ミトが過去の眠りについている間に、王都エクバターナを取り巻く情勢はめまぐるしく変化していた。それぞれの思惑が複雑に絡み合い、もつれ、それでも転がるように時を進めていたのである。

戦場に出ていたルシタニア王弟ギスカールは、ミトの奪回に失敗したあと、エクバターナへは戻らずに西北地方へ落ち延びていた。
はじめは兵力だけで見ればルシタニア軍がもっとも優勢だったが、パルス軍との戦いを経て、ギスカールの予測よりも大きな損失が出ていた。もう一度まともにぶつかり合うのは最善の策ではないと判断した彼は、あえて入城を避け、王都を空にした。
ギスカールは、パルス内部の分裂を知っていて、わざとエクバターナという餌を差し出したのである。
パルス人同士が争って共倒れになればそれでよいし、少なくとも疲弊させることは期待できる。ルシタニア軍はまだ彼の手元に何万とあり、再起させるだけの余裕があった。だから、パルス軍を弱らせてから反撃に出て、エクバターナを奪い取るつもりだったのだ。

ギスカールがエクバターナを放り出したあと、はじめに反応を見せたのは、ヒルメスだった。
彼は王都の西方に三万の兵とともに潜んで、状況を窺っていた。エクバターナに突入するつもりで、絶好の時を待っていたのだ。
そしてルシタニア軍とアンドラゴラス軍が戦場で激突することを知って、ただちに兵を動かした。

ヒルメスによる王都攻略は、かなり容易に完了した。
数カ月前にルシタニア軍がエクバターナを攻めたとき、ヒルメスは地下水道を使って城内に侵入し、これを陥落させた。その時と同じ方法で城に入り込み、内側から城門を開け放つと、一気に兵を突入させた。そこからはかつての万騎長サームが指揮をとり、街路を駆け抜けて王宮を占領した。皮肉にも彼は王都の守備を担当していたから、誰よりも地理に精通していたのである。これにエクバターナ市民も蜂起し、王都にわずかに残されていたルシタニア兵は、あっという間に殺し尽されてしまった。

八月六日、ヒルメスは華々しく凱旋したつもりで城頭にカイ・ホスローの軍旗を立てた。
そして王宮の前庭に民衆を集めると、自分こそが正統の国王であると宣言した。

「エクバターナの市民たちよ、予の名はヒルメスという。汝らの国王であったオスロエス五世の嫡子であり、パルス正統の後継者である!この顔を見よ!これこそ予がヒルメス王子であることの証である!」

ヒルメスは、銀色の仮面をはずして焼けただれた右半面の顔を民衆に晒した。悲しいことに、そうせねば、彼は国王としての正統性を主張できなかった。
市民たちはあまりにも意外な出来事にはじめは声も失っていたが、次第にざわめき、やがて歓声へと変わり、「ヒルメス王子ばんざい!」という声が街中に響いた。
しかし、民衆たちはヒルメスがオスロエス五世の遺児であることを有難がり、歓迎しているわけではなかった。ヒルメスが長きにわたるルシタニアの支配から王都を取り戻してくれたから、それを歓んでいるだけだ。だから、一日もはやく城内の守備を固め、市民に食糧と水を与え、王都の繁栄を回復させなければ、ヒルメスがいかに正統であろうと、民衆は失望してしまうだろう。
まずは、軍用金を調達する必要があった。ギスカールが王都に引き返してきたとき、あるいはアンドラゴラスが攻めてきたときに、対抗するには兵へ配る武器や食糧がいる。
さっそくヒルメスは王宮の宝物庫へ足を運んだ。そこにある山のような財宝はすべて自分のものになると思っていたのだ。

しかし、宝物庫にはわずかな銀の延べ棒が数本転がっているだけであった。
ほとんどの財宝は、ギスカールが陣中に持ち出してしまったようなのだ。あの男は、なぜ、そんなことを――
そこでようやくヒルメスは、ギスカールに踊らされてエクバターナへ入城してしまったのではないかと気付いたのである。



***



「エクバターナの城頭にかかげられていたルシタニアの軍旗がひきずりおろされました。城壁上の兵士たちもパルスの軍装をしておりました」

偵察に出ていたエラムが戻ってきてアルスラーンにそう告げたのは、八月八日のことであった。
ヒルメスに先を越されたのだと察し、アルスラーンは一瞬不安げに視線をうつろわせたが、すぐに仲間たちに意見を求めた。

「エクバターナをおとすのは、いまでは容易なことです。我々が市民のために食糧と水を持ってきた、と呼びかければ、城門を内側から開かざるを得ません。ヒルメス王子がそれを止めようとすれば、民衆は不安になり混乱しますでしょう。その中でやはり誰かが門を開く。……ですが、王都の攻防はアンドラゴラス陛下とヒルメス王子にまかせておけばよいかと存じます。我らには、他にやるべきことがございます」

何人かの偵察の報告を受け、ナルサスが考えをまとめ、一同に話し始めた。そこでふとアルスラーンが何か思いついたように、顔を上げる。

「今更かもしれぬが、父上と、ヒルメスどのと、両者の間に私が立って和解させてさしあげることはできぬものだろうか」

尊い意見だが、それをナルサスは「どうにもなりますまい」と諌めた。

「朝焼けと夕焼けとを同時に見ることはかないません」

何もかもすべてを同時に手に入れることはできない、とナルサスはいう。人には出来ることと出来ないことがある。何もかもやってのけよう、手に入れようと考えたら、結局何も達成できないのだ。

「わかった。ひとつずつやっていこう」

自分に言い聞かせるように、アルスラーンが頷く。こうやって、彼は今までも、ひとつひとつ学び、積み重ねてきたのだろう。

「出来ることは、ひとつだけ、か……」

ミトがぼんやりと一人呟いているうちに、ナルサスは地図上に指を滑らせた。仲間たちがそれを目で追う。

「では、我々はどうするのだ?」
「よく聞いてくれた。王族同士が不毛な流血をくりひろげている間に、我々はギスカール公ひきいるルシタニア軍を討つ」



***



「ナルサス、その……ギスカールのことはどうするつもりなんですか」

出立の準備で、アルスラーン王太子の陣営では兵たちが慌ただしく駆けまわっている。その中心で、あれこれと無数の指示を出すナルサスを手伝いながら、ミトは何気なく尋ねた。
ナルサスは兵士との話が済んでから、少し怪訝な顔をして、ミトの方を振り返った。

「……おぬしはどうして欲しい?」
「ナルサスが一番良いと考えることをすればいいと思いますが、一応確認しておきたくて」
「それは?」
「ギスカールを殺すつもりなのかということです」

彼のミトを見る目がやや鋭くなる。ゆるりと結んだ彼の髪が肩に落ちかかって、淡く輝いていた。
ここにいる兵たちとは違い、彼の出で立ちには気品が漂っている。だからちょっとした仕草に、どきどきするし、たまにぎくりとするのだ。
ナルサスは、このまま行けばギスカールを殺してしまうかもしれない。ギスカールは小国であったルシタニアで兵をまとめ、長期間の遠征を成功させるほど能力のある人物なのだから、彼を生かしておくことは未来に不安を残すことになる。ナルサスが、それを許すはずがない。
だがミトには一つの考えがあり、それを彼に提案しようと思っていたのだ。

「私は、過去でギスカールを救いました。その行動は、恣意的なものだったとナルサスは思いますか?」
「……ギスカール公を救ったことには何か必然性があったと?」
「はい。この力はナルサスがくれたものだから、彼を助けたこともきっと無意味ではないと思うんです」
「ほう。ミトは、かの御仁がパルスの役に立ってくれると考えているようだな」

ギスカールが有能であるならば、それだけ使い途があるということである。
ナルサスの反応は悪くなかったので、ミトが勢い込んで話し出そうとしたが、「そもそも」と彼が口に出し遮った。

「ギスカール公を殺してしまうかどうかということだが、俺はまだ何も決めていない」
「え、じゃあ生かす選択肢も……」
「あるにはある」

そう聞かされ、ミトが思わず嬉しそうな顔をすると、ナルサスは眉を顰めた。

「ミトは、単にギスカール公の生命が惜しいだけなのか?どうなのだ?」
「いえ、これは……」

彼は、敵国の指導者である。パルス人ならば皆が彼を仇と認識し、憎悪し、それを倒すために力を結集させるべきであった。
だが、ミトはそうではなかった。なんとなく殺したくないなどという中途半端な思いではないことを、ナルサスも察しているだろう。とはいえ、無闇に見逃せばこちらが国民から非難されることになるかもしれない。
言い淀んで視線を落とすと、急に一人になったような気持ちになり、寂しくなった。ここにはたくさんの人がいて、ナルサスもいるのに、どうしてか、常に心細さを感じていた。

「確かにこれは私的な感情です。でも、同情ではなくて。ただ、生きているだけで、彼は私が存在したことを証明してくれる数少ない人だと思ったから」

ギスカールは、ミトがいなければ今ここに存在するはずのない人だった。だから彼が生きていることは、ミトがいたという証そのものなのだ。
敵の王弟などに拠り所を求めてしまうなんて、我ながら、情けなかった。それに、同じ運命を辿ったひとがもう一人、目の前にいるのに、彼にはそういうことが言えないなんて。

少しの沈黙のあとで、ナルサスは突然ミトの手を取った。素早く指を絡めると、手の甲に唇を落とされてしまう。いきなり何をするのか、この人は、と思ってミトの心臓が大きく跳ねた。

「そのような考えは棄てていただきたい。まさに今、彼よりも遥かに、ミトの存在を感じている者がここにいるが?」

ここにいることがわかるように、とナルサスはミトの手を強く握っていた。

「は、はい……えっと、わかってたけど……すいません」
「俺を忘れてくれるとは、薄情な娘だな。ミト」
「忘れてなんかないよ。ナルサスは私にとってもっと大事な……!」

言いかけたところで、「軍師どの、よろしいでしょうか」と兵が声をかけてきた。
ナルサスはぱっと手を離すと、その兵とともにどこかへ行ってしまった。ルシタニアを、ギスカールを討つために、準備を整えている最中だった。

無神経に彼を傷付けてしまったかもしれない。
考えても仕方のないことなのにいつまでも同じことで悩み、彼を煩わせている。彼の役に立ちたいといちばん思っているのは、ミト自身なのに。
ミトは溜め息をついて、熱くなった手の甲に、懺悔するよう、こっそりと、やさしく唇を押し当てた。この感情が、邪魔をするのだ。どうせミトはこの世界に影も残らないなら、流れに身を任せてしまえばいいのに、そう出来ないほどの思いを抱えてしまっていた。

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