落ち着きのない夜はさらにその闇を深くしていた。
暗い森の中でいくつもの足音と怒鳴り声が反響していたが、やがて自分たちの荒い呼吸と木の根を踏む音だけしか聞こえなくなる。

「なんとか逃げ切れたか……」
「うん……」

速度を落として立ち止まると、ギーヴは辺りを見回してから、ふっと息を吐く。
さすがの彼も、ミトを担いだ状態では満足に反撃も出来ず、暗闇での逃走に苦労したようだった。ミトを抱く腕はいまだにぎゅっと強張り、鼓動もずいぶんと速い。

「ギーヴ、もう降ろしてくれていいよ」
「ん?ああ……」

声をかけられてから、ようやく彼はミトをすとんと地面に降ろした。

「ありがとう。その……勝手なことしてごめんね。ギーヴのおかげで助かった」

月は雲で翳り、お互いの表情はよく見えなかった。様子を探りながら、感謝の言葉を伝えると、突然彼の気配が自分に覆いかぶさった。

「……は〜」
「!?」

ギーヴはミトに抱きつくように腕をまわしていた。少し驚いたけれど、両肩に彼の重みがのしかかり、あたたかい感触がしてなんとなく安心してしまう。

「おぬしが無事でよかった。しかし、働き過ぎて疲れた。ちょっと休ませてくれ」
「い、いいけど……」

ミトに身体を預け、ぐでっとするギーヴの背を、ねぎらいの意味も込めて、ぽんぽんと叩く。すると、彼が心地よさそうに表情を緩めるのが、ミトにも伝わってきた。

「あんな無茶なやり方は久しぶりだったからな」
「そうだね……軍が大きくなってからは、こんなこともなかったし」
「ついでにミトと二人になるのも久しぶりだ」
「え、あ、そうね」
「……」
「……どうしたの?」
「いや、ギスカール公もひょっとしたらこういう安らぎをおぬしに求めているのかと思ってな」

そう言われて、ミトはきょとんとした。自分が誰かに安らぎを与えられるような存在なのかどうか、あまり自覚がない。けれども、ギスカールが自分に縋る気持ちについては、ギーヴの意見もあながち間違いではないような気もした。

「……そうなのかな。まあ、ルシタニアも追いつめられてて、苦しい状況だろうけど」
「おいおい、いまさら同情なんてするなよ?」
「別にそういうわけじゃないけど、戦わずに済んだらいいのにとは思う……」

そう思う。でも今のミトは、思っているだけで、それを実現させる力がない。

「でも、さっきも、ギーヴやみんなを危険に晒したのに、私の声は届かなかった……」

ギスカールに兵を退かせることが出来れば、ギーヴに必死に逃走させることもなかった。自分で交渉が出来れば、ナルサスやエラムに付いてきてもらう必要もなくて。自分がもっと上手く立ち回れれば――

「お優しい方だ、ミトは。だから周りに気付いていないのだろうが」
「え?気付いてないって?」
「いいや、俺はこれからもあなたの麗しい詩人であり続けますとも、っていう話。見返りがなくともね」

ギーヴの言葉の意味がいまひとつ理解できず、ミトが首を傾げていると、彼は「いや、見返りならもう貰ったか。俺を救ってくれたあの日から本当はずっと……」と独り言をいう。
月の輝きが強くなった。銀色の光を降り注がせ、彼の姿をぼんやりと浮かび上がらせる。黙っていれば美男子なのだから、そんな情景の中で優しく微笑まれては、ミトも思わず動揺してしまう。

「月の女神も祝福しているようだ。ああ、ミトどの。これからも、俺がおそばにいることをお許しください。あなたを守らせてください。……おぬしはそこそこに強いが、どうにも危なげないからな」
「ギーヴ……」

いつの間にか固く手を握られていた。華奢なのに逞しいその手の感触にどきりとしていると、突然、顔の近くを矢がひゅっと飛んでいった。

「ひっ!?」

ルシタニア兵がもう追いついたのだろうか、と思って慌ててギーヴの背に隠れる。しかし彼は緊張することもなく軽やかに笑ってみせた。

「あ、悪い悪い。あんたのことも撒いてしまった」

森の中から現れたのは、不機嫌そうに顔を顰めたメルレインだった。
そういえば、この三人で行動するはずだったのに、ギーヴがミトを連れてあっという間に闇に紛れてしまい、彼を見失っていた。追いかけてきたメルレインをさすがと誉めてあげるべきなのだろうか、とミトは苦笑する。

「目を離すとすぐにこうなる……腹立たしい夜だ」
「いやあ、目の前であんなこと宣言されたら腹も立つよなぁ、兄者どの?」
「ふん」

とりあえずは合流できたことに安堵し、三人はパルス軍の天幕へと戻っていった。



***



パルス本陣に戻ってから、しばらくの間、心配したり自分を励ましたりとそわそわしていたミトだったが、三人分の影がこちらに近付いてくるのをみつけると、ほっとして胸を撫で下ろした。

「戻ってきた!よかった……!」

ナルサス、ダリューン、エラムとも大きな怪我もなく、うまく追手を撒きながら帰還したのだ。

「ミトさまが姿を現されたときはどうなることかと思いましたが、おかげでルシタニア兵も混乱したようで、隙を見て逃げることができました。ミトさまもご無事で何よりです」

ミトの格好をさせられていたエラムは、慣れない服装のせいか髪までぼろぼろになっていた。それなのに、「このエラムも、お約束通り無事に戻ってまいりました」と誇らしげに言われて、ミトは胸がいっぱいになった。
自分には力もないし、帰るべき国もない。それなのに、彼らはこんなにもミトを想い、頼らせてくれる。

「私を引き渡すと言えば、ギスカールも大人しく退いてくれたと思うのに、危険なことをさせて、ごめんなさい。でも、みんな、私を守ってくれて、ありがとう……」

やけにしおらしくなってしまったが、「よいよい。女性はそれくらいが好いのだ」とギーヴがどこか照れくさそうにお茶を濁した。
あたたかい雰囲気に、自分はまだこの場所にいていいのだと、彼らが言ってくれているような気がした。

やがて、寝ずに待っていたアルスラーンも現れて、部下たちの苦労をねぎらった。大事な騎士たちを送り出したのだから、彼もかなり心配していたのだろう。
夜はいよいよ深みを増し、暗黒の時間となりつつあった。時間も遅いので、詳しい報告はあとにして、今日は休養しようということになったのだが――

「ナルサス?ちょっとだけお話が……」
「どうした?喜んで聞くぞ」

にこにこしながらミトが声をかけると、ナルサスは待っていたかのように愉しそうな笑みを浮かべるのだった。



***



「おぬしから誘ってくれるとは、光栄な夜だな」
「べつに、誘ってませんよ」

ナルサスの天幕に入り、座り込むと、ミトはゆっくりと溜め息をついた。
今日もまた長い一日になった。日が落ちてから活動することはあまりないから、余計に引き延ばされているように感じる。

「ナルサス、結局戦闘になっちゃったけど、大丈夫でした?」
「俺たちのことなら心配には及ばぬ。おぬしが心配していたエラムもほとんど無傷だ」
「ならいいんですけど」
「けど、何だ?」
「いえ、えっと、なんかナルサスってば、ギスカールを怒らせちゃうし、みんなも危なくなっちゃったし……」

ぼそぼそと少し咎めるように言うと、ナルサスはそんなことかと肩を竦める。

「おぬしには、俺がつまらぬ喧嘩をしに行っただけに見えたかもしれぬが、ギスカール公の姿を確認できただけで、あそこへ赴いた意味があったのだ。敵の顔を知るというのは非常に重要なこと。絹服を捨て、宝石を捨てて、他の兵士と同じ格好をして逃げられたら、顔のわからぬ者はいくらダリューンでも捕らえられぬではないか」
「確かにそうですね……」
「それに、敵に囲まれていようと、ギーヴたちなら何があってもおぬしを守り抜くと確信していた。ならば敵を混乱させて個別に脱出する方が、成功率が高い。それが俺の策だよ」
「……え?そ、そうなんですか」

彼の言うとおり、ギーヴはミトを安全な場所へ連れていくことを何よりも優先してくれた。ぽかんとしていると、「俺はミトのことをいつも一番に考えている。それを忘れるな」という言葉が耳に入り、胸が締め付けられ、口ごもってしまった。

「しかし、ギスカール公は本当におぬしに個人的な執着があっただけのようだな」
「……はい。それ以上の理由というか、私自身に戦略的価値はないですからね」

だからこそ、今頃ギスカールはミトを逃したことを悔しがっているかもしれない。公私を混同するほどに、欲していたのだから。
どことなくしゅんとしているミトを見て、ナルサスは大きく溜め息をつく。

「正直なところ、俺の他にもミトと過去に会っている者がいることが気に食わない」

頬杖をついて視線を逸らした彼に、ミトは驚いて顔を上げた。珍しく不機嫌そうな横顔に、じわじわと鼓動が早くなり、表情が緩んでしまう。

「へっ、いきなりなんですか……もしかして嫉妬してます……?」
「ミトだけは、俺の思い通りになってくれないからな」
「そんなことはないと思いますけど、むしろ……いえ、嬉しいです……」

へへ、と気の抜けた笑顔を向けると、彼は少し面食らっていた。

「喜ぶところではないぞ?」
「でもナルサスがそんなふうに思ってくれてるなんて、私、嬉しい」
「だからと言ってあまり俺を驚かそうとしてくれるなよ」
「しないですよ、そんな余裕ないし……」

照れながら頬を掻いていると、ナルサスの瞳がじっとこちらを見つめていることに気付く。その真剣な眼差しに、空気が変わってしまう。今は二人きりだったという状況に気付き、途端に落ち着きをなくしたミトは、あわてて「あっ」と声を紡いだ。

「ええと、ど、どうにか勝てそうな気がしてきましたね。ナルサスなら大丈夫だってわかってはいたけど、やっぱり兵力の差もあるし、この戦いが始まったときはみんな心配してたと思います」

ルシタニア軍は、エクバターナ付近での戦いが始まった時点においても、複数の勢力に分かれているパルス軍の合計よりも大きな兵力を誇っていた。だが、各戦闘で負け続けており、その勢いは衰退しつつあった。
ギスカールがミトに救いを求めているのも、現状が芳しくないという理由からだろう。

「そうだな。なんとかなりそうではある。それにギスカールという男、会ってみて正解だった。俺の思ったとおり、聡明な御仁のようだ。四十万の大軍を率いて遠征し、マルヤムとパルスを滅ぼすだけの力がある」
「敵を誉めてどうするんですか」
「有能だからこそ、俺の策を計算し尽くしてくれると確信できる、ということだ。これほど得体のしれた敵はいないだろう」
「あ、ああ、なるほど……。いつも思いますけど、ナルサスはすごいですね」

彼は一体どれほど正確に未来を見通しているのだろうか。ミトはふと寂しさを覚え、わずかに俯いた。
思わず「なんで私なんかと……」と弱音を零してしまうと、彼の冷たい手がミトの髪をさらい、額を撫でた。
ひやりとした感触が現実味を帯びて感じられる。自分は確かにここに存在しているのに、自己をうまく確立できない心地がする。それはこの世界に来てからずっとで、自分が何者なのかを探し始めてからさらに強くなり、目の前の彼を好きな気持ちを認めてからははっきり視認できるくらいになった。

「そうだな。自分でもはかれないくらい、俺はミトがいいんだよ」
「……ありがとうございます」
「俺は必ずミトを守る。二人で生きていける方法を必ず見つけ出す」

ナルサスの言葉に違和感を覚えて、ミトは目を見開いた。「え……?なに?」と訊ねる声が震えている。

まるで、「二人では生きていけない」と言っているようではないか。

彼は未来を見通す。もしかしたら、彼はこの先ミトがどうなっていくのか、知っているのかもしれない。本当は、ミトがどこから来たのかも、知っているのだろうか。
胸が奇妙な痛みにざわついていた。知りたい。だが、それを知ったら自分は自分でいられなくなるかもしれないという恐怖が、心を支配する。

「……俺はずっとミトに謝らなければいけないと思っていた。が、もうあまり時間がない。今ここで話そう」
「ナ、ナルサス……?」

また、空気が一変した。今度は甘さのない、ひりひりと灼けつくような気配がする。
これから彼が語るのが真実だ、と唐突に理解する。嫌な予感ばかりがして、耳を塞ぎたい衝動に駆られるが、身体がぴくりとも動かない。

「……おぬしは、自分を守る力をはじめから持っていた。並の兵士ではおぬしに傷を付けられぬ。そして、誰かを守る力も持っている。イリーナ殿下やギスカール公を、過去に遡り救った」
「は、はい……」
「だが、それは、本当は俺のための力だ」
「……え?な、なにを言って……」

何を意味しているかわからないのに、彼の言葉が魂を揺さぶるほど恐ろしく感じられた。
曖昧な不安に、どうしたらいいかわからず、思わず彼の手を握った。髪からつま先まで小さく震えていて、いまにも泣き出してしまいそうだ。
ようやく口を開こうとしたとき、ミトの声が声となる前に、突然、天幕の影から別の声が漏れ出てきた。

「ふふ、まこと、人の幸福というのは儚いものだな」
「だ、誰!?」
「二つに分かれたパルス軍がなにやら不穏な動きをしているというから様子を見に来ただけだが……ふむ、邪魔をしてしまったかのう」

暗灰色の衣に身を包んだ男が、闇の中から浮かび上がるようにして、ミトとナルサスしかいないはずだった天幕の中に現れた。今まで気配すら感じなかったのに、禍々しい空気を放ち、こちらを見据えていた。
ルシタニア人でもパルス人でもない。何者か。それがうっすらと浮かべた笑いに、異常な危険を感じ取り、身の毛がよだった。

next
5/23



×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -