しばらく一人でぼんやりしていると、天幕の外に足音が聞こえた。重い鉄をまとったようなその音に、暗くなっていた顔を上げて振り返る。
入り口から顔を覗かせたのは、戻ってきたエラムではなく、ダリューンだった。

「ミト。目が覚めたか」
「う、うん。もう大丈夫」

大した怪我はないからあまり心配されても悪い、と考えて、ミトは元気そうな声を出してみせる。
するとダリューンはミトの傍へ近付きながら、「そうか。では、起きたばかりで悪いが……」と笑いながら溜め息をついた。

「どうしたの?」
「どうしてもおぬしに会いたいと騒いでいるやつがいるのでな。一緒に来てくれ」
「えっと……それは?」

きょとんと目を丸くし、ミトが首を傾げると、ダリューンは「あいつの他に誰がいるか」と肩を竦めた。



***



見回りの兵士たちが、不思議そうにふたりを眺めていた。
逞しい黒衣の騎士が、身体に包帯を巻かれた少女を抱え、陣内を駆けていく。
「俺を遣いにやるなどどうかしているだろう」とぼやく彼だったが、その友人がよほど真剣に頼んだのか、それ以上の愚痴は出てこなかった。

なかば強制的にダリューンに連れ出されたミトは、別の天幕の前に着くと、すとんと地面に降ろされた。
聞かなくてもこの中に誰がいるかはわかるのだが、ミトはなんとなく気後れして、おずおずとダリューンを見上げた。

「どうした。はやく顔を見せてやってくれ」
「……わかってるけど……」
「嫌なら戻るか?」
「い、嫌なわけじゃないから。ほんとはすごく会いたいです」

恥ずかしさで頬を赤くしながら慌てて手を振ると、ダリューンは満足そうな表情を浮かべてみせた。そして、突然「おい、ナルサス!」と呼びかけた。

「あ、ちょっと……!」

ミトが狼狽えている間もなく、ダリューンに肩を押され、身体がよろめく。
強い力で押したわけではないが、有無を言わさぬ圧力があり、ミトは心の準備もできていないままに天幕の中へと入ってしまった。

「……ミト」

ナルサスは寝台に座っていた。魔道士に刺された肩は白い包帯で隠されているが、きっと今も血が滲んでいるのだろう。顔を上げた彼と目が合い、ミトは唇を噛み締めた。
十年前に出会っていたあの青年が、成長した姿で自分の前にいることを、改めて感じる。
すがるように抱きしめる未熟な感触が、自分には鮮明な記憶として残っているが、時を隔てた彼もまだ、同じ気持ちでいてくれるのだろうか。

「あ、あの、ナルサス……」

なんと言えばいいかわからず、言葉が出てこなかった。しかし穏やかな沈黙のあとで、ナルサスは柔らかく微笑んだ。

「また、過去へ行ったのだろう?」
「……うん」
「湖で俺を救ってくれたか?」

ナルサスの言葉にゆっくりと頷く。ふたりのあいだの長い長い年月が、ようやく繋がったんだ、とミトは思った。

「そうか。ありがとう。そういうことがあったこと、隠していてすまなかった」
「うん……」
「いつかは話さなければならないと思っていたが、ミトは俺の身代わりになるために存在しているとは、どうしても言えなかった。おぬしをそんなことのために生きさせたくなかった」

知りたい言葉、聞きたかった言葉が、彼の唇から魔法のように零れ落ちてくる。
だから、余計に切なくて苦しい。

「いつまでそこに突っ立っている。こっちに来ていいぞ」
「う、うん」

そう言って手招きされてから、ようやくミトは一歩踏み出した。
恐る恐る、ナルサスの正面に近付くと、彼の手が伸びてきてミトの指をすくいとった。
いつものように、ぎゅっと抱きしめられて、絆されてしまうのかと思ったが、彼はミトの手を両手で包んで、祈るように額へ押し当てただけだった。

「ミトを縛り付ける、この俺を赦してくれるか?」
「……はい。ナルサスになら、永遠にでも……」

自分でも驚いたことに、そんな言葉を口にしていた。
ナルサスがいなければ、別の世界へ行ってしまうこともなかったし、ここへ留まりたいと思うこともなかった。ミトの運命は彼に由来し、彼なしでは存在することも出来ないのに、もうどうしようもない程に、恋をしていた。

「傍に来てくれ」

ナルサスに促されて、ミトは彼の隣に座った。肌のふれあう距離が心地よいが、かえって緊張して、ミトは頬を染める。

「おぬしと初めて会った日、俺は古い書物でみつけた魔道の術を試していたのだ。まさかそれが成功してしまうとは思わなかったが」
「魔道の……」

若いときの自身を思い出しているのか、溜め息をつきながら、彼は過去の経緯を話し始めた。

「学ばねばならぬことはたくさんあったが、怪しげな魔術にも多少の興味をもって、暇つぶしに研究したときがあった。それがちょうど十年前だ。正直なところ、俺は自分が他人よりずっと賢いと思っていたし、簡単に死んではいけない人間だと思い込んでいた。だから俺の身代わりとなってくれるものがいたら、と漠然と考えていた」
「ほんとうに正直ですね……」
「まあな。それで、書物で読んだだけの魔術を試したところ、おぬしが現れたから驚いたよ。おぬしと出会ったのはいわば事故だったわけだが」
「では、つまり……ナルサスが、自分の身代わりとなるような存在をたまたま呼び出せてしまって、それが私だったってことですね」

俄には信じられないような話だが、実際不思議なことが起こり過ぎていた。
静かに頷くナルサスの横顔を、ミトはじっと見守る。

「ああ。おぬしは俺の身代わりとなる運命なのだ。だが、逆に言えばおぬしはそれまでは絶対に死ぬことはない」
「やっぱり……私は敵の刃で傷付かないし、武器もある程度扱えるし、様々な国の言葉がわかるのも、ナルサスを守るために必要な能力が与えられているってことなのでしょうか」
「まあそういうことなのだろう。詳しいことは俺もわからぬが」
「じゃあ、イリーナ殿下やギスカールとか、他の人を守れたのはどうして?私のこの力は、ナルサスのためのものなんでしょう?」
「ああ。本来は、俺を守るための力なのだと思う。だが、そもそも俺の術式が成功していたのかどうかも怪しいところだ。つまり、ミトの力には不確定な要素が多くある。力が安定していないから、他人の危機にも感応して能力が発動したり、おぬしのいる時間軸も安定しないのだろう」

さまざまな不可思議な出来事も、いくつかの能力の揺らぎも、存在としてのミトの不完全さに由来するのだろう、とミトもなんとなく納得することができた。
しかし、一つだけはっきりとしていることがある。どうしても覆せないことが。

「ミトは、俺の身代わりになるためにここへきた。それはきっと確かなことだと思う」

ナルサスの声が静かに落ちていく。

「このままでは、二人で生きていくことは出来ない」
「……うん。やっぱりそうだよね」
「おぬしはこの世界で一度死んだらもとの世界に戻れるのかもしれないが……」
「そんなの……ナルサスがいない世界じゃなんにも意味ないよ……」

ミトは泣きそうになって声を震わせた。どうにも出来ないから、余計に、その時が来るのが怖い。
けれど、それ以上に、大好きな人が傷付くことが怖くて、悲しかった。ミトはナルサスの肩の傷を見て、ぎゅっと拳を握りしめた。

「でも、私が守れなかったから……ナルサスに怪我を……」
「こうしないとおぬしが斬られていた」
「だとしても、こんなことずっと続けられないよ……」
「……ミト」

俯いたミトの顔を、ナルサスが覗き込んだ。優しく、真剣な眼差しに、思わず胸が高鳴ってしまう。

「俺はもう、ミトを離したくない。もとの世界にすら帰したくないと思うほどに。だからどうすればいいか必死で考えているよ」

嬉しい言葉に視界が潤んだけれど、ミトは小さく頷くしかなかった。
ナルサスでさえも答えが出ていない。最悪な結末を回避しつつ、最善を探るしかない。しかし考えれば考えるほど、選択肢が浮かばない。最初からすべてがそこへ帰結するようにできているのだから、もうどうしようも――

「まあ、今は、一緒にいられることを喜ばせてくれ。おぬしの記憶も繋がったことだしな。ずっと、会いたかったよ」
「……!」

急に腰を抱かれたと思ったら、顔を近づけられて、ミトは思わずナルサスの口を手で覆った。これまでとは違う甘やかな痛みで、胸がぎゅっと苦しくなる。

「だ、だめだよ」
「何がいけない?」

不敵な笑みを浮かべながら、ナルサスはミトの手首を掴む。その瞳にみつめられると、どうしようもないほどに心臓がどきどきと胸を叩いて、身体が熱くなってしまう。ミトは涙目になって睫毛を伏せた。

「だって……」
「そんな顔をされると止められるものも止められなくなるぞ」

彼の重みが身体にのしかかる。思わずぎゅっと目を閉じると、汗ばんだ額に優しく甘く唇を押し当てられた。
受け止めきれないほどの特別な感情で、心が満たされる。ときめいて仕方がない。

「ミトは俺の身代わりとしてこの世界へ迷いこんでしまったにすぎない。だが、俺はミトと一緒に生きたいと思ってしまった。離したくないんだ」

言葉のとおり、離さないとばかりにぎゅっと抱き締められて、ミトも震えるほどの熱を覚えた。
こんなに心動かされる出来事が、自分に起こるなんて。

「……ナルサス、私をここへ呼んでくれて、この運命をくれてありがとう」
「ミトはもっと俺に怒っていいのだぞ?おぬしをずいぶんと振り回してしまった」
「いえ、それも……私にとっては全部忘れられない時間です。でも、やられっぱなしは悔しいから、今度は私が、もっと甘えてもいいですか?」

恥ずかしがりながらもそう言って視線を上げると、「その言葉を待っていたよ」と笑う彼と目が合った。

きっと、彼はこの時代にとって必要な人なのだろう。混乱の歴史を動かし、収束させる人。
だからこそ、私はここにいて、彼を守る使命を託された。私はそれを最後まで眺めていよう。最後まで、役割を演じきろう。
好きな人の腕の中で、静かに決意する。
ゆたかな大陸の都エクバターナが誰のものになるのか見届けたあと、そこに自分の居場所はないとしても。

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