BENNU | ナノ


▼ 008 焔

 もとより、身の危険がある事は覚悟の上だった。
 ロイを引き渡しただけで事が終わるはずもない。いくら仲間の身内だとはいえ、『誰にも知られてはならない』という掟を敷く組織の内部に、そうあっさりと招いたのだ。
 何らかの勝算あっての策なのだとは予想していた。
 だがその『勝算』の正体がこの男だとは、露とも思わなかった。
「報告書には、第四地区で煤が異常発生しているとあったか。イラの大群はそれほどまでに恐ろしかったか、ブロウ?」
――脱走兵が馬鹿正直に街道なんて通れないだろう。
――グローネンダール領第四地区警備隊、ウガン砦の所属だ。
 これらの答えを聞いた時、フィロメラは「切り札を得たり」と内心ほくそ笑んだに違いない。彼女達が『お頭』と仰いで従う者こそ、ブロウが避けていた者だったのだ。
 しかしそれでも、ブロウは取り乱したりなどしなかった。咥えたままの煙草を口先だけで器用にふかし、感慨もなく視線を返す。
 むしろ、この状況は――
「フィロメラにお前の事を聞いた時は、耳を疑ったぞ」
 グローネンダールがゆっくりとブロウに歩み寄った。成人したジャハダ族の身長は、人間のそれをゆうに頭二つ分は上回る。グローネンダールを見上げると天井に描かれた紋章陣が逆光になり、少し眩しかった。
 目を細めると、グローネンダールは睨まれていると捉えたようだ。ピクリと鼻の頭に皺を寄せたその瞬間、彼の平手が空を切った。
「――っ!」
 頬を打つ鈍い音が、狭い部屋に響いた。
 咄嗟に歯を食いしばったおかげで舌は噛まずにすんだが、咥えていた煙草が飛ばされる。
「……この野郎、最後の一本だったのに」
 床に落ちた煙草の火を、グローネンダールはこれ見よがしに踏んで消す。足の裏から再び現れた時には、シケモクにもならないくらい汚れ、中の葉は粉々になっていた。
『グローネンダール』の名を冠する者は、その領地に吹き荒れる吹雪よりも苛烈且つ冷血である――
 市井でまことしやかに囁かれる噂話は、存外的を射ているものだ。
 規律を破った者、任務を遂行出来なかった者。何か失敗を犯した者に、グローネンダールは一切の情けを掛けない。その規律の厳しさは、ヘレ同盟国を四つに分ける領地の中でも群を抜くという。
「隊長が脱走兵となるか……前代未聞だよ。よくも我が領地の名に泥を塗ってくれたものだ」
 怒れる領主(ガルタ)はブロウに詰め寄り、冷たい鬱金の瞳で睨み据える。覆い被さるようなグローネンダールの黒い影の中で、その瞳だけが爛々と輝く様はえも言われぬ不気味さが漂っていた。
 おそらくこの全てを見透かす様な、お前の非を全て知り尽くしているぞと迫って来る様な鋭利な視線が、グローネンダールの前に立つ者を竦み上がらせるのだろう。
 だがそれも、ブロウを相手にとったらただの視線でしかなくなる。
 恐れなど微塵もないふてぶてしい態度は、グローネンダールの癪に触るようだった。
「反省の色はまるでなし、か。同情の余地はないな」
「へえ。同盟国随一の冷血人に、同情なんて感情の持ち合わせがあったのかい」
 軽口を叩くと、グローネンダールの平手がもう一度飛んでくる。再度部屋に響いた鈍い音に、側に立っていたスヴェンが身を竦ませた。
「……解せんな」
 体勢を崩して倒れそうになったブロウの胸倉を掴み、引き寄せる。値踏みするように間近でじっと見つめられ、眉間の皺が深くなった所で突き放された。
 今度こそ体勢を崩したブロウは、後ろ手に縛られているせいで受け身も取れず、床に殿部を強かに打ちつけた。そこに吐き捨てるような言葉が降ってくる。
「どうやってあの勤勉な副隊長を丸めこんだ? ウガン砦からは何の報告も上がって来ていない。ライカン・スロウプは真面目な男だと高く評価していたのだが……どうやら買い被りだったようだな」
 一瞬、それが何を意味する所なのか理解が追いつかなかった。一拍遅れて飲み込めた状況に、ブロウは強く歯噛みする。
――しかし俺はお前が、ただ隊員達を見捨てる男だとは思えない。
――信じるぞ。ブロウ。
 あの馬鹿、俺の脱走を報告していないのか!
 ウガン砦を抜けだしたあの夜、ライカンは確かにそう言った。
 信じる、と。
 それをブロウは、聞かぬふりをしたのだ。
 今すぐウガン砦に駆け戻り、よほどライカン殴ってやりたかった。
 己の事情に巻き込まないために、ウガン砦を去ったのに。これでは、ウガン砦の状況を悪くしただけだ。煤だけならまだしも、領主に目を付けられては――隊長の脱走を助長したとされ、ライカンはおそらく良くて更迭、悪ければ何かしらの刑罰に処されるだろう。
 何が信じるだ。あの大馬鹿野郎が――!
「元部下が心配か? ブロウ」
 ライカンの愚行に怒りを覚えながらグローネンダールを見上げると、そこには嗜虐的な笑みがあった。めくれ上がった唇から鋭い牙が覗き、それが目の前の男をより獣然として見せる。
 グローネンダールが腰に佩いていた剣の柄を握る。ちゃり、と冷たい鍔鳴り音に、スヴェンが固唾を呑んだ。
「心優しい副隊長の身を案じるのならば、抵抗はしない事だ」
「……俺を強請るか。領主(ガルタ)殿」
「抵抗しないのならば副隊長の職務怠慢は不問に処そう。お前の亡骸も、心優しい部下のもとへ送り返してやる」
「俺の死体を見せしめに使うか。ライカンの処遇に至っては、あんたが言うと冗談にしか聞こえないぜ」
「さてな。だが貴様の態度次第では、スロウプには厳罰をくれてやる」
 グローネンダールが剣を抜く。しゃらん、という刃が鞘を擦る音以外、部屋は束の間、静寂(しじま)に満ちた。その張り詰めた緊張感に、フィロメラでさえも、スヴェン同様に固唾を呑む。
 グローネンダールが切っ先をブロウの首に向ける。剣を振り上げる、その寸前――ブロウは大きく吹き出した。
 スヴェンとフィロメラが呆気にとられる中、ブロウは笑った。グローネンダールの放っていた気迫など歯牙にもかけず、喜劇でも見ていたかのように背を折って笑っていた。
「気でも触れたか」
 狂人を蔑むようにグローネンダールが呟くと、ブロウはくつくつと喉の奥で笑いながら、ゆらりと立ちあがった。
「領主殿。あんた、思っていたよりも甘いな」
「……どうゆう意味だ」
「その言葉通りさ。のこのこと俺の前に姿を現すなんてな」
所属していたグローネンダール領の領主が、この地下アジトに潜む組織の長であった。それが今素性を隠すでもなく顔を晒し、目の前に立っている。
 そう、この状況はむしろ――好都合なのだ。
「ライカンの処遇の脅しなんぞ、俺が握ったお前の弱みに比べたら糞みてぇなものだろう。ここが何の組織のアジトなのか、当ててやろうか」
 もったいぶる様に一呼吸置いたあと、ブロウは言った。
「ここはどう見てもレジスタンス組織のアジトだ」
――俺たちは『影』――強い光が伴う痛みだ。
――光の憂いは、光がそれと気付く前に取り除かなければならない。
「それもその組織の中で、お前らが『光』と仰ぐ本来の頭目が預かり知らない、汚れた仕事を扱う者のアジトとみた。極度に外部に知れる事を恐れる掟を敷くのは、組織の存在をまだ世間から隠す時期だという事以上に、お前たちの行動事態が『光』を蝕む『闇』となり得るからだろう」
 グローネンダールの視線がぎろりとスヴェンへと滑る。その先で出来の悪い兵が一名、上司の殺気に縮み上がった。
「しらばっくれても無駄だぜ。俺をこのアジトに入れた時点で、お前らはその最大の証拠を晒したんだ」
 上に向けて顎をしゃくると、その場にいた者全員が天井を仰いだ。
 天井には、旧暦の昔に忘れ去られた古代文字で描かれた、薄紫に輝く紋章が施されている。彼を除いてはいないのだ。ブロウが知る限り、これを扱えるのは憎らしい旧友――ダアトただ一人。
「この紋章があるという事は……ジェノの法王が絡んでいるな。中立国の王の手を借り、人目を忍んで何を企む。大陸統一の革命でもおこすつもりか?」
 ブロウの言葉に、三人は閉口する。
 その間にも、天井から降り注ぐ魔力(マナ)は、彼らを苛めないでおやり、とブロウを窘める。
 あいつめ。『見て』やがるな――
 彼の魔力のある処に、彼の意思はある。何処からかこの状況を感じ取っているのであろう旧友の溜息が、今にも聞えて来そうだった。
 あいつがただの反乱に力を貸すはずはない。あいつの『目的』と彼らの行動理念が一致しているからこその助力なのだろう。それは同時に、表向きの立場である『ジェノの法王』という地位をもって、助力するに足ると確信を得た組織だともいえる。
 一体誰なのだろう。グローネンダールらが『光』と仰ぐ頭目は――
「……もしお前の言う通りなのだとしても、それが一体なんだというのだ?」
 沈黙を破ったのは、グローネンダールの無感動な声だった。
「俺を強請り返しているつもりか。無駄な足掻きはよせ、ブロウ。お前の言った事が真実だとしても、お前の処遇は変わらない。ここで消える。それで終わりだ」
 ブロウの語りに下げていた剣先を、再び構えなおす。天井の紋章の光が跳ね返り、ブロウの顔に細い薄紫の線を引いた。
 駄目だよ、彼らを傷つけないでおくれ、という小さな声が、耳に届いたような気がした。
 知るか、そんな事――
「領主……いや、グローネンダールよ。さっきから俺の処遇がどうこう言っているが、それがそもそもの間違いなんだ」
――その笑い方、感じ悪いですよ。
 今は隣にいない口煩い側近によく窘められていた、唇の端をつり上げるだけの不敵な笑みを浮かべる。相手の神経を逆撫でするようなそれは、グローネンダールの眉間に深い皺を刻んだ。
「好きにほざくがいい。武器もない、身の自由を奪われた俘虜の貴様に何ができる」
「俘虜? へぇ……誰が?」
 ブロウが笑みを深くする。その憎らしく歪む頬に現れた変異に気付き、三人は瞠目した。
 ブロウの顔が、一枚、また一枚と、てらてらと光るものに浸食されてゆく。毒々しい光沢であるにもかかわらず、はっと目を奪われるほどの荘厳さを持つ、見事なまでの金の色。
 紛れもなく、それは鱗であった。
「俺はジャハダ族やモッキア族なんぞにやられるほど、落ちちゃいない」
 肌を焦がす熱が、狭い部屋に満ちる。ブロウが纏うそれに耐えられず、グローネンダールが後ずさった。
 ブロウの輪郭が陽炎のように揺らぐ。炎だ。ブロウから迸る熱が集約し、渦巻き、鮮やかな緋色となって燃え盛る。
 それはブロウを拘束していた縄を舐めるように這い、灰へと還す。床にその燃え滓を撒きながら、ブロウは金の鱗に覆われた己の手を検めた。一枚一枚が棘のように鋭く硬く、爪は醜く黒ずんでいる。
 何年振りだろうか。あれほど厭うたこの力を、ここまで解放するのは――
「オッサン……なんだよ、それ……」
 震える声に、ブロウが顔を上げる。見れば、石壁に張り付くようにしてブロウから遠ざかろうとする、怯えたスヴェンの姿があった。フィロメラとグローネンダールは各々武器を構える。だがその勇ましい姿とは裏腹に、喉は警戒心むき出しの低い唸り声を発していた。
「魔力(マナ)――万物を操る術(すべ)を持つ種族は、エトスエトラ(灰被りの民)を除いて『世界の嘆き』で滅んだはずだ。その上、転変する有鱗種だと? 馬鹿な、貴様は――」
 独白じみたグローネンダールの問いを遮る様に、ブロウが変異をとげた手を振った。
 空気の震えが火花を生む。魔力を巻き込み焔と化し、火柱となって石の床を走る。その道筋は炎に燻され、一本の黒い筋が尾を引いた。
 俺もあのメギュ族の廃墟に立つ石柱と同じなのだ。刻(とき)の流れに忘れられた、過去の遺物にすぎない。
「竜族――! 生き残りが、いたというの……?」
 フィロメラの問いに、ブロウが視線を向ける。視線が合う。ただそれだけなのに、フィロメラの手は震えた。
 恐怖。それは獣の血を引く亜人が故の、本能的な覚りだった。
 ――喰われる。
 どちらが捕食者であるのか。一瞬にして、フィロメラは覆し様がない絶対的な立場を知ったのだ。
 焔を纏った一人の竜が、黒い爪を掲げ一歩を踏み出す。
 その一歩は重く、熱く。冷たい石床さえも黒く焦がす。
「そこをどいてもらおうか。頭の足りねえ餓鬼が早合点する前にな」

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