▼ 026 手紙
「……酷い事をするね」
誰かが、汗で額に張り付いた前髪を優しくかき上げた。その感触に、閉じていた瞼をゆっくりと開ける。
汚れた床がうっすらと見えた。血と嘔吐物が混ざり合って、異臭を放っている。
気遣わしげに覗きこんで来る人物に、視線だけ向けた。前回会った時と同様にフードを目深に被っているが、仰ぎ見ているせいか、今日は憂いに満ちた銀の瞳が見える。影になってよく分からないが、その顔は想像していたよりも若そうだ。
「……あんたか……よく、牢の中に入れたね……」
「おや、意外だ。あまり驚かないんだね」
ローブの男の言葉にも、アークはただ乾いた、小さな笑いを漏らしただけだった。
心を動かす力も、もうない。ぽっかりあいた胸の穴から、全て流れ出てしまった。
「大丈夫かい?」
アークを助け起こし、壁に寄りかかるのを手伝いながら、男は言った。答えの代りに、口の中に溜まっていた血混じりの唾を床に吐き出し、背中を折って咳込んだ。その背を、男が労わる様にさすってくれる。覗き見た若い男の顔とは不釣り合いに骨ばっているが、しかしとても優しい手だった。指先まで彫られた朱色の文字の様な刺青が、男の手の青白さを強調させている。
「遅くなってごめんね、もう少し早く来てやれれば良かった」
「……あんた、ダアトって言ったっけ」
夢の中の少女、ラナは彼をそう呼んでいた。彼女は、この骨ばった手が好きだった。
「あんたは、僕が何者だか知ってる? ……キック達に蹴られる度に、殴られる度に、僕は自分が恐ろしかった」
殴られた時に切ったのか、唇の端を汚していた血を肩袖で無理やり拭う。
その下に、傷はない。
「傷が……付いたそばから治ってくんだ。痛いのは最初だけで、すぐに跡形もなく消えてしまう。キックにやられた傷も、もう痛く……痛く、ないんだ」
口の中も切れたはず。舌でその辺りをなぞってみても、粘膜はぞっとするほどに滑らかだ。
抑揚なく紡がれるアークの呟きを、ダアトは黙って聞いていた。肩に置かれた手に、少しだけ力を込められる。
昔は、こんなことは決してなかった。転べば擦り傷が出来て、何日も痛い思いをした。包丁で指を切った時だって、水仕事でふやけた傷はなかなか治らなかった。
いつから……いつから僕は、『人間』じゃなくなったんだ――。
「じゃあ……君は今、自分は誰だと思ってるんだい?」
ダアトは魂の抜け殻のような、アークの冷えた肩をさすりながら、静かに問いかけた。
「私が、当ててみせようか?」
にこりと、唇が綺麗な弧を描き、ダアトは柔らかく微笑んだ。
「穢らわしい化け物。……そんな風に、思っているんじゃないかな」
「笑いながら、酷い事言うね……。でもそれは、外れちゃいない。当たってるよ。見て」
アークは強く拳を握り、爪で掌に傷を作る。それをダアトの目の前で広げて見せた。
「治っていくだろ? ほら――もう、跡形もない。何だよ……何なんだよ、これ。昨日の鱗も、レニを火傷させた炎も、この再生力も……! 気持ちが悪い、化け物の証だろっ……!」
喉の奥から絞り出す様に声を上げる。胃酸で焼けた喉が熱い。
「だから……だからレニも、僕を見限った……亜人は、あいつの仇だから……!」
泣き出したい程に頭の中がぐちゃぐちゃなのに、涙は一滴も出なかった。空っぽで、虚ろで、真っ暗。それしか残されていなかったのだ。
そんなアークに向かい、ダアトは静かに首を振った。
「駄目だよ、アーク。悲しみに浸って、自分を閉ざしては駄目だ。悲劇の主人公を演じてはいけない。見えるはずのものも、見えなくなってしまう」
目深に被られたフードの奥に覗く、銀の瞳。寒い日の夜空に浮かぶ満月の様に、暗闇の中でも優しく光っている。
「確かに……君を取り巻く世界は、少しだけ変わったかもしれない。でもね、君自身の根幹は、何一つ変わってなどいないんだ。君は、アーク・ベッセル。今も、昔も、そしてこれからも」
諭すように優しい口調で語りかけるダアトは、その骨ばった人差し指でアークの上着のポケットを指さした。何か白い物が、少しだけはみ出している。
「その事を、君自身よりも知っている人がいる。自分を化け物だと卑下する前に、それを知らなくてはいけないね」
ダアトはそれを摘みポケットから出すと、アークの手に握らせた。
不自由な手で受け取り、訝しげに掌を開くと、くしゃくしゃになった紙があった。皺をのばしながら開き、そこに書かれている文字を見ると、どくんと心臓が大きく動揺する。
それは、手紙だった。読みやすい綺麗な字は、よく見覚えがある。
「……ウッツの、字だ……」
手紙を持つ手が震える。取り落とさない様にと手に力が入ってしまい、皺だらけの紙に更なる皺が付いた。
『忘れるな!
人間だろうが、亜人だろうが、お前はお前だ』
たった二行の短い手紙。それでも、アークには十分だった。
涸れたはずの自分の奥から、何か熱いものが込み上げた。喉の奥に、鼻の奥に、目の奥に、それは広がってゆく。手紙がよく見えない。それは目に溜まる涙のせいなのか、零れた涙がインクを滲ませたせいなのか、あるいはその両方なのかは、よく分からなかった。
ああ――壊れた何かが、音を立てる。破片同士が繋がってゆく。
「いい友達だね。少しだけ、君が羨ましい。私の友達は意地悪ばかりだったから」
しゃっくりかえるアークの背をさすり、少しだけ苦笑いしながらダアトは言う。
「それから、さっきの少年――レニ君といったかい。今なら、彼の事も分かって上げられるよね?」
抑えの利かない涙を隠そうと深く俯いていたが、それでもしっかりと頷いた。
くしゃくしゃになったウッツの手紙が、なぜポケットに突っこまれているのか。思い返してみれば、簡単な事だった。
突飛ばされた時だ。その時しか、レニに近づいていない。
レニがなぜ、何も語らなかったくせに獄舎へ姿を現したのか、考えてもみなかった。おそらく、ウッツに頼まれたのだろう。民間人のウッツには、騎士団の敷地の奥、それも獄舎の中には入れない。看守の兄を持つキックに助けを借りたのか、それともアークに制裁を加える為にやってきたキックにたまたま同行したのかは知る由もないが、それでもレニはアークの元に手紙を届けてくれたのだ。
レニは、アークの奇怪な腕を見た数少ない人物だ。混血――亜人である事をその目で確認している。そしてただ一人の、その異形の力の被害者だった。
父親の仇と同類の血を引くアーク。
幼い頃から親友のアーク。
その二つがレニの中の天秤を大きく揺らし、混乱させている。確かに、レニには裏切られた形になってしまったのかもしれない。それでも、まだ彼の中には迷いがある。その証拠が、今手の中にある。
堪らなかった。くしゃり。手紙が握りつぶされる。二人に会って、話がしたかった。
震える拳に、ダアトの手が添えられる。視線を上げれば、先ほどまでの笑顔とは打って変わり、深刻そうに唇を引き結んでいた。
「気持ちが落ち着いたなら、立ってくれないか」
ぐい、と強い力で手を引かれた。訳も分からず、されるがままに立ち上がる。
ダアトが、何かを呟いた。小さな声でよく聞こえなかったが、その発音は聞きた事のないもので、アークの知らない言語のようだ。
ダアトの指先に、薄紫の光が集まり始める。それと同時に、男の肌に彫られた朱色の刺青が、別の生き物のように点滅した。
始めて見る不思議な光は、何か文字の様な軌跡を引いてアークの手枷を囲む円となった。ダアトがふっと息を吐いて、淡く光る手を上から下へ振り下ろすと、思いもしない事が起こった。
サラサラと音を立てながら、手枷が砂となって崩れ落ちたのだ。
呆気に取られながら、自由になった手をまじまじと見つめる。手枷の残骸が肌の上を滑っていった。
驚くアークに、ダアトは手を差し伸べた。
「逃げよう、アーク。君は冤罪なんかで死ぬわけにはいかない」
「……冤罪?」
「そうだ。ここは、人間主義の国。……君は、必ず死刑になる」
急に、背筋が粟立った。死刑。キック達の下した私刑なんかとは訳が違う。
――破傷風にでもなって死なれては裁判になりません。
エレナも言っていた。そうだ。裁判にかけられるのだ。糾弾され、裁かれる。その判決は、ダアトの言う通りだろう。
しかし、一つだけ釈然としなかった。
「どうして『冤罪』なんだ? だって僕は……人間じゃ、ないだろう? 冤罪も何もない」
「そう。君は半分人間ではない。冤罪はそっちの事じゃない。人を傷つけたという方だ」
「……レニの事だろ? 冤罪なんかじゃない、あれは、僕が――」
「違う。あんな火傷、彼が騒ぎ立てると思う?」
ダアトの言わんとする事が掴めない。フードの奥の瞳が、少し焦りの色を帯び始めた。
「君は――亜人の血を引く者として国逆の汚名を着せられた上に、ブランカの生き残りの少年を殺そうとした罪で、裁かれようとしているんだ」
――ブランカの生き残りを殺そうとしたそうじゃないか。鱗が生えていたっていう腕で、無抵抗の子供を切り裂いたんだってな。
強く、頭を殴られた様な衝撃を感じた。そうだった、キックがそんな事を言っていた。
「違う! 僕はスクァールを殺そうとなんてしていない! あれは、あれは……!」
その後に続く名前を口に出す事が恐ろしくて、口籠る。大声を出すアークを諌める様に、ダアトは「静かに」と囁いた。
「分かっている。君じゃない。これはわざと虚偽を騒ぎ立て、人々の亜人への憎しみを焚きつけて君を追い込もうとしているんだ」
「な……誰が、誰がそんな事を……!」
「よく考えて。嘯いているのは、一人しかいない」
レニではなく、アークに殺されかけたのだと、事情を聴きに来た騎士に告げられる者は、たった一人だけ。亜人によって故郷を失い、先頃の事件で生死の境を彷徨っていたはずの、あの幼い少年。
「……何かの、勘違いだろ? だって、あの時、あの子は気を失っていたし――」
「気を失ってなんていないよ。僕の目は、ずっと覚めていた」
ダアトが、はっとしたように鉄格子の向こう側を見た。「しまった」と小さく悪態を漏らしたが、それはアークの耳には届かない。
こつ、こつと、上質な革のブーツを鳴らしながらゆっくりと歩み寄る姿から、目が離せない。癖のある黒い髪が、足を進める度に燃える様な緋色の瞳の前で揺れている。その瞳は、幼い子供の持つものとは思えないほど、深く濁って見えた。
それまで持っていた彼への印象は、割れた硝子の様に砕け散る。初めて会う人物だとさえ思えた。
「だって……君の顔が絶望に歪むのを見ないなんて、もったいないじゃない」
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