてきたのは、私が故郷のルルカ諸島にいた頃の友人である、ブロウという男だ。
ブロウは、一人の赤子を抱いていた。そして、私にその子を引き取ってくれないかと言ってきたんだ。
それがお前だよ、アーク。
赤い癖毛が特徴的な、かわいい男の子だった。亡きヒルダと同じ赤い髪に、私は運命を感じたのかもしれないね。無邪気に笑いかけてくるお前から、私は目が離せなくなった。私が見ていた幻が……具現化したかのようだった。
引き取ってくれないかというブロウの頼みは、二つ返事で引き受けたよ。もうその時から、お前は私の『息子』だったから。
ただ、ブロウから釘を刺されてはいた。「こいつは人間じゃない。普通の亜人でもない。しばらくは普通の人間のように成長するかもしれないけれど、いつ覚醒するか知れない化け物だ」と。
私は、それでもよかった。その時がくる前にきちんと話をするつもりでいたし、目の前の小さな命を見捨てることなど、到底できはしなかったから。
でも実際は……全く言い出せなかった。もしかしたら、親子という絆を壊してしまうかもしれない。そう思うと、どうしても言えなかったんだ。それが、お前を最も傷つける結果を招いてしまった。本当に、ごめんな……
長くなってしまって、すまないね。そんな経緯があって、私はお前を引き取った。
だが実のところ、お前が最も知りたがっているであろう出生に関することは、ほとんど何も知らないんだ。
引き取る際ブロウにも聞いたけれど、はっきりとは答えてくれなかった。でも彼の様子からすると、何か深い事情があるようだった。とても辛そうだったし、生れ云々は私にとって重要ではなかったから、追及はしなかった。
だから、もしお前が自分の生まれについて何か知りたいのならば、ブロウを訪ねなさい。今はヘレ同盟国のグローネンダール領第四地区にある、ウガン砦という所にいると聞いている。金髪で、左目のない隻眼の男だ。額には一文字の傷跡がある。
それから、もし王都の家に帰ることがあれば、私の部屋のクローゼットを調べなさい。奥の方に、ブロウとやり取りした手紙を入れた文箱が隠してある。お前を引き取ってすぐ彼からかなりの額のお金が送られてきたのだが、それも使わずにそのまま入れてあるから、持っていくといい。
知るのも、知らぬままでいるのも、お前の自由だ。でもね、アーク。辿り着いた答えがどんなものだったとしても、どうか自分を見失わないでほしい。決して、化け物などではない。今までと何も変わらない、少しだけ不器用なところもあるけれど、誰よりも心優しい私の自慢の息子、アーク・ベッセルなんだ。
困ったことがあれば、友達を頼りなさい。必ず力になってくれる。もしかしたら、亜人をあまりよく思っていないレニ君は戸惑っているかもしれないけれど、きっと大丈夫。あの子は自分の中心にしっかりと芯が通っている、とても強い子だから。アークの本質が何も変わらないことに必ず気がついて、手を貸してくれるだろう。お前も辛いだろうが、信じて待ってやりなさい。
それと……ラナちゃんのことを、よく気にかけてあげなさい。見ていると、法王以外ではお前に唯一心を許しているようだ。彼女も何か心に重荷を抱えているようだから、支えておやり。
これから先、幾度となく壁にぶち当たり、心打ちのめされることもあるだろう。
それら全てを、お前の糧としなさい。
何度でも立ち上がれる強さを、お前は内に秘めているのだから。
顔を上げて、前を見てほしい。お前の未来を照らすのは、お前自身なんだよ。
それじゃあ……体に気をつけて。
アーク。今までも、そしてこれからも、お前は私の息子だ。
愛している。お前の幸せを、いつも祈っているよ。
父より
***
最後まで読み、また最初から読み返す。その途中、こぼれた涙が手紙の上に落ち、インクをにじませた。食い入るように向き合っていた手紙から慌てて顔を離し、手の甲で乱暴に涙を拭った。擦れた眦がひりひりと痛んだ。しかし、胸に宿る温かい何かが、アークの頬を緩ませる。
「父さん……」
涙がまた一筋、頬を伝う。
僕もずっとそう思っているから、安心して。昔も、そしてこれからも、僕は父さんの息子だ――
聞きたいことはたくさんあったが、どれもこれもを飲み込んで、別れを迎えてしまった。それでも、後悔はない。抱えた問いの答えはほとんど得られなかったけれど、代わりにもっと大切なものを受け取ったのだ。
「その涙は、今までの悲しみにくれた涙とは違うね。お父上の気持ちを悟ったかい」
ぽろぽろと涙を溢れさせるアークに、シバはハンカチを差し出した。受け取り、涙を拭う。太陽と草原の青い匂いがほんのり香り、波立つ心を落ち着かせた。
「はい。僕は……幸せ物です。たとえ血は繋がってなかったとしても、僕は間違いなくエイジェイ・ベッセルの息子です。それを、誇りに思います」
「……今の気持ちを、ゆめゆめ忘れてはいけないよ。大切なのは、心の繋がりだ」
シバが、茶を一口すする。長い息をつきながら、持っていた湯飲みを置いた。
家の外から、シュナの無邪気な声が聞こえる。湯飲みを置くコトリという音が、シュナの声を打ち消し、代わりに静寂を呼び寄せた。
「アークよ」
シバの声色は、少し強ばっている。
「ひとつ聞くが、お父上の手紙には、お前を引き取った経緯が書かれていたね?」
「はい。僕の出生について詳しいことは父も知らないようでしたけど、ブロウという男に引き取ってくれと言われたとありました」
「そうか……ブロウが……」
「シバ様は、その男をご存じなのですか?」
問いには答えず、シバは目を閉じて黙り込んでしまった。何かを思案しているようで、眉根を寄せた顔は言葉を続けることを思いとどまらせる。
部屋の空気が張りつめている。灯されたランタンの火すら、揺らめくことを躊躇うようにように縮こまっている。
ブロウ。自分の出自に、深く関わっているであろう男。
一体、何者なのだろう。もしかして、僕の、本当の――?
辛抱強く、シバの次の言葉を待った。心臓が内側からアークの胸を強く叩く。彼女が目を開けるその瞬間まで、アークは知らぬうちに息を詰めていた。
「お前は、知ることを望むか?」
シバの鋭い目に、射竦められる。
「人あらざるものだということと、向き合う覚悟があるか? それは、お父上と血が繋がらぬのだと、お前に改めて突きつけることになる」
――知るのも、知らぬままでいるのも、お前の自由だ。
俯いた頬を、風がなぜた。開いた窓の隙間から、ひらりと草原の匂いが舞い込む。
この風は、どこからやってきたのだろう。潮よりも緑の匂いが強いから、ここより南の地を旅してきたのか。もしかすると、王都を通ってやってきたのか。
アークは顔を上げた。深く風の匂いを吸い込み、体の奥へと染み込ませる。
思い出すたび帰郷の念に駆られた、遠い故郷の王都フラム。今でも鮮明に思い出せるのだ。美しい街並みも。活気ある空気も。こぢんまりとしたレストランも。そして、友の姿も。
レニとウッツ。僕の、大切な親友。
今その二人の隣に立っているには、自分ではない。あの恐ろしい少年なのだと思うと、それだけで怖気が走る。
「シバ様……僕の大切なものを取り戻すためには、それは向き合わなくてはならないことなのです」
――お前みたいな混ざりものの劣化品をパパは欲しがるんて……許さない。絶対認めない! お前のせいで……お前のせいで、僕がどんな惨めな思いをしたか!
身に覚えのない恨み事で奪われた。かけがえのない、大切なものばかりをだ。
「確かに、僕は人間じゃない。鱗を生やした自分が、とてもおぞましくて……恐ろしかった。でも、」
――この二人、僕にちょうだい。
ふざけるな。誰が、くれてやるものか。
「僕は知りたい。何も知らぬまま大切なものを失うのは、絶対に嫌です」
手紙を握りつぶさぬよう、しかしある種の決意に震える拳に、力を込める。
知ることが怖い。父と血が繋がらぬことが、まだ見ぬ本当の親が、そして、自分の知らぬ己の獣の性が。ともすれば、それらは知ることでアークの心を押しつぶそうとするだろう。けれど。
――今までも、そしてこれからも、お前は私の息子だ。
耐えられる。心から自分を愛してくれた、父との心の繋がりがあるかぎり。
「教えてください、シバ様。僕は、僕のことを知らなければならない」
シバの瞳を真正面から受け止め、挑むように真っ直ぐな視線を返した。覚悟のほどを窺うように、シバの聡明な金の双眸が、アークの瞳の底をのぞき込む。気圧されそうだった。けれど、アークは決して視線を逸らさなかった。
刹那的な視線の攻防だった。ほんの少しの時間なのに、息が詰まる。
ふっと、シバが息を吐く。それと同時に、止まっていたような時間が動き出した。ランタンの火が、緊張から解き放たれたようにゆらめき始める。
「……うん。お前の覚悟は、本物のようだね」
シバがすっかり温くなった茶を、ズズとすする。アークも急に口の渇きを覚え、一口茶を含んだ。
「さて、どこから話し始めたらいいのかな」
皺だらけの手を組み、シバは苦笑する。皺だらけの顔が、くしゃりと歪んだ。それはどこか、憂いと後悔を秘めたような表情に見えた。
「ブロウ……この男の話をする前に、お前には知っておいて欲しい人がいるんだよ、アーク」
目の前に座るアークに、シバは手を伸ばす。「手を」と言われ右手を差し出すと、そっと両手で包み込まれた。老婆の手はかさかさとしているけれど、とても温かい。慈しまれている。そう感じ取れる、優しい熱であった。
「名は、ルドラクシャ。彼女は私の娘で、ブロウとは恋仲にあった。お前の――母親の名だ」
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