ナルサスの手を握ったまま走り、隠れられそうな木の後ろへ周りこんだ。湖畔はしんと静まりかえって、絵画のようであるのに、鋭い殺気に満ちていた。
ミトは木を背にして、荒い呼吸を整える。いったい何がどうなっているのだろうか。

「ねえ、あれは……なんなの。ナルサスを狙ってたよね?」
「ああ……。水に身体を溶け込ませ、自由に往来する魔道の術があると聞いたことがあるが、その類だろうか」
「なら、湖から離れれば……」

言いかけて口をつぐむ。逃げても無駄だ、と思ったのだ。
今、倒さなければ、彼の未来を守れる保証はない。逃げたとしても、魔道士はきっとまたナルサスを狙って襲ってくるだろう。もとの時代でそうだったように。
湖に潜む魔道士が、ナルサスの生命を脅かすものであるのは間違いない。自分がここにいることがその証拠だった。彼を救うために、ミトはここへやって来たのだから。

ミトは勇気を奮い立たせようとしたが、身体にうまく力が入らなかった。
また、もとの時代のナルサスの言葉を思い出してしまったのだ。

『ミトに俺は守れない。正確に言うと、ミトは俺を守るためにいるのだが』
『おぬしは、俺の身代わりとなって死ぬために、この世界に来た。俺が喚び出した。それがミトの役目だった』

一体、これらの言葉は何を意味しているのだろうか。

「……私は、この世界に来てから、敵の刃に斬られることはなかった……」

自分の心臓の音がうるさいくらいに頭に響いていたが、かえって思考が鮮明になっていく。

「でも、前に一度、ギランでナルサスを守ろうとしたとき……あの時だけ、私は大きな怪我をした……。じゃあ、まさか、私にはナルサスを『守れない』って、そういうこと……!?」

全身がぶるりと震えた。真実を覗き込んでしまったのだ。
ナルサスの言ったとおり、ミトは彼の盾になるべくしてこの世界へ来たのだとしたら。その因果的役割を果たすまでは、自分は死ぬことはないようになっているのだとしたら。だから、その時が来るまでは生き延びるよう、敵の刃を受け流す不思議な力が自分に備わっているのだとしたら。

「つまり、私はナルサスを『守る』ことはできるけど、そうしたら盾は壊れてしまう……それで私は終わりなんだ……だからナルサスは、そうならないために……」

まだまだわからないことや不可解なことは残っている。でも、その時が来たら全て収束するのだ。「ミトはナルサスの身代わりとなるためにここにいた」という真実に。

「……どうして。一番守りたい人が、ナルサスなのに……そうしたら、私はもう二度と……」

自分は、どうしたらいい。わからない。わからない。
心が閉じていってしまい、意識が闇に呑まれかけたとき、「ミト!」と呼ぶ声がして、はっと顔をあげた。隣にナルサスがいて、ミトを覗き込んでいた。

「……は、はい」
「おぬしの剣を貸してくれぬか」
「え?」
「おぬしが急かすから、武器もすべて置いてきてしまった。あるのはこれだけだ。俺に絵筆で戦えと?」

彼はそう言って、絵の具のついたままの筆を顔の横で揺らした。こんな状況なのに、彼は相変わらず余裕さえ見せる。そのことにひどく安心して、ミトも強張っていた表情を緩めた。

「ご、ごめん。でもこれは私が持ってる……大丈夫。なんとかするから」

私になんとかできるんだろうか、と思いつつも、とにかくこの人を死なせられないという気持ちが勝った。今はこの事態をなんとか回避しなければ。結果はあとから考えればいい。
「でも」とミトの心にふと疑問が湧いた。ナルサスは、自分のことをどう思っているのだろう。ただの身代わり、道具、盾くらいにしか思われていないとしても仕方ない、と首を振った。だって自分はその目的のために存在しているのだから。




「ほう、揃って出てくるとはな」

木の影から現れた二人を見て、水面がざわめいた。エメラルド色の水が立ち上がり、魔道士のかたちになっていく。その身体は鏡のように湖と空を映し、夢と現実がまざりあったような奇妙な色彩を創り出していた。辺りは白い霧が立ちはじめ、いよいよ生と死の境界が曖昧になる。
ミトは唇を噛みしめて、剣を握る。情けないことに、少し震えていた。
ナルサスを守る、というこの状況下では、きっと、ミトを守護していた神秘の力はもうなくなっているのだろう。簡単に殺されてしまうかもしれない、と思うと、恐怖が身体を侵食していく。

「……なぜナルサスを狙っているの」

頭を振って、ミトは魔道士へ問いかけた。

「その者は生かしておくと面倒なことになる兆しがある。今のうちに葬っておくのがよいと思ってな」

それを聞いて、ミトはすっと息を吐く。隣にいるナルサスの緊張が伝わってきていた。
この人を守る。それが自分の役割であり、いつの間にか本当の願いになっていた。

もし自分が消えてしまっても、喚んでくれたのがナルサスでよかった、と静かに瞼を開く。

「それならば私もここであなたを倒して、未来でなく、今、終わらせます!」

ミトは砂を蹴って駆け出し、魔道士めがけて一直線に走っていく。足が水面を叩き、飛沫が立った。
そして、強く剣を振って魔道士の身体を両断した――かに見えたのだが、手応えはなく、水を斬っただけで、魔道士の本体はまた湖に溶けて移動してしまったようだった。
冷たい水が膝を打つ。相手の姿も気配もすっかり溶けてしまっていた。
やはり、湖に入って戦うのは危険すぎると感じたが、陸地にいるだけではこれを倒すことはできない。

「ミト!」

ナルサスの声に反応して身体を仰け反らせると、巨大な爪のかたちとなった水の塊が空を裂いた。なんとか避けられたが、紙一重だった。体勢を立てなおして剣を閃かせるが、魔道士の姿は再び水と同化し、消えていた。

「ミト!やはり無茶だ」
「でも……っ!」

心配そうに水際へ駆けてきたナルサスに視線を向けると、同時に水の塊が猛烈な勢いで彼に襲いかかっていた。
魔道士の爪が大きく弧を描いたとき、ナルサスが持っていた絵筆は折れて宙を舞っていた。思わず心臓が止まりそうになった。

「……危なかったが、この通り無事だ」
「あ……」

しかし、ナルサスは魔道士の手が届くぎりぎりの位置で立ち止まり、攻撃をかわしていた。彼が湖面から距離をとったのを見て、ミトはほっと胸を撫で下ろした。
魔道士はまた湖へ溶け込み、姿を隠していた。
ちゃぷんと音を立てて揺れる水面を凝視してみるものの、自分の周囲すべてがそれの潜むことの出来る領域だ。どこから現れるかはさっぱりわからない。出てくるところがわからなければ、また上手く避けられるかどうか。

「ミト」
「なあに、ナルサス」
「気付いてくれていればいいが」
「……大丈夫だよ」

ミトの目が、湖の中を移動する白い点を捉えていた。それはナルサスの絵筆に付いていた色と同じもの。

「もう見えてるからっ!」

魔道士がナルサスを襲ったときに付いた絵の具が、魔道士の居場所を知らせていた。
それが背後から斬りかかってきたところを、くるりと振り返り、ミトは力いっぱい剣を振り下ろした。




返り討ちに遭い、絶息した魔道士は、水の中へ倒れ伏した。
また、神秘的な静寂が湖に満ちてくる。やがて魔道士の身体は水に流され崩れていき、今度は本当に消えてなくなってしまった。

「……ありがとう、ナルサス、助けてくれて……」
「……」
「ナルサス?」

水に足を浸したままのミトが振り返ると、彼は無言のまま、濡れるのも気にせず、ざぶざぶと湖へ入ってきた。

「ミト、おぬし、大丈夫なのか……?」
「え……ああ……やっぱりそうなんだ」

魔道士を倒して、ナルサスを守ったら、ミトの役割は終わる。だから、ミトはここで消えてしまうかもしれない。彼もそう思っていたのだろう。ミトに言われると「知っていたのか」と少し驚いた顔をしていたが、申し訳ないと思っているのか、切なそうに眉を下げた。

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