▼ 009 理由
「嫌だ」
「ロイ、頼むからうんと言ってくれ。せっかく生きて再会できたんだ。もう家族が離れ離れになるのは、俺は嫌だ」
「……兄さんの言っている事は、よく分かるよ」
「だったら!」
「だからって、受け入れる事はどうしても出来ない!」
狭い部屋に怒号が響いた。焦れる兄を拒絶するように、ロイはじりじりと後ずさる。十一年という空白の時間を越えて再会を果たしたはずの兄弟の間には、少しずつ、溝が出来つつあった。
「ここは種族の垣根を取り払う事を最終目標とした、王国ならびに同盟国への反政府組織――かつての平和だったロズベリーの様な、人間と亜人が手を取り合うことのできる、『人族』が生きる国を作ろうとする者の拠点の一つだ」
ブロウの処遇を聞いて呆然とするロイに、オリヴは根気強く説明した。
ロズベリー戦役以来、深まり続ける両国間の溝。一度は手を取り合う事が出来た者同士がその手を離し、武器を取り憎しみ合うという虚しさ。
この地下アジトにいる者は全て、それらを打破し、新たな国の礎を築こうという志を持つ者なのだという。かつてのロズベリーのように何の括りもなく、境界線もなく、自由に手を取り合える国を作るという目的を共有した仲間――
そこに加われと、兄は言う。
平和だったロズベリーを知るロイになら、その志を理解出来ると言う。
確かに、それはロイにとって魅力的な話だった。
ロズベリーの町が好きだった。人族がひとりの『人』同士として手を取り合い、笑い合う事が出来るという事を、幼い自分に自然な形で教えてくれた町だった。そこでの日々が幸せだった事は、危うげな幼少時の記憶にもしっかりと刻まれている。
だからなのだろう。両国の関係が悪化していたとしても、ロズベリーの町が争いの末灰の海に沈んだとしても――ロイは人間を嫌いにはなれなかった。
十一年前に頓挫してしまった、人族共存の再興。それは強い力で、ロイの心を惹き付ける。
けれど――
拳を握る。強く、強く、力を込める。
そうしてから先程オリヴが言った言葉を、胸の内で噛みしめる。
兄の言っている事は、ロイも痛いほどよく分かるのだ。
全く、兄と同じ考えなのだから。
「兄さん、俺は――」
「どうして、俺を助けてくれたの?」
身体の傷もすっかり癒えた、斜陽のさすある日の夕暮。ロイが養生するために借りていた家の庭で、自活の術としての剣術を教えていた時のことだ。
まだ幼いロイには重い剣を地面に突き立て、それを杖代わりにして縋り立ち、荒い息を整える。そうしながら、ふと、ブロウに問いかけたのだ。
「お前が俺の足を掴んで離さなかったからだろう」
軽く返したこの答えでは、ロイは納得しなかったようだ。不満そうに顔を顰めると、「確かにそうだけど、そうゆうことじゃなくて」と食い下がろうとする。その小難しい事を必死で考えようとする少年の初々しさや、彼の生真面目な性根に真正面から向き合うのは、抱いた事のない面映ゆさを覚えた。
眩しいとすら、感じたのだ。その光と向き合う方法を、ブロウは知らなかった。だから、ロイの問いに答えてやる事は出来なかった。
けれど、何故だろう――それに向き合うことは、悪くないと思えた。
「無駄口を叩く暇があるなら手を動かせ。食扶持ぐらい自分で稼げるようになれよ、犬っころ」
「俺は犬じゃない!」
苛立たしげに尾を振りながら、ロイは再び剣を握って向かって来る。
それを打ち負かし、ロイがへとへとになるまで相手をした後。夕食を調達しに町へ向かおうとするブロウの背中に、不貞腐れた様な呟きが聞えて来た。
「へんなひと……優しいのに、優しくない」
俺は、優しくなどない。
ロイがいるはずの部屋の前で、ブロウは足を止めた。
存外早々と抵抗を断念したグローネンダールらは、もといた部屋に閉じ込めた。部屋と廊下とを仕切る垂れ幕を焼いたのだ。魔力(マナ)より生じた炎は今しばらく燃え続け、炎の壁となるだろう。
外にいた見張りの兵は、ブロウに近づく事すら出来なかった。通った廊下の床や壁、天井までもが、炎に舐められ黒く燻される。ブロウを捕えようとする事は、即ち炎の餌食になるという事だった。
その燃え盛る赤い波を背に、ブロウはゆっくりと垂れ幕を捲る。
――どうして、俺を助けてくれたの?
優しさからなど、決してない。
あれは、単なる気まぐれな行動だったのだと、ブロウは思う。
あの時、生を渇望するロイの瞳はあまりにも強く、ブロウが怯む程の美しさを持っていた。屍のように生きていた自分とはまるで正反対の、生命力という逞しさが、その小さな体に培われていた。
それを潰えさせるのが、ただ惜しと感じただけだった。道に落ちていた綺麗な石を、興味本位に拾ってみる。それくらいの感覚だった。だというのに――
ウガン砦を後にした夜、ロイは必死で追いかけて来た。置いて行かないでくれ。そう、震える喉から声を絞り出していた。
無条件で慕ってくれる者がいる、ぬるま湯につかったような優しい時間。それは悪くない物だったけれど、自分が場違いな所にいるような感覚は、最後まで拭えなかった。
だがもう、ロイは一人ではない。他に頼ることのできる肉親が――家族がいる。それならば。
俺はもう、必要ないだろう。
「……ブロウ? なんですか、それ」
垂れ幕を捲ると、鱗と炎に驚くロイが開口一番、そう問いかけた。
纏う炎を消したブロウに恐る恐る近づき、ブロウの手を取る。その硬質な金の鱗に触れ、同じように浸食された頬を見て、驚愕に目を見張る。
「有鱗種? でも、転変出来るなんて……一体……」
戸惑いながら、ロイはそう問うた。それらが古の昔、このエパニュール大陸を戦乱に貶めた種族の証である事に、すぐには思い至らないようだ。
「やっぱり、人間じゃなかったんだ……それよりも、どうやってここへ? 拘束されていたはずじゃ? いや、その前に、さっきの炎は何です?」
混乱気味のロイは、矢継ぎ早に問いを投げる。そのまるで落ち着きのない様が普段の姿からはかけ離れていて、妙におかしかった。
「転変、鱗、炎……まさか、竜族――『世界の嘆き』の生き残りか?」
「は……? 竜、族……?」
オリヴの呟きに、ロイが信じられないといったような顔をする。
――およそ、四百年前。混沌の中にあった名もない一つの大陸で、絶対的な力で他の種族を睥睨し、あらゆるものに破壊と滅びをもたらした種族がいた。それが竜族である。彼らは幾多の種族を喰らい、数多の文明を焼き尽くした。そうしていつしか、名もない大陸を誰かがこう呼ぶようになったという。『エパニュール』――竜の腹という意である。
竜族による破壊は長きに渡り、その戦乱の世は『世界の嘆き』と呼ばれた。その百年続いた争いに終止符を打ったのが、四人の聖祉司である。
三百年前、聖祉司は大陸を巡り、円を描くように聖なる御印、『リベラメンテの楔』を刻んだ。それは大地に培われた命の奔流を呼び起こし、その膨大な力を持って全ての竜族を異界へと封じたという。
以降、竜族の姿は歴史から忽然と消え去った。
それでもオリヴやフィラメラ達がブロウを竜族と呼ぶのには、理由があった。
転変である。
己の姿を変化させる事の出来る種族というのは、極めて稀だとされている。種族の坩堝であるヘレ同盟国でも、その数は片手で数えるほどしか存在しない。
そしてもう一つの大きな要因が、万物を操る事の出来る魔力を扱う力だ。
昔は竜族をはじめ、魔力を操る種族は多く存在していた。だが『世界の嘆き』において、対竜族の要となった魔力を操る種族達は、悉く屠られた。現在では、エトスエトラ(灰被りの民)の一族を除いては存在しない。
ブロウは、その二点の条件を完璧に満たしていた。
立ちつくす二人に見せつける様に、ブロウは垂れ幕近くの壁に爪を立てた。黒く変色した固い爪が、いとも簡単に岩肌に食い込む。力を込めて引っ掻けば、四本筋の爪痕が壁に刻まれた。
「なめるなよ。俺はこんなしけた奴らに生死を握られるほど弱くないぜ」
ロイがはっと息を飲む。
この一言だけで、十分ロイは理解した。ブロウの処遇に気を揉む事に意味などない。ましてや、殺されるだなんて有り得ない事なのだと。
しかし、次の一言がロイの表情を凍りつかせる。
「お前とはここでおさらばだな。よかったじゃねえか、兄貴が生きていて。仲良くやれよ?」
「……おさらば? ここで?」
すっと、ロイの瞳が一気に普段の色を取り戻す。否、それさえ通り越し、どこか冷え冷えとする睨みへと変わる。
ずいと距離を詰めたロイは、ブロウの胸倉を掴んだ。ナイフのように鋭い眼光に、ブロウは面食らう。一体、こいつは何を怒っているのだ。
疑問符を貼り付けた顔のブロウに、ロイは盛大な溜息をついた。
「ブロウって、馬鹿なんですね」
「はぁ? そりゃどうゆう意味だ」
「そうやって、分かってない所が馬鹿だって言ってるんですよ」
「分かってないって、何を、」
ロイに無理やり体の向きを変えられ、最後まで問えなかった。部屋から追い出そうとでもするかのように、垂れ幕へと背中を押される。
外にまで押し出されそうになって、ブロウはいよいよ足を踏ん張ってロイに抵抗した。いくら押しても進まないブロウに、ロイは仕方なく力を抜く。
「おいロイ! 一体何だってんだ!」
「兄さん、理由は……さっき言った通りだから」
声を荒げたブロウの問いになど耳も貸さず、後ろで二人のやり取りを静かに見ていたオリヴに向かって、ロイは言う。
「俺は――この人と一緒に行く。兄さんが生きていて、本当に嬉しかった。またいつか、必ず会おう」
背後のロイの言葉に、耳を疑った。
今――今なんと、言ったんだ?
俺について来る?
「ロイ! 兄貴がいるのに、なんでわざわざ俺について来るんだ!」
いくら問うても、ロイは答えない。「先に行きますよ」などと言って、垂れ幕を捲り廊下へと出ようとする。その腕を引いて止めると、ロイが面倒くさそうに振り返った。
「何ですか」
「何ですか、じゃねぇだろう。意味が分からねぇぞ! 説明しろ!」
なぜ俺について来る。
なぜそれを、兄も止めようとしない。
ロイの言う『理由』とは、一体――
「嫌ですよ」
ロイの端的な一言に、一瞬思考が止まる。嫌? 今こいつは、嫌だとほざいたのか?
「ブロウだって、俺の質問に全て答えてくれる訳じゃない。俺にだって、言いたくない事の一つや二つあります」
二の句が継げないブロウと、もうこれ以上何も言う気のないロイ。二人の間に束の間満ちた沈黙に、オリヴが口を挟んだ。
それにも、ブロウは耳を疑う事となる。
「ロイの意志は固いですよ。ブロウ殿、ロイを……よろしくお願いします」
深く深く、頭を下げながら、オリヴはそんな事を言う。
「何を、何を言ってんだお前らは――」
「ロイ、もし会いたくなっても、直接ここへ来ては駄目だ。ジェノにある『ラマン商会』の本部にいる、カーリダーサという男を尋ねなさい。彼が窓口になってくれる」
「わかった」
当然のように別れのやり取りをしている兄弟達の目は、何の翳りも見せていない。それは決意とも諦めともつかない、清々しさすら感じる顔つきだった。
考えもしなかった展開だ。
腹を括らねばならない選択を突き付けられているのは、俺の方なのか――?
「あなたがウガン砦を去ろうとした時、俺は言ったはずです」
雪が降り、身を切るような寒空の下。二人の旅が始まったあの夜と同じように、ロイがにやりと笑う。
唇の端をつり上げるだけの、不敵な笑い方。
「あなたが何と言おうと、俺はついて行きますから」
それは驚くほど、ブロウに似ていた。
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