BENNU | ナノ


▼ 007 罠

「もしかして……オッサンはさ、こうなる事が分かってた?」
 ロイと別々に通された部屋に入ってすぐ、スヴェンがそう問うた。
「捕まるとき妙に冷静で、潔さすら感じたぜ」
 腕を組んで壁に寄りかかりながら、興味深そうに瞳を丸くする。その問いかけるような視線は、言葉にせずともブロウに疑問を投げかける。
 別離すると分かっていながら、何故わざわざ死地へと足を踏み入れた――?
 答えなかった。ただごつごつと固いばかりの石床に腰を下ろし、胡坐をかく。何の敷物もない床の上に座っていると、殿部が徐々に冷えてくる。天井に輝く薄紫の紋章は、明度と気温を上げてはくれても、床はその限りではないらしい。
 天井の紋章を見たとき、「ああしまった」と臍をかんだ。
 逃げたはずだったのだ。旧友の面倒な頼みに耳を塞ぎ、燃える聖地(エルダ)に目を塞ぎ、ウガン砦の戦友たちを見捨ててまで。……煤に捲かれていた砦がどうなったのか、それだけが心残りであったが、そんな感情にも蓋をした。
 そうしなければ、切れてしまう。今まで辛うじて己を保ちながら渡って来た道が、細い糸の様な道が、途切れてしまう。
 ただただ、盲目的に前進する(生きる)。その『拒絶』という盾を手放してしまえば、糸を守ることなどできはしない。
 だがあの旧友は、それを手放せと言う。後ろを振り返れと言う。ともすれば、それは糸を切る行為と等しいというのに――
 胸焼けに似た不快感を覚え、とめどなく溢れる思考を堰止めた。
 腐れた瘡蓋が、また疼く。己の奥深くで、しとり、しとりと血を流す。
 いつから、俺はこんなに弱くなったのだ。何かを感じるようになったのだ。昔は傷の存在すら忘れるほど、何も感じず、考えずにいられたのに。
 天井に輝く紋章の光が、鼓動のような規則的な点滅を止め、一瞬物悲しく揺らめいたように見えた。魔力(マナ)が、憐憫の情を孕んでブロウに降り注ぐ。
 余計なお世話だ――舌打ちをし、目を閉じて魔力の慰めをも拒絶した。
「――おいオッサン。俺の話、聞いてるか?」
 問われ、ブロウは顔を上げた。怪訝そうなスヴェンの視線がこちらを向いている。
 正直なところ、全く耳に入っていなかった。肩を竦めてみせると、スヴェンが大きな溜息をついた。
「この状況で、ずいぶん余裕だな。恐れ入るよ」
「そりゃあ褒めてくれてんのかね」
「呆れてんだよ。……全く、今度はちゃんと聞けよ」
 スヴェンはブロウと同じように腰を下ろし、床に胡坐をかいた。同じ視線の高さになると、真っ直ぐにブロウの目を見据える。
 そこには、覚悟の上に色をなす、強い意志の光があった。
「あんたには、選択肢はない。ここで消えてもらう」
 静寂に落ちる一滴の雫のように、静かなる声でスヴェンはそう言った。それは今までの陽気な彼の印象とは、かけ離れている。己の感情を押し殺した、無機質なばかりの言葉だった。
「ああ、そうかい」
 ブロウが特に驚いた様子もなくすらりと返事をすると、スヴェンは肩すかしをくらったようだ。
「そうだよ……まったく、なんでそんなに落ちついていられるんだ。死の宣告をしてんだぜ」
「なるほど。そりゃあ気が付かなかった」
「嘘こけ。あーやだやだ。最期までスカしやがってよぉ」
 頭を掻きながら、スヴェンは憎々しげに言い放つ。
「なんだって、そんなに他人事みたいにしてられるんだ。こっちは……最悪の気分だってのに」
 つい漏らした本音にスヴェンはあっと口を噤むが、もう遅い。くつくつ笑い始めたブロウをねめつけた後、己の口の軽さにがっかりしたように背を丸める。
「問答無用で俺達を殺そうとした奴にも、良心の呵責はあるわけだ」
「当たり前だ。人が一人、死ぬんだぞ。口封じの為だけに……」
「怖いのか」
 ブロウの短い問いに、スヴェンは素直に頷いた。
「そりゃあ、怖いさ。他人の命を、そいつが持つ可能性の全てを、握りつぶすんだからな。何度経験しても慣れるもんじゃないし、慣れちゃいけない事だ。でも――」
 スヴェンはブロウに詰め寄り、剣を抜く。ひゅっと空を切り裂いた白刃を、ブロウの胸に突き立てる寸前で止めた。そのスヴェンの瞳は、先ほどと同じ強い色を湛えている。
「俺たちは『影』――強い光が伴う痛みだ。光は図らずとも周囲の物事を照らし、小さからず闇を生む。闇は光を惑わし、絡め取る。……光の憂いは、光がそれと気付く前に取り除かなければならない」
 剣の柄を強く握り締めながら、スヴェンは一呼吸にそう言い切る。声も手も、震えてはいない。真っ直ぐな瞳にも迷いの色は見えない。
 だが、後に続いた言葉には、顔を顰めずにはいられなかった。
「それでも俺は……あんたとロイにはすまないと思ってる。俺達があんたらをアジトに招待した。その結果が、これだ。……オッサンには死を、ロイには肉親と恩人のどちらを選ぶかの二択を突き付けた」
「前者を選んだら俺一人が死ぬ、後者を選んだら二人で死ぬ。どっちを選んでも人死にが避けられない。子供には随分とえげつない仕打ちだと思うが?」
「ああ……俺も、そう思う。でも俺とフィロメラだけじゃ、あんたに敵わなかったから。掟を順守するためには、オッサンをここへ誘い入れるしかなかった……。フィロメラは、ロイが俺達について来るならオッサンも必ず来ると考えたんだ。俺がロイを人質に取った時、あんたすごいおっかねぇ顔してたもんな」
 最後の一言を言うときだけ、スヴェンはくすりと笑みを零した。ブロウはそれを鼻で笑い、聞き流す。
「……で、アジトにさえ入れてしまえば、俺は否応なく孤立無援。始末も容易い、って事か」
「耳が痛いが、その通りさ」
 申し訳なさそうに、スヴェンが再び目を伏せる。
 気落ちするスヴェンの姿は、どこか気の抜けるものがあった。
 組織の掟に純粋すぎるほどの覚悟を持って臨むが、その実、敵にさえ本音を漏らしてしまう人懐っこい性質。更には組織の内情まで漏らす口の軽さ。兵としては、未完成で出来が悪い。だが――
 嫌いではない。
「おい」
 ブロウが声をかけると、スヴェンが視線を上げる。
「煙草、取ってくれるか? 上着の内ポケットに入ってるんだが」
 ブロウの唐突な頼みに、スヴェンがまた大きな溜息をつく。
「本当に図太いぜ、オッサン……」
「お前が言うには、俺はここで死ぬらしいからな。最期の一服ぐらいさせてくれてもいいんじゃねえか?」
 わざと気落ちした声を出すと、スヴェンが言葉を詰まらせる。哀れな事に、純粋な若者をからかって楽しんでいる嗜虐的な響きに、スヴェンは全く気が付かない。
 もう一度重い調子で「ごめん」と言われた時には、吹き出すのを堪えるに必死だったほどだった。
 後ろ手に縛られたブロウの代わりに、スヴェンが煙草と燐寸(マッチ)を取り出した。最後の一本だった。
「お前は俺に、『あんたには選択肢はない』と言ったな。選択肢を持つロイに、それを伝えたのか?」
 煙草を箱から取り出し咥えさせてもらう寸前、ブロウはそう問いかけた。スヴェンの手が一瞬止まる。
「……たぶん。今オリヴが組織に入る様に説得していると思う。その時、自然とあんたの処遇の話になるだろうから」
 燐寸を点け、ブロウが咥えた煙草の先に近付ける。息を吸うと、煙草に火が移り胸に紫煙が滲み込んでくる。スヴェンにはただ相槌を返し、しばらく無言で煙を楽しんだ。
 沈黙の満ちる部屋の中で、ブロウはあるひとつの確信を得ていた。
 ロイは、俺に選択肢がない事を知っている。ならば――あいつは組織に入る事は選ばない。
 自惚れなどではない。ロイはまだ、甘さが抜けない。自分が助かり、誰かが助からないならば、あぶれた者に手を伸ばしてしまう。……そうゆう奴だ。
 深く、深く、息を吸い込む。
 そうして溜めた煙を、スヴェンに向かって一気に吹きかけた。
「な、何しやがんだ!」
 咳込みながら離れて行くスヴェンに、ブロウは唇の端をつり上げてにやりと笑って見せた。その意地の悪い顔で言った次の一言に、スヴェンは耳を疑った。
「自責の念に浸るのもいいが、そりゃあ無駄ってもんだ。俺は大人しく殺されてやる気はねえからな」
 そう言うが早いか、ブロウは立ちあがって扉へと歩き始めていた。咳込み過ぎて眦に滲んだ涙を拭いながら、スヴェンがその歩みを遮る。抜き身の剣をブロウへと向けると、溜息をつきながらもブロウは足を止めた。
「無駄なあがきだな」
「そりゃあ俺の台詞だろうが。オッサン、分かってんのか? 俺は剣を持っている。あんた縄で縛られてるうえに、丸腰なんだ」
 剣を目前でちらつかせ、凄みをきかせたスヴェンの言葉にも、ブロウは動じない。恐れるどころか、嘲るような笑みさえ浮かべる。
「腹立つな、その笑い方。待機命令を無視して、今ここで引導渡してやろうか」
「へえ、お前はただの見張りって訳だ」
「今回はな」と、揶揄するようなブロウの口調を、短く言って退ける。
「冥途の土産に教えてやるよ。フィロメラの狙いは、三つだ」
 ブロウの前に指を三本立てた手を突きつけ、スヴェンはそう切り出した。
「一つ目が、ロイとオリヴを会わせる事。これはただ純粋に、仲間の家族が生きていた事が嬉しかったから。二つ目は、俺達が敵わなかったオッサンをアジトへと誘い入れて始末する事。こりゃあ、一つ目の狙いをだしに使えばおのずと得られる結果だった。……二つ目の狙いがなけりゃあオリヴを外に呼んで、ロイに辛い選択させずにすんだんだけどなぁ……」
 最後だけは、ひとりごちるように細く呟く。一本ずつ指を折りながら、スヴェンは語った。
「そして三つ目が、」
 そして最後の一本を折るその時、部屋と廊下とを仕切る垂れ幕が開かれた。
「うちのお頭に、あんたを引き合わせるとこ。お頭はおっかねえぞ、脱走兵さんよ」
 初めに見えたのは、黒い毛に覆われた亜人の指だった。――まさか。そう思うが、垂れ幕を捲って現れた見上げるほどの大男の姿が、杞憂であれと祈っていた思いを打ち砕く。
 なんでこの男がここにいるんだ――!
――脱走兵? 所属はどこだ。
 そう訊いたフィロメラが、初めからこうなる事を予期していたとは思わない。少なくとも、ブロウの所属がグローネンダール領だとは確信を持っていた訳ではないだろうし、ロイに会った事はさらに想定外だっただろう。だが彼女の無駄のない詰問と的確な状況判断が、こうして結局彼女の思い通りの結末へと導いた。それがどうにも癪に障った。
 ジャハダ族としては稀有なその毛並みの色は、夜の闇よりもなお暗く、鉄(くろがね)の様に鈍色に艶めく漆黒。開かれた二つの満月は底冷えのする冷気を湛え、ブロウを見下している。
「やってくれたな、モッキア族……!」
 男の影からしたり顔で部屋を覗くフィロメラに向かって、そう吐き捨てる。しかし彼女はただ無言で、笑みを深くするばかり。
「こんな所で何をしているのか説明してもらおうか。ウガン砦の『隊長』殿――?」
 地鳴りのような低い声が、ブロウの背筋に冷たいものを走らせる。
 この男に見つからんとするために、わざわざ苦労を押してまでラルガラ雪山を越えようとしたというのに。とんだ笑い話だ。自らこの男の手中に、足を踏み入れてしまった。
 グローネンダール・ディラン・エンクルマ。
 ヘレ同盟国グローネンダール領が領主(ガルタ)その人が、目の前に立っていた。

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