「私、ナルサスの身代わりになるために、この世界へ喚ばれたんだって聞きました」

エメラルド色の風景の中に足を浸して佇み、深刻な表情をする彼に向き合う。戦いの終わった湖はまた穏やかな水面へ戻り、鏡のように世界を映していた。

「……その通りだ。だから、ここでおぬしは俺の盾となって死ぬのだと……先の一瞬まで思っていた」

白状するように、ナルサスは呟く。

「……じゃあ、今はまだ『その時』じゃないってことなのかな」
「それは……」
「!」

異変に気付いたのは、二人ともほとんど同時だった。
ミトの身体が、景色に溶けてしまうかのように、透け始めたのだ。

「ミト!やはり……」
「いや、大丈夫、これは……たぶん戻るだけだよ。戻るっていう表現が正しいのかはよくわかんないけど……」

慌てるナルサスとは対照的に、ミトは奇妙なほど落ち着いて答える。以前にギスカールやイリーナの過去へ飛んでしまったときも、同じように身体が消えていき、もとの時代に戻ったのだ。それと同じことが起きるだけ。まだ自分は生きている。それに――

「ナルサス、また会えるよ。私の気持ちは未来で話すから、それまで待ってて」

彼とは、また会える。ようやく自分もすべてを知って、彼の前に立てるのだ。やっと追いついた。そのことがミトの心を支えていた。

「……狡いな、おぬしは。そんなことを言われたら、片時も忘れられなくなるぞ」
「ナルサスには悪いけど、そうしていて欲しい」
「わかった。ミトを忘れることはないと誓う。かわりに、おぬしは俺に何を約束してくれる?」

ナルサスは、狼狽えることもなく、だんだんと透明になっていくミトの身体を見つめていた。賢い青年は、この事態もきちんと受け入れているようだった。

「……どこにいても、必ずナルサスをみつけて、あなたのことをずっとお守りします」

そう言うと、彼は一瞬目を丸くしてから、視線をはずした。感情を抑えるように、引き結んだ唇が震えている。

「……ミト。もとの世界に戻りたいと思うか?」
「……もう二度とナルサスに会えなくなるなら、戻らなくていいと思う」

冷たい湖に浸した足の感覚が、次第に薄れていっていた。それでもまだ、意識ははっきりとしていて、彼の表情も鮮明に目に映る。
水面が揺れた。そう思ったら、ミトの身体はナルサスの腕の中に収まっていた。
まだこれから伸びるであろう背の丈、優しい手のぬくもり、柔らかい髪を感じる。別れを拒むように、ナルサスは強くミトを抱きしめる。

「……赦してくれ」

彼の口から漏れたのは、懺悔の言葉だった。

「ミト。こんな見知らぬ世界へ連れてきて、俺などの運命に付き合わせることになって、本当にすまぬ。だが、俺はミトに救われた。おぬしがいなかったら、未熟な俺は殺されていた」
「……私はいつもナルサスに助けられているだけだよ。私がいなくても、ナルサスは自分で戦えるし……」
「そういうことじゃない。俺にはミトが必要なんだ」

いつも、先の先を読み、予定外のことにも難なく対処してしまうナルサスが、必死になるのはかなり珍しい。ずっと見ていたからわかるのだ。
そんな彼が、他ならぬ自分のことに心を寄せて、動かしてくれている。ミトはようやくその腕の中で心の底から安心できた気がした。

「どこにも行かないでくれ」

もう声は出ない。身体の感覚もほとんどない。けれどもミトはそっと微笑み、彼の髪を撫で続けた。

「必ずミトを救う。ミトだけは、一生かけても、俺が守る」

薄れていく意識の中で、彼の言葉が聞こえた。
よかった。私は彼にとって、ただの盾じゃないんだ。そう思えてミトは透明な涙を浮かべる。

「私、この人を救わないと……そのためにここへ来たんだから。こんなにも大事にしてくれる人のためならなんでも出来る……」

でも、どうしたらいいのだろう?
すすんで死にたいわけではない。だが、その「時」がきたら、ミトがナルサスの盾にならなければ、彼が死んでしまうことになる。
この運命から、どうしたら逃げられるのか、どうしたら乗り越えられるのか、今はまだ少しもわからなかった。



***



自分の身体が呼吸している感覚が戻り、ミトはゆっくり瞼を持ち上げた。
天幕の下で、自分は寝台に横になっていた。どうやら、無事、過去へ飛ぶ前の場所に戻ってきたらしい。
瞬きを繰り返してから視線を動かすと、天幕の中に、自分以外にもう一人いるのに気付く。

「ん……エラム?」
「ミトさま!よかった。目覚められたのですね」

ぼうっとした声で名前を呼ぶと、エラムは作業する手を止めてすぐにミトの隣へとやって来た。

「手当はしましたが、痛むところはありませんか?」
「ありがとう。ごめんね、とりあえず大丈夫だと思う……」

彼に助けられながら身体を起こすと、過去へ行く直前の記憶がぼんやりと蘇ってきた。
腕には、魔道士が放った見えない蛇が巻き付いていた痕がある。そこでようやくミトはハッとして、エラムの肩を掴む。

「ねえ、ナルサスは……?」
「はい。ナルサスさまもご無事です。幸い、傷も浅かったようです」
「そっか……よかったぁ……」

その報せを聞いて、ほっと胸を撫で下ろす。とはいえ自分のせいで負傷させてしまったことが、かなり気がかりだった。

「はやく会いにいかなきゃ」
「……いけません。ミトさまはまだ動ける状態じゃありませんから。もう少し安静にしていてください」

エラムは真面目な表情で、起き上がろうとするミトの身体を押し返した。あまり融通が利かないのは彼には常のことだが、いつも以上にかたくなな声だった。
しかしミトも譲れず、「でも、はやく会いたいから……」と呟いた。すると、「だめです」とはっきり断る彼の声が聞こえて、ミトは目を丸くする。
エラムの黒い大きな瞳が、自分を覗き込んでいた。そう思ったら突然、エラムがミトに覆いかぶさるように抱き付いてきた。

「へ……?」

驚いて抵抗することも忘れていたが、ミトは自分の身体を抱くこの少年の耳元が赤く染まっているのに気付き、どきりとする。

「私の言うことを聞いてください……」
「あ……うん……」
「ミトさまも、ナルサスさまも、私にとってはかけがえのないお人です。お願いですから、無理をしないでください」
「うん、わかった……心配してくれてありがとう、エラム……」
「……」

ミトの言葉が終わっても、彼はミトの肩に顔を埋めたまま返事をしなかった。「あれ、エラム?」と声をかけると、背中にまわった腕の力が強くなり、ミトの心臓がぎゅっと締め付けられる。

「私はあなたのことをすごく大切に思っています。伝わらないとしても、どうか、わかってください」

今までも、何度か彼の想いを聞く機会はあったが、どれも明確な伝え方をされたわけではない。しかし、こんなにも一生懸命に抱かれて、健気な心情を零されると、もはや只事でないとミトもわかった。
だから自分の身体もこんなに熱い。ドキドキと鼓動を速めていく心臓の音を悟られないようにと、自然と呼吸がゆっくりになる。

「赦してください、もう少しだけこのままでいさせてください。もうこれ以上わがままは言いませんから」
「……うん、もう少し、いいよ」

ミトと彼とはあまり体格が変わらないから、抱きしめられると、身体がぴったりと重なる感覚がして恥ずかしかった。時間をかければかけるほど、体温が溶け合って、その心地良さに溺れ、引き返せなくなってしまうような気さえする。
すると、急に肩を掴んで身体を離される。さっきまではお互いの顔が見えなかったのでまだ落ち着いていられたが、目が合うと、どんどん胸が苦しくなっていく。彼は頬を染めて、唇を噛んで、じっとミトを見つめていた。

「俺、どうにかなってしまいそうです」

そんなことを言われてミトも顔が真っ赤になる。どうにかなるのはこっちの方だ、と思ったが口には出せなかった。
結局ミトは「……どうしよう……」と落ち着きなく視線を泳がせ、少し考えあぐねてから、おずおずと彼に手を伸ばした。

「大丈夫だよ、エラム」

ミトはゆっくりとエラムの頭を撫でた。そっと、安心させるように、優しく。
するとエラムは急に我に返ったようで、「あ、わ、わわ……」と恥ずかしそうに俯いた。

「す、すみません、ミトさま……無礼なことを」
「いや、いいけど……」
「……えっと、薬を取りに行ってまいります」
「あ、エラム……」

逃げるように出て行こうとしたエラムの背を見て、ミトは反射的に手を伸ばしてしまった。その服を掴み、引き留めてしまう。エラムもびっくりして振り返った。ドキドキしているのを隠そうともしていない。

「えっ、ど、どうしました?」
「……ええと……なんでもない。はやく戻ってきてね」
「は、はい!すぐにミトさまのもとへ戻ってまいります!」



***



「あ〜もう……あんな嬉しそうな顔しなくてもいいのに……」

天幕の中にひとりになり、ミトは膝に顔をうずめた。まだ心臓が痛いくらいに胸を叩いている。
エラムの行為は、恥ずかしくて、どうしたらいいかわかないけれど、嬉しかった。自分を受け容れてくれる人がいると実感できて、安心する。だから、彼が出ていこうとしたとき、怖くなって、手を伸ばしてしまった。

「……私、ナルサスに会いたいけど、やっぱり怖いのかもしれない」

ぼそぼそと呟いて、長い溜め息をついた。弱い自分が本当に嫌になる。
これから自分はどうしたらいいか、教えて欲しい。でも、もうどうにもならないと言われるのが怖くて、何も聞きたくない。
無駄に足掻くよりも、いっそ、彼の盾となる運命を受け入れる方が楽なのだろうか。
やっぱりわからない。私ひとりには何もかも重すぎる。

「でも、ナルサスに、会わないと……」

ミトはそればかり繰り返し言葉にしていた。決心が鈍らないように、怖くなって逃げ出したりしないように、本当に会いたい気持ちを忘れないように。きっとなんとかしてくれる、と信じながら。

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