ただならぬ気配にわけもわからず恐怖をおぼえ、一瞬にして汗が噴き出していた。
突如として現れた暗灰色の衣の男が何者なのか、問い詰めるまでもない。とにかく危険だった。ミトはとっさに謎の人物とナルサスの間に立った。

「ナルサス、下がってください!」
「……」

男は、無言でミトを見返すと、煩わしそうに右手を振った。すると、突然空気が揺れ動き、ミトの身体に巻きついた。目に見えない蛇のようなものが腰から首までに絡まり、きつく締め上げる。

「……んっ……!」
「ミト!」

胸や首が圧迫され、呼吸がままならない。それよりも、胴体が先に潰れてしまいそうだった。
苦し紛れに見えない蛇を掴み、引き剥がそうとするが、びくともしない。はじめて感じた得体の知れない恐怖と苦痛に、涙が溜まって零れ落ちていく。

「化け物め、ミトを離せ」

油断なくナルサスが剣を抜くと、男は喉の奥でくつくつと笑い声を立ててみせた。言葉は通じるが、話は通じない。そう判断してナルサスは斬りかかった。しかし、男はまるで闇が移動するかのように、造作もなく避けてしまう。

「む、この小娘は……」

そのとき、ふと、男の脳裏に疑いが浮かんだようだった。一瞬、締め付ける蛇の力が弱まり、ミトは勢いよく咳き込んだ。

「汝の仕業か?この娘をどうやって喚んだ?」
「……」

男の問う意味が、ミトにはわからなかった。
ぎりぎりと音が鳴るほど強く拘束され、意識が遠のきそうになりながら、黙っているナルサスと男を交互に見る。しばらく沈黙が続いた。

「答えぬならまあよい。試せばわかる」

男がにやりと笑った。寒気のするようなおぞましい笑みだった。それを合図に、男は地面を蹴った。
いつの間にかその手に握られていた短剣が狙うのは、ミトの首だった。

「やめろ!」

男の持つ短剣が、飛び込んできたナルサスの肩に突き刺さる。心臓が止まりそうになった。ミトは悲鳴もあげられずに、彼の血が噴き出すのを呆然と目に映していた。
暗灰色の衣が破れてはためいた。いつの間にか男の姿は消えていたが、ナルサスの剣が男の胴体を斬っていたのだ。ミトに巻き付いていた見えない蛇も、完全に消え去った。
しんとした天幕に、ぐしゃりという音とともに、ナルサスが倒れこみ、ミトはようやく声を取り戻した。

「ナルサス!!」
「……大丈夫だ」

彼は顔を青白くさせているものの、幸いにも傷は浅いようだった。自身で止血をし始めたので、ミトは震えながら手伝った。彼の血で手を染めながら、ぽろぽろと涙が零れてしまう。

「ごめん、ナルサス、でも、どうして私をかばって……私なら斬られないはずじゃ……」
「……無理なんだ。ミトに俺は守れない」
「え……?」

観念するように呟かれた言葉に、息が止まる。

「いや、正確に言うと、ミトは俺を守るためにいるのだが……」
「え……なに、どういうこと……」
「おぬしは、俺の身代わりとなって死ぬために、この世界に来た。俺が喚び出した。それがミトの役目だった」

目眩がした。彼の言葉がうまくのみこめない。頭の中が、ぐるぐる回っているようだった。理解しようとしながら、それを拒否しているのだ。そうしなければ、自分が壊れてしまいそうだった。

「わ、私、そのために、この世界へ……?」

不意に、景色が真っ暗になった。恐怖に圧倒され、胸が苦しくなる。
私は。私は。私は。



***



長い間水中にいたような心地がする。勢いよく空気を吸い込むと同時に瞼を開けると、眩しい光に目がくらんだ。大きな窓から、澄んだ風が流れ込んで、ミトの肌の熱を冷ましていく。

「え……あれ、違う……ここはまた……」

壁は書物で埋め尽くされ、美しい模様の絨毯が足元に広がる。先ほどまで見ていた景色とは、何もかもが違っていた。
私はこの景色を知っている。ここに来るのは、二度目だった。
ぼんやりと視線をめぐらすと、長い髪を揺らす青年が、こちらに背を向けて書き物をしているのが目に飛び込んできた。

「あ、ナルサス!えっと、怪我は……」
「……やっと起きたと思ったら、なんの話だ」

振り返った彼の表情は若く、確信が持てたミトは「なんでもない。変な夢見てた」と言葉を濁した。

どうやら、また十年前の時代に意識が飛んでしまったようだ。

そういえば、以前にここへ来たときには、途中で気を失ってもとの時代へ戻ってしまったのだった。これは、あの時の続きということなのだろうか。日付を確認すると、もう八月になっていた。

「私、もしかしてしばらく眠ってた?」
「ああ。何をしても起きなかった」

「何をしたの」と訊いても彼は軽く笑うばかりだったが、数日眠り続けていたミトのことを、さすがに心配しているようだった。

「大丈夫か?」
「うん、まあ……」

顔を覗き込まれると、珍しく優しい声に恥ずかしくなり、ミトは目をそらす。

「ミト、今日はよく晴れているから、体調が良ければ、ダルバンド内海へ絵を描きにゆかぬか?」

わけのわからないことばかり起きる。本当に自分はどうなってしまうのだろうか。もとの時代でナルサスに言われた言葉を思い出すと怖くなってきたので、ミトは頭を振って思考を手放した。考えてもわからないことしかない。今は、何も考えず、過去のナルサスに甘えてしまおう。

「……はい。ナルサスに付いて行くだけなら」



***



森は深い緑に覆われ、透き通った水底までもがその色に染められていた。自らの身体も、その夢のような世界の中に溶けていきそうになる。ダルバンド内海のほとりは、輝く、美しい季節となっていた。

「こんなに誰かと一緒にいるのは初めてだな」

湖畔に画架を立て、絵筆を滑らせながら、若い画家は呟く。ミトはその絵を見ないように、水際でふらふらしていた。「何か言った?」と振り返ると、彼は画布に顔を隠してしまった。

「十歳になったときに王都からここへ移り住んだが、俺はいつも独りだった」
「え、急にどうしたの」

弱々しい声にミトが目を瞠ると、彼は自嘲するように微笑んだ。

「そうだな。おぬしの顔を見過ぎたせいで、どうかしているのかもな」

その笑みがあまりにも寂しそうだったので、ミトの胸がぎゅっと締め付けられる。自信に溢れ、逆境も楽しんでしまうような彼にあるまじき姿だった。
しかし、人とは本来こういうものなのかもしれない。いつも心のどこかに寂しさを抱え、それに耐えている。

「ナルサスは……きっと、未来のパルスに必要な人です」

ミトが言うと、脈絡のない言葉に驚いたのか、彼は手を止めてこちらを見返した。

「誰もあなたを独りになんてさせない。いつも、あなたの隣には、誰かがいる。そういうふうになる」
「根拠のないことだな」
「でも、その……私は、ナルサスのこと好きだから」

面食らっている彼に向かって、えへへ、とだらしなく笑ってみせた。そうしないと恥ずかしくて赤面してしまいそうだったのである。
ナルサスも「やけに嬉しそうだな」と言ったきり、また画布に顔を隠した。

「だが、おぬしもどうせすぐ俺の前からいなくなってしまうのだろう?」
「それは……」
「突然現れたのだから、いなくなるのも突然なのだろう。……それならば、と、あまりおぬしに感情を向けないようにしていた」

抑揚のない声が、奇妙なほどに切なかった。
冷静になって、思い出してみる。ミトは、もとの時代のナルサスの言うことが本当なら、彼を守るための盾でしかないはずだ。だから、道具へ愛情を注いでも仕方のないこと。道具から、彼に想いを寄せても、意味のないことだったのかもしれない。

「……そうね。そうするのが本当はいいのかも」

諦めるようにミトが呟いたときだった。
突然、何の前触れもなく耳元で硝子が割れるような音がした。触れて確かめると、孔雀石の耳飾りが砕けていた。
それは、以前ファランギースに貰ったお守りだった。その石は、危険が迫ると砕けて知らせる、と教えられたことをとっさに思い出した。

今、この瞬間に、脅威が迫っている。恐らく、ナルサスに対して。

「どうした?」

ミトの様子がおかしいことに気付いたナルサスが、怪訝な表情をしながら割れた耳飾りを拾う。

「そうか……今、ここからが、ナルサスの本当の危機なんだ……私がここへ来た理由……」
「ミト……?」
「とりあえずそれは持ってて!」

どこから誰に狙われているのかわからなかったが、この開けた場所にいるのは危険だった。ミトはナルサスの手を握り、急いで駆け出す。

「おい、どうした」
「とにかく、隠れる!ナルサスを守らないと!」
「!」

ミトたちがその場を動いたのとほぼ同時だった。
水面から人の形が立ち上がり、巨大な爪を振りかざした。あと一歩遅れていれば、二人ともそれに切り裂かれていた。

「水の中から人が……」
「魔道の術か……!」

ナルサスの言葉に、ミトはあの暗灰色の衣の男を思い出す。見えない蛇の術をつかったときと同じ気配がしたのだ。
人影は再び湖の中へ消えていった。水と同化しているようで、どこに潜んでいるか、姿はもう見えない。

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