暗闇で満ちる森に、二つの勢力が対峙していた。月灯りに時折照らされるのは数人に過ぎないが、それ以外にも多くの息遣いが微かに耳に聞こえる。
一方はパルス軍の軍師と黒騎士、そして外套に身を包んだ少女。向かい合うのはルシタニア軍の総帥と側近の騎士たちだった。
ぴんと張り詰める空気の中、パルスの軍師は臆することなく口を開く。
「まずはそちらの目的についてお伺いしとうございます。なぜ我が軍の者を、ギスカール公自ら引き取りたいと申されるのか」
「もともと、ミトはルシタニア王家にゆかりの深い者である。先日、パルス軍に合流したと聞いて驚いたものだが」
「ルシタニア王家に?人違いでは?そのような話は存じ上げませぬが」
「無論非公開の情報であり、本人も知らぬ可能性がある」
「……」
ルシタニアの王弟ギスカールは淀みなく言うが、それがでまかせであることを、パルスの者たちは察していた。
ギスカールがミトを取り戻そうとしているのは、恐らくもっと私的な理由だ。指導者たるギスカールが個人的な要求を話すわけにもいかないので、ミトと祖国に何か関係があることにするしかないのだろう。
「ミトはルシタニアの民も同然である。それゆえ手元に戻したいと考えている。書状にも添えたとおり、相応の対価も用意している。ミトを返していただきたい」
「返す、とはまた見当違いですな。ミトは私のものでございますから」
ナルサスの言葉で、ギスカールの眉間に皺が寄った。空気は一段とひりつき、両者に苛立ちのようなものが伺えた。
これは国同士の取引のようであって、極めて非公式かつ個人的な交渉の場であった。だからこそ、お互いに譲る気はないらしい。
「おぬしのもの、と言ったか?聞き間違えだろうか」
「いいえ。その通りです」
「ミトは二十年以上前からルシタニア王家と関わりがござる」
「それが何か。ミトをみつけたのは私ですので、あなたに横取りされる筋合いはありません」
「横取りとはまた言葉を選ばぬ御仁だな。ミトがいつおぬしのものになったのだ」
「一月ほど前でしょうか」
***
「ミトどの、照れている場合じゃないぞ」
少し離れた場所で交わされる会話に耳をそばだたせながら、渦中の人物――ミトは恥ずかしさで顔を覆っていた。
半笑いのギーヴの言葉に促されるようにして、ようやく指の隙間から状況を垣間見る。
「いや、ちょっと、な、ナルサスは一体何を考えて……!?」
***
「えっ、エラムが私の代わりに!?だ、だめですそんなの!何かあったら……」
ルシタニアとの密会へ出立する前に、ひとつの策が打たれていた。
こちらははじめから要求に応じるつもりはないのだが、もしもギスカールが素直に引き下がらず戦いになってしまった場合、ミトの身柄がまっさきに狙われることになる。
そこで、交渉の場へは、ミトではなく彼女に変装したエラムを立たせることにしたのだ。ミトはそこから離れた場所で、ギーヴらと待機する。
「大丈夫ですよ、ミトさま。逃げるのは得意ですから。ナルサスさまやダリューンさまも傍におりますし」
「でも……」
「ルシタニアの優先事項はミトの確保だろうから、エラムの正体がばれれば逆に注意が逸れるだろう。本物のミトはどこか別の場所にいると思うはずだからな。その隙に全員で脱出する」
ギスカールと対峙するのはナルサス、ダリューンというパルス最強の二人であるし、エラムもミトの役を抜かり無くこなしてくれるだろう。しかし、ルシタニア軍はすでに森を包囲しているかもしれないし、大事な人たちを危険に晒すことへの葛藤があった。とはいえぐずぐずしているわけにもいかず、ミトは怖れを押し殺して頷く。
「エラムだから、心配はしないよ。でも、無理はしないで。必ず戻ってきてね」
力を込めて彼の手をぎゅっと握ると、その黒い瞳は嬉しそうに微笑んだ。
「はい。ミトさまの命令とあらば必ず」
「……しかし、まさかお慕いしている方の女装をさせられるとは思いませんでした」
「……お慕い……?なんのことだ……」
「いいえ。なんでもありません」
エラムは可憐な少女のような所作で、主に向かってにこりと笑う。
このパルスの軍師は、敵軍に対しては悪魔じみた洞察力を発揮し完膚なきまでに叩きのめしてしまうくせに、彼自身をとりまく人の機微には鈍感なところがあるようだった。
***
そういう経緯があり、今、ギスカールらと対峙しているのは、ナルサス、ダリューン、ミトに変装したエラムの三人であった。
ミトは少し離れた丘に隠れ、ギーヴ、メルレインとともに見守っていたのだが、こんな状況になるとは思わなかった。両軍の将が、ミトのことをめぐって言い争っているような。
「ですから、ミトはもともとパルス軍に属しており、ルシタニアとは縁もゆかりもございません」
「いや、ミトは王家の恩人であり、私とも個人的に縁のある者だ」
「私個人とも好い仲でございます」
「それはそちらが勝手に思っているだけでは」
「あなたのおっしゃる縁も妄想ではないのですか」
暗闇に潜んで彼らの会話を聞いていたメルレインは、ついに「おい、何の話をしているんだ」と苛々した様子で呟いた。ミトも苦笑いをして「いや、ほんと、何してるんだろうあの人は……」と答えるしかない。
「こんな大人気ない軍師どのは初めて見たな。子供の喧嘩のようだ。あそこに立っているダリューン卿たちもいたたまれない。いや、軍師どのなら、むしろ意図的にか……俺たちが聞いているというこの状況も。しかし敵軍の将を相手に、さすがに凄まじい度胸であるな」
対して、ギーヴは愉しそうに目を輝かせていた。絶対的な権力者に楯突くような場面が、彼は大好きなのだろう。
しかし、珍しいものが見られたと喜んでいる場合でもなかった。
「では、そこにいるミト本人の意見も聞こうではないか」
「……!」
ギスカールが指差したのは、ミトに扮したエラムである。
一瞬にしてパルス側に鋭い緊張が走った。へらへらと笑っていたギーヴすら黙らせるほどの。
エラムは顔を見せることも、声を発することもせず、ただその場にじっと立っていた。偽物であることはいずればれてしまうだろうと想定していたとはいえ、一歩間違えばここで全滅しかねない。ダリューンが慎重に動き、剣を抜く体勢になる。
「如何した。出来ぬのか?」
ギスカールの声は低く朗々として、落ち着き払っていた。
彼もまた、この事態を予想していたようだった。
「なるほど、やはり偽物だな」
その瞬間、静寂が支配していた森に、わっと敵の気配が湧き立った。潜んでいたルシタニア兵たちが一斉に姿を現したのだ。パルスの者を包囲するように、ほとんどすべての方角に配置されている。
「この場はひとまず休戦すると約束したが、我らを欺くつもりならば、それも無しにさせていただく。捕らえよ!」
ギスカールの声が響き、兵が動き出した。ナルサス、ダリューン、エラムめがけて殺到していく。
このままでは、いくら彼らが強くとも、逃げ場もない。
「だめ……こんなところで……!」
「おい、ミト、待て!」
ミトがギーヴの制止をふりきって丘の上に立ち上がったとき、薄い雲の切れ目から、銀色の月光が差し込んだ。
「ギスカール!私ならここにいます!」
それは神秘的な色合いとなってミトを照らし、時間が止まったかのような錯覚すら起こさせる。
声に驚き振り返った兵士たちは、呆けたように、月を背負った少女の姿を見上げていた。
「な……ミトか!者ども、あちらが本物だ!」
「ギスカール、お願い、兵を退かせて……!」
ルシタニアは、やはりミトの確保を目的としているようだった。兵士たちは一転して丘へ押し寄せてくる。荒々しい足音や、武器の鳴る音で、ミトの声は掻き消されてしまう。
「ギスカール、兵を……」
烈しい暴力の気配に呑まれ、ミトは動けなくなった。数十人もの兵が、自分を狙って襲いかかろうとしている。その恐怖に、圧倒されてしまったのだ。
しかし、ルシタニア兵が丘へ到達する直前、ミトの身体が、不意に宙に浮いた。
「この場はどうにもならん!ひとまず逃げるぞ!」
そう叫んだのはギーヴだった。姿の見えなくなっているナルサスたちに報せるためか、ミトの意識を戻すためか、詩人というには乱暴すぎる声で叫び、ミトを担いで暗い森へ逃走していった。
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