BENNU | ナノ


▼ 025 語らぬ友

 鼠が、床を這っている。小刻みにひくつく小さな鼻は、床に置かれた盆の上のパンを嗅ぎあてたようだ。警戒しながらも前進し、側に蹲る動かぬ囚人を尻目に、今日の夕食を掠め取ろうとしている。
 ついに、盆まで辿り着いた。小さな前足で器用にパン屑を掴んで、貪りつく。残飯ではない、黴の生えていない食べ物など、鼠にとっては最上級の御馳走だった。ぽろぽろとさらに小さな屑を撒き散らし、夢中になっている。囚人の虚ろな瞳に映し出されている事にも気が付いていないようだ。
 しかし映し出されているだけで、囚人の意識にその光景は届いていない。
――僕は……一体何者だ。
 繰り返される自問の渦。答えはない。堂々巡りの思考の檻に、今朝からずっと囚われている。空腹さえも忘れていた。
 日も既に落ち、牢の中は薄暗い。天井近くにくり抜かれた小さな窓は、薄墨の空を四角く切り取っている。
 いつもの暗闇への恐怖心は、今は湧いて来ない。それすらも凌駕するほどの、空虚感に蝕まれていた。盆の周りに一匹、また一匹と鼠が群がろうと、羽虫に袖を失った右腕を這われようと、それらは意識の外だった。
 だから、鉄格子の向こうに現れた人影にも、声をかけられるまで気が付かなかった。
「おい、亜人。こっちを向け」
 緩慢な動作で顔を上げる。急にランプに照らされ、暗闇に慣れた目に橙色の光がしみる。それが落ち着くのを待つと、薄気味悪くにやつく、二人の若い騎士の顔が見えた。一人は知らない顔だが、一人は見知った顔だ。先日のイラ討伐の任で、同じ班だったキック・コルト――レニとはまた違った意味での、素行の悪さで有名な騎士団の問題児だ。嫌な予感がした。
「よう、アーク。驚いたぜぇ? まさか、お前が人間じゃなかったなんてさ。号外も既に出回って、街じゃその話題で持ち切りさ」
 鉄格子に手をかけ、蹲るアークを見下げる。その憤怒とも、軽蔑ともとれる顔を見上げれば、彼が今、何を考えているのか容易に想像が付いた。不穏な空気を察した鼠たちが、キィキィ鳴きながら暗闇へと逃げてゆく。
「……どうやって、ここに? 看守がいただろ」
 掠れる声で問いかけると、キックは隣にいたアークの見知らぬ騎士を鉄格子の前に押し出した。年の頃は二十歳そこそこといったところだろうか。キックと同じ、暗い光を湛えた目でこちらを見ている。
「ここの看守をしている、俺の兄貴だ」
 キックの簡単な紹介に、なぜ獄舎に彼が入れたのか納得した。よく見れば目元なんかそっくりだ。そういえば、食事の乗った盆を運んできたのはこの男だったかもしれない。
「知ってるか? 俺達の伯父貴ってさ、前線に配属されてたんだ。西の国境戦線、城塞都市エイルダーレにな」
 キックの声は、妙な凄みがあった。普段から特別仲の良い間柄ではないけれど、態度が悪いだとか、気性が荒いだとか、普段散々な評価を受けている事は耳にしている。しかしそれは、今の彼にはそぐわない評価だ。
 そんな程度の事では済まない。本気の悪意を孕んだ、凶暴な獣のようだった。それは彼の兄にも言える事だ。獣が二人、鉄格子越しに静かな、しかし激しい憎悪を湛えて立っている。
「その伯父貴がさぁ、ひと月前に帰ってきたんだ。……棺桶に入ってな」
 ちゃり、と小さな金属音がした。看守であるキックの兄が、ベルトに括りつけてあった鍵の束を外した音だった。その中の一つを手にとり、鍵穴に差し込む。それを捻れば、何の抵抗もなく扉は開いた。
 背中を一筋の冷えた汗が流れた。二人から距離をとる様に、汚れた床を後ずさる。
 私刑だ――。
「殺しはしない。……殺してやりたいくらいだけどな。それはもっと上の奴らが決めるだろうさ」
 静かな声で、キックの兄は呟き、ゆっくりと近づいて来る。キックが拳を揉む。
「ずっと、ずっと、亜人をぶっ殺してえって思ってた。伯父貴の仇を取りたかった!」
「キック、違う。僕は……君の伯父さんを殺した奴らと同類じゃない……っ!」
「騙されるか! 医者がお前を亜人だって証明したんだ! だいたい、イラ討伐の時おかしいと思ってたんだ。弱っちかったくせに急に飛び込んできたイラを仕留めたり、俺達には聞こえないイラの悲鳴を聞いただとかほざいたり。そのうえ、昨日の事件ではブランカの生き残りを殺そうとしたそうじゃないか。鱗が生えていたっていう腕で、無抵抗の子供を切り裂いたんだってな。この化け物め!」
 キックの足が、鳩尾を蹴り上げた。その容赦のない一撃に床にもんどり打つ。手枷が受け身を邪魔して、床に頭を強かに打ちつける。
 しかし、蹴られた鳩尾よりも、打ちつけた頭よりも、キックの言葉にこそ衝撃を受けた。
 『僕』が、スクァールを殺そうとした――?
「な……誰が、そんな事……言ったんだ」
 喉の奥に迫ってくる饐えた臭いに耐えつつ、アークはやっとの思いでキックに問う。
 忘れる事なんて出来やしない。煤の黒霧に差し込んだ、一筋の光を受けた剣を。それを振り下ろした人物を。目の覚めるような赤を。
 必死の形相のアーク見下し、キックは汚い物でも見るかのように顔を顰め、そして信じられないような事を言った。
「殺されそうになった本人さ。ブランカの生き残り……スクァールっていったか。今日昼頃にようやく目を覚まして、事情を聴きに来た騎士にそう言ったらしい。なあ、そうだろ――レニ?」
 一瞬、キックが何を言っているか理解できなかった。
 後ろの暗がりを振り返るキック。その視線を追って目を凝らす。
 その先に、彼はいた。思わず、アークは立ち上がった。牢の向かいの壁に寄りかかり、こちらを見ている。闇の中からアークの様子を窺うレニの肩は、少しだけ小刻みに震えているようだ。
 レニの左頬に貼られた、大きな絆創膏は見逃しようがなかった。あれは、アークの付けた火傷。人間にはない、何か恐ろしい力がつけた傷だ。
「おい、そんなところに引っ込んでないでこっち来いよ」
 一度レニの所まで戻ったキックは、レニを引っ張って再びアークの前に立つ。人形の様に棒立ちするレニは、俯いていてアークを見ようとしない。
「レニ……今キックが言ったのは、どうゆう事……?」
 問う。自分の声がどこか遠くから聞こえるようだ。
「レニ……?」
 答えは、終ぞない。代わりにキックが答えた。
「どうもこうもねぇ。獣の血が覚醒したお前は、暴走した。スクァールって餓鬼を殺そうとした。それをレニが止めようとしたんだろ? こいつの頬の傷は、その時にお前が抵抗したせいだ」
「……違う」
 逆だ。『レニ』がスクァールを切った。『僕』が止めた――。
「何が違うってんだ! 被害者当人が言ってんだ、今さら何を言ったって遅いぜ。今までよくも俺達を欺いてやがったな、裏切り者。穢らわしい混血め」
 亜人への憎しみに塗れたキックが、さらにアークを罵る。それでも、レニは何も否定しなかった。ただただ、キックの横で立ち竦んでいた。その姿に、ぎりと拳を握りしめる。遅れて湧き始めた怒りの熱が、一気に頭まで駆け上る。
「――っレニ! 何とか言えよ!」
 レニに向かって、声を荒げた。手枷がもどかしい。これがなければ、レニの胸倉に掴みかかっていたに違いない。
「スクァールを斬ったのは誰だ、レニ。お前が一番よく知っているだろ! 本当の事、今ここで言えよ!」
 びくりとして顔を上げるレニ。その目に、アークは明らかな怯えの色を見た。
 途端に、怒りが萎んだ。心にぽっかりと空いた穴に、全ての感情が吸い込まれていくかのように、指先から冷えていく。まさか――
「僕に……なすり付けるのか? ……亜人だから?」
 違うと言ってくれ。冗談だって言ってくれ。
 そう願望の込められた問いにも、レニは俯く。それは、気の置けない友人からの、初めての裏切りだった。緩く、気持ちの悪い何かを追い出したいかのように頭を振っている。
 堪らなくなって、また一歩詰め寄ると、ひっと息を飲んだレニに強く突飛ばされた。
 また、レニが頭を振る。今度は強く、髪を振り乱す。そのまま逃げるようにして牢から立ち去ってゆく友人の姿に、何も声をかけられなかった。
 呆けたまま立ち竦んでいたアークは、突然腹に受けた衝撃で再び床に倒れ込んだ。
「俺達の痛みを思い知れ、亜人」
 キックの靴の底なのか、彼の兄の靴の底なのか分からないが、それが迫ってくるのを見たのを最後に、アークは目を閉じた。
 もう、どうにでもなればいい。
 考える事に疲れた。思い悩むのにも疲れた。
 レニの拒絶は、アークの中の何かを壊した。
 口の中に鉄臭い味が広がった後、アークはついに意識を手放した。

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