BENNU | ナノ


▼ 010 鍵

 剣を掲げて攻め来る者は、炎に舐められ酷い火傷に見舞われた。また遠距離から弓を引く者もあったが、炎の壁を矢が貫通することはなかった。赤い波に飲まれた矢は、ブロウとロイに届く前に灰となって燃え尽きる。
 ほどなくして、彼らの行く手を阻もうとする者はいなくなった。
「どうやってこの地下迷宮を出るんです?」
 最初にフィロメラに連れられて通った門を蹴破り、外にいた門番を手刀で素早く昏倒させたロイが問いかける。追っ手の足止めにと門を炎で焼いていたブロウが、ふんと鼻を鳴らした。
「なんだ。散々息まいてくっついて来たくせに、結局は俺頼みか」
「俺を置いて、一人で逃げる気だったんでしょう? だったら、その手段を持っているはずです」
 少しだけ嫌味を含んだ口調で、ロイは言う。その様子に、ブロウは少しだけ違和感を覚えた。
 いつも餓鬼だ餓鬼だと馬鹿にしたように呼んではいるが、実際のところロイは十七歳だ。あと二、三年もすれば、立派な成人の仲間入りをする。その過渡期にいる彼は、決して幼い少年ではない。むしろ、早くに軍属に就いていたせいか、年の割には大人びたところがある。
 それが、どうしたことか。今のロイの拗ねたような雰囲気は、幼い彼に逆行したかのようだ。
 戸惑いながらもブロウが暗い地下道を歩き始めると、ロイが後に付いてくる。燃える門扉を背にした彼らの行く先には、自らの長い影が踊る炎に合わせて揺れていた。
 炎の明かりが届かない所まで歩き闇に身を乗じると、ブロウは追っ手の気配がないことを確かめ、己の中で猛っていた力を静めた。すると、肌を浸食していた金の鱗が引いてゆく。
 人間と同じ肌に戻ってゆく転変の様が、ロイは見えたのだろうか。相手の顔すら良く見えない闇の中のはずなのに、すぐ側から肌に突き刺さるような視線を感じた。
 ロイはオリヴといたあの部屋を出てから、ブロウの事について一切の疑問を口にしない。
――あなたは、昔から自分の事を話したがらない。でも俺は、やっぱり気になるからつい問いかけてしまうんだ。
 どこかもの悲しさを含んだ口調でそう言われたのは、つい数時間前の事だった。けれど、その昼の一件で既に諦めの境地に至ったのかもしれない。問いかけても無駄。そう思うには十分なほど、ブロウは口を閉ざしてきた。
 しかしそれでも、平時は口煩いはず側近の沈黙ほど、居心地の悪いものはなかった。
――そうやって、分かってない所が馬鹿だって言ってるんですよ。
 一体、何が分かっていないというのだ。俺に言わせりゃあ、お前の方が分かっていない。生き分かれた兄と巡り会うという事が、この戦時下においてどれほど奇跡的か!
「何ですか」
 ロイに言われ、はっとする。いつの間にか、ロイをじっと眺めていたようだった。
「別に」などとごまかし、視線をロイから引き剥がす。それに特に気をとめる様子もないロイが、もう一度「どうやってこの地下迷宮を出るんです?」と問いかけた。
「連れてこられた道、覚えてますか?」
「まさか。何度分かれ道があったと思ってる」
「さあ? 数えてませんよ、そんな事」
 刺々しいロイの口調に些かげんなりしつつ、ブロウはロイから距離をとった。
 掌に意識を集中させると、次第に熱を帯び始める。一度強く握った手を再び開いたとき、ブロウの掌の上には小さな炎の種が燃えていた。
 暗闇に朱を滲ませる炎の種が、ロイの驚いた表情を照らし出す。ブロウが軽く息を吹きかけると、それは蛍のように宙に浮かび上がり、僅かな視界を二人に与えた。
 そうしてから着ていた上着を脱ぎ、ロイに投げて渡す。当惑気味にそれを受け取ったロイは、静かにブロウの動向を眺めていた。
「取るものもとりあえずとんずらして来た俺たちに残されたのは、これだけだ」
 そう言いながらブロウは腰に付けていた皮の袋から、油紙に包まれたビスケットと、度数の高い酒の入った小瓶を取り出して見せる。
『アスクィム』という堅焼きのビスケットは、旅をする者にとっての必需品だ。ヘレ同盟国の様な寒冷地においても凍結せず保存が効く上に、飲み物と共に食せば水分を吸って腹の中で嵩を増し、少量でも十分な満腹感を得る事ができる。そのまま食べてもいいし、炊事道具があるのならば細かく砕いて水で煮て、粥のように食べる事も可能だ。また度数の高い酒は、冷えた身体を温めるのに一役買う。
「次の人里はラルガラ雪山を越えた麓にある町、エラルーシャ教巡礼地の一つである『ベルナーゼ教会』までない。つまり――これっぽっちの食料でこの先を凌がなきゃならんって事だ」
 食料はない。それどころか、雪山越えの装備も、武器すらもない。そんな状態で、いつイラが現れるかも知れない雪山を越えなくてはならない。
「これはお前が食え。俺はしばらく食わなくても問題ない」
 少しだけ何か問いたげな顔をしたものの、結局無言で頷いたロイに、僅かながらの食料も投げて渡す。それを器用に受け取り、自分の腰の袋へとしまい込む。その手は、存外いくらも震えていなかった。何の備えがなくとも、恐れを抱いてはいないようだ。
 図々しい。まるで俺に頼りっきりじゃないか。
 だが、ロイがついて行きたいと言うのならば、特別断る理由もなかった。どちらを選ぼうと、一向に構わない。
 ただ再び――ぬるま湯に浸かった時間が流れるだけ。ただ、それだけのこと。
「それで顔を覆って、なるべく息をしないようにしていろ」
「なぜ、そんな事を?」
「見てりゃあ分かるさ」
 一つしかない目を閉じ、意識を集中させる。
 しんと静まりかえった瞼の裏、はじめに捉えたのは、微かな闇の揺らぎだった。次第に背筋をざわつかせるように闇が粘度を増し、地下の空気を淀ませる。
 ブロウの召喚に、『彼ら』が応じたのだ。
 姿なき姿を、肌で感じろ。声なき声に、耳をすませ。
 苦痛の喘ぎ、咽び泣き。呪怨の囁き、憎悪の吐息――
 ありとあらゆる負の感情が語りかけてくる。それらが腐臭を帯びて蜷局を巻き、ブロウに絡みつく。
「――煤!」
 少し離れた所で、ロイの愕然とした声がした。
 イラの到来だと考えてその場を離れようとしたロイを、「動くな!」と怒鳴りつける。その剣幕に身を竦ませると、ロイはかろうじてその場にとどまった。
 憎い。にくい。ニクイ。
 苦しい。くるしい。クルシイ。
 煤のヴェールの奥から聞こえる苦痛の叫びが、ブロウを取り巻き渦と化す。彼らのねっとりとした触手が腕に絡みつき、微かな熱を感じた。
 それは闇に堕ちた彼らに残った、最期の涙の温度なのだろう。
「――下(くだ)れ」
 ただ一言。それだけで、煤が震えた。大気が戦慄き、ブロウに伸びた黒い触手が、まるで彼を畏怖するかのように恭しく下げられる。
「下れ!」
 もう一度鋭く命令を下すと、煤が一カ所に凝集した。主君へ跪くかのように粛々と頭を垂れ、足下でひと塊になっている。
「道を探せ。ベルナーゼ教会へと延びる、最短の道だ。これだけ広い地下道なら、おそらく組織の奴らが使う中継地点がある。それを見逃すなよ」
 鎌首を擡げる蛇さながらに黒い塊の一部が盛り上がり、主としたブロウを見上げて頷き返す。
「行け」
 促す様に手を振ると、煤の塊は形を崩し、地下道に拡散していった。
「ロイ、もういいぞ」
 拡散と同時に独特の臭気も薄れ、もう息を詰める必要はない。壁を背にして蹲ったままのロイから渡した上着をはぎ取ると、何事もなかったかのようにそれを羽織り、隣に腰を下ろした。何年ぶりかの力の解放に、疲労がじわじわと体を蝕んでいるのが感じられる。
 思わずいつもの癖で上着の内ポケットに手を伸ばし、そこに何もないことに気づいて舌打ちをする。
 そうだ。最後の煙草は、グローネンダールに踏みつぶされたのだった。
「ブロウ……あなたは、煤を……使役出来るのですか……?」
 震える声がした。その声の主の、ついさっきまでの拗ねた子供のような目はとうに消え失せている。
「道を探せ……? ブロウの『一人で逃げる手段』っていうのは、これのことなんですか?」
 ロイの目が映しているのは、恐れではなく、畏れ。
 滅びたはずの種族に対する、畏怖の念であった。
「『世界の嘆き』を引き起こし、そして滅びた、竜族の力……――」
 他に物音を立てる者のない地下道に、ロイの震える声が浸潤してゆく。返事を期待するでもなく零されたその問いは、溶けるように消えていった。


「――ロイは、行っちまったのか」
 垂れ幕の燃えかすを踏みながら、スヴェンが言った。一人部屋の真ん中で佇んでいたオリヴが、ゆっくりと振り返る。
「止められなかった。あの男について行ったのは、ロイの強い意志だ」
 そう小さく漏らすと、オリヴは失った左腕の肩口をさすった。喪失感が、痛みに変わる。取り戻せると思ったものが、指の間をすり抜けて行ってしまった。
――いつかまた、必ず会おう。
 信じよう。必ずまた共に過ごせると、信じて待とう。
 胸には空虚なものが残ったけれど、不思議と落ち込みはしなかった。
 それはきっと、ロイの気持ちが揺らぐことなく真っ直ぐだったからだ。己の意志、己の感情。それらを御した上で、弟は自らにとって重要たるものを選び取ったのだろう。
 長い年月が、流れたのだ。自分に背を向けた弟の背は、記憶の中の彼よりも随分逞しくなった。それは兄であるオリヴに、誇らしさすら与えた。
「オリヴ、気を落とさないで」
 そうとは知らないフィロメラに、労るような優しい声をかけられる。
「たぶん――そう遠くないうちにまた会えるわ」
 にやりとしながら言われた言葉に深く頷き、オリヴは弟がついて行った男の姿を脳裏に浮かべる。
 竜の証たる鱗と、転変してゆく奇怪な様。焔を操るその力は、古の昔に滅びた力のはずであった。
「……分かっている。あの男だろう、法王の言っていた『鍵』となる者というのは」
――いずれこの場所を、私の友人が通るかもしれない。それは私と同じ、古の者。君たちの悲願に必要不可欠な、『鍵』となる者だ。
「古の者ねぇ……法王も人が悪いや。どんな人物か詳しく教えてくれていたら、過激派の間諜だとか疑わずにすんだのに」
 スヴェンがぼやくと、グローネンダールが首を振った。
「そうだと知っていたとて、今あいつを仲間に引き入れる事は出来なかっただろうさ。法王がそう出来ないのだからな。俺たちはただ、知る機会が与えられたにすぎない」
「問題は、彼をどう仲間に引き入れるかね……過激派に転ぶことは、ないとは思うのだけれど」
「なに、光明はある」
 確信を持って、グローネンダールはそう断言する。肩に置かれた手に、オリヴの心臓が跳ね上がった。
「お前の弟だ、オリヴよ。あの少年がブロウと我らの橋渡しとなる。その存在を知っているからこそ、法王は無理に『鍵』を引き入れる事をしないのだろう」
「ロイ……なんと不思議な、巡り合わせなのだろう――」
 死んだと思っていた弟が生き、我らの組織の『鍵』と予言された男と行動を共にしている。そして二人の間には、何か強い繋がりさえ感じられた。とりわけロイからは、強い親愛の情さえも――そうであるのなら、弟もまた、ある意味『鍵』となり得るに違いない。
 そう思うと、オリヴは急に空恐ろしさを覚えた。
 聖都ジェノの法王であるダアトは、数多のエラルーシャ教徒を束ねる聡明な指導者だ。しかしその優しさを湛えた瞳の奥に、冷たいものを何度か垣間見た。「古の者が通る」という予言を授けられたときにも、それを感じたのを覚えている。
 あれは心優しい法王の持つ、もう一つの顔の片鱗だ。他の如何なる事柄をも差し置いて、己の目的を優先する。そういった我の強さを、優しさの裏に確かに隠していた。
 そうゆう男には、ロイの存在はどう映るのだろう。
 意図せず争いの渦中に引き込まれる、哀れな少年に見えるのだろうか。それとも――『鍵』を味方に引き入れる為の、手駒として映るのだろうか。
「本当に、人がお悪い……」
 彼の本音は、一切知れないけれど。
 ロイの出て行った、部屋の出口に視線を向ける。逞しくなった弟の背中。だが危ういほどの真っ直ぐな意志は、何か大きな不安をオリヴに抱かせた。

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