パルス歴三二一年七月末。ルシタニア内部の混乱により水路が破壊され、エクバターナは深刻な水不足となっていた。
ルシタニアの王弟ギスカールは、これ以上籠城は続けられないと判断し、アンドラゴラス率いるパルス軍十万を、王都エクバターナの東方の平野で迎え撃つべく出陣する。

ルシタニアの兵力は二十五万ほどであり、アンドラゴラス、アルスラーン、ヒルメスの各軍の合計をも上回る大兵団だった。これをいかし、分裂しているパルス軍を各個撃破するのがルシタニアのとるべき基本的な戦略である。
しかし、アンドラゴラス率いる軍の高い戦闘力と機動力に撹乱され、七月末に起こった最初の戦闘はルシタニアの敗北となった。


アトロパテネ会戦でパルス軍を破り、王都エクバターナを奪ったという前年の輝かしい歴史があるものの、この年に入って以来、ルシタニア軍の士気は低下する一方だった。戦では敗北が続き、占領地も半分が奪回されてしまっていたのだ。

八月六日。サハルード平原にて再びルシタニア軍とアンドラゴラス軍が衝突していた。
先日まで勝ち誇っていたはずのギスカールも、苛立ちを抑えきれずにいた。手を尽くそうにも、味方の軍はパルス軍に怖気づき士気があがらぬし、すっかり負け癖がついてしまっていた。これではいたずらに兵力を無駄にするだけである。
しかし、いまだ決断は下せていないが、彼にも策がないわけではなかった。上手くいけば、分裂したパルス軍を躍らせることもできよう……。
ギスカールがひそかに抱いていた策に考えをめぐらせながら、本陣から戦場を見渡し、指示を出している時だった。突然、背後からわっと叫び声が上がり、驚いて振り返ると、黒い煙がもうもうと立ち上っていた。

「だ、誰が糧食に火を放った!?」

傍にいた腹心のモンフェラート将軍があわてて怒鳴ったが、周囲の者は呆然としていた。守りが薄かったとはいえ、陣の後方に何者かが入り込んできて糧食を燃やしてしまうなどとは、考えもしなかったのだ。
ルシタニア軍は急いで消火にあたったが、今は夏で空気が乾燥していたし、近くに水もなかった。
大兵力を養うための膨大な糧食はあっという間に燃え尽き、ほとんどが灰になってしまった。

ギスカールは怒りで拳を震わせながら、その現場を睨みつけていた。アンドラゴラスの率いるパルス軍なら今まさに正面から相手にしているが、一体誰が背後から近付くことができたのだろうか。まさかヒルメスが?と一瞬考えたが、彼らはまだ王都の西方に潜んでいるようであるし、わざわざ東へまわるとは思えない。ぶつぶつと推論を立てていると、「逃亡する者あり」との報が耳に入った。
その方角に目を向けると、数人の部隊が馬で走り去っていくのが見えた。

「あれは……!」

ギスカールはその中に懐かしい後ろ姿をみつけて、心底動揺してしまった。
二十年以上前に出会って彼の命を救ってから、一度も姿を見せずにいて、それが、ひと月前に突然自分の前に現れた。しかしまたすぐに消えてしまった、ミトという少女。

「やはりパルス軍か」

王宮で見失ってから部下に探させていたが、結局みつからず、パルス軍に戻ったのだろうと思っていた。その想像通りだったようだ。糧食に火を放ち逃亡していくあの部隊も、アンドラゴラスの軍の一部なのだろうと考える。
ギスカールの心のうちに沸々と込み上げてくるものがあった。幼いときに感じた彼女のあたたかさが思い起こされて奇妙なほど安心してしまうのと同時に、子供じみた嫉妬が顔を覗かせていた。

「あれは二度も俺の命を救ってくれた。俺の人生に必要なひとに違いない。ミトを奪い返さねば……。あの時のパルスの小僧にも礼をしたいところだしな」



***



ルシタニア軍の中から走り去る数騎は、追手を土煙にまきながら、南へと下っていく。
アンドラゴラスの軍とルシタニア軍が戦闘に入ったとの情報を聞き、アルスラーン王太子率いる軍がひそかにパルス側を援護するため、敵の後ろにまわり込んで糧食に火を放ったのだ。
いくら大軍があったとしても、それを飢えさせぬだけの糧食がなければ、どうにも立ち行かなくなる。この戦いの最中に糧食を焼かれたことは、ルシタニアにとって相当な痛手となるだろう。
彼らの行動は、アンドラゴラス王から要請があったのではなく、独立したものだった。「アルスラーン殿下はいまだ追放の命を解かれていないから、アンドラゴラス陛下の軍には帰参したくても出来ぬ。よって単独行動せざるを得ない」というのがナルサスたちの主張だった。乱暴に言えば、こちらは好きにさせていただく、ということである。
この時ギスカールは、アンドラゴラス王とヒルメスのことしか頭に入れておらず、もう一人の王太子アルスラーンの軍のことはほとんど失念していた。



***



「ふう、なんとか上手くいったみたい」

ルシタニアの追手も見えなくなったので、ミトは馬の背で一息ついた。少人数での単独行動だったから不安も大きかったのだ。しかし、相変わらず我らの軍師の立てる戦略は容赦ないな、といまだに立ち上る黒い煙を振り返って苦笑する。

ギランを出てから大急ぎで王都へ向かったので、なかなかナルサスとゆっくりする時間がとれなかった。彼にはやらねばならないことが山程あるのだから仕方ないが、自分はまだあの甘やかな感触を忘れられずにいた。「好きだ」という声の響きを思い起こすと、身体が熱くなって何も考えられなくなる。
今、ナルサスはダリューンとともに、アンドラゴラス軍の左翼で戦っているキシュワードに会いに行っている。挨拶をしなければならぬ、と言ってふたりだけで戦場に向かったのだ。

「……ナルサスは大丈夫かな……」
「心配なら一緒に行けばよかっただろう」

ぼうっとしていたら声に出ていたらしく、返事をされてミトはハッとした。
メルレインがいつもの無愛想な表情で馬を並べている。独り言を聞かれて、ミトはとっさに顔を赤らめてしまった。

「え、いや、別に……ダリューンが一緒だし平気だと思うけど……」
「お前たち何かあったか?」
「へっ」

あの日、ギランの町でナルサスと話したことは誰にも打ち明けていなかった。
今は戦の真っ只中だから恋愛なんてしている場合じゃないし、ミトの素性についても、戦争には関係がなくややこしくなるだけだから人に話すのはやめておこう、と相談してのことであった。
メルレインは他人に興味がないようなフリをして、まったくどうしてこんな微妙な変化に気付くのだろうか。探るような目で見られて、ミトは狼狽を隠しきれなかった。

「この間からどうもお前の様子がおかしい気がしていたが」
「え、な、なにが?」
「……いや、俺の知ったことではないな」

そう言うと彼は、顔をふいと背けてミトから距離をとった。何か誤解したまま納得されても困る、と思ったミトは再び馬を寄せた。
彼はむっつりとして眉間にしわをつくっていた。知ったことではない、と言いながらも、どうやらミトのことで機嫌をそこねているらしい。

「ちょっと、おーい、メルレインってば。なんかいつもよりご機嫌ななめだったりする?」

隣に並んで顔を覗き込むと、少しの沈黙があってから彼はめずらしくミトを正面からみつめた。というよりもやや睨んでいるのだが。

「……あんたじゃあの御仁は御しきれないんじゃないか。俺くらいの方が合ってると思うが」
「えっと……え?」

意味がよくわからず聞き返すと、わざとらしく溜め息をつかれた。何か言い返そうと口を開きかけたら、視界にもう一騎入ってきたので、言葉をのみこむ。それはエラムで、ミトに心配そうな視線を向けていたのだ。

「あの、ミトさま。本陣まであと少しですが、お疲れでないですか?昨夜も遅くまで起きていたと思いますが」

急にそう言われてミトは「えっなんで知ってるの?」と目を丸くした。
王都へ向けて急いで北上したから野営が続いているが、いろいろ考えてよく眠れていなかった。ギランを起ってから、というかナルサスに想いを打ち明けてから、身体がなんとなく重い。甘さに痺れているのに、どこか不安で苦しく、自分でも思うようにならないのだ。

「あ、ええと、なぜ知ってるのかというと、それは……」
「ずっと見てるからだろ」

横槍を入れたのはメルレインだった。エラムが顔を紅潮させて「な、なんなんですかあなたは!」とむくれると、メルレインは馬を引いてスッと離れていった。
妹のアルフリード同様に、彼とエラムの相性はあまりよくなさそうだ。でも、エラムも最初の頃はミトを警戒して無愛想だったな、とふと思い出し、ひとりで微笑してしまった。

「あ、ああ、あの、ミトさま、身体はもう大丈夫ですか?」
「……うん、エラムのおかげでなんとか」

あの日ギランで起こったことはナルサスとミトだけの秘密だったが、ミトの傷を手当してくれたのは、このエラムだった。あとから聞いたが、ナルサスが彼に応急処置を頼んだらしい。
もともとエラムはミトが傷を負う可能性があるのを知っていたから、今回の件でもそこまで驚いてはいなかったが、ショックは大きかったようだ。
ミトの「斬れない」性質がこれまでミトを守っていたが、その力はいつまで常にあるのかわからない。ずっと前からエラムはそのことを危惧していたから、血を流して気を失うミトを見せられたときは相当堪えただろう。
エラムは悲痛な面持ちになっていた。この人を守りたいという想いが、成長しきっていない身体の中で膨れあがっていたのだ。

「ミトさま……。もし、無事にエクバターナを取り戻すことができたら、お話したいことがございます」
「え……な、なんだろう」

緊張した様子で言うエラムにつられて、ミトも落ち着かなげに首を傾げた。二人の間にそわそわした空気が流れ始めて、お互いに相手の顔がしっかり見られなくなってしまう。

「た、大したことではありませんし、私の話なんて聞いてくれなくてもいいのですが……」
「どうしたの。エラムの話ならちゃんと聞くから大丈夫だよ」
「そ、そうですか」

優しく言うと、エラムは嬉しそうに声を弾ませた。もしも彼に尻尾があったら、ぶんぶんと振り回しているのが見えただろう。

「気になるし、今ここで言ってくれてもぜんぜんいいけど?」

何気なくそう口に出すと、エラムは慌てて「あ、いや、今じゃなくていいんです。いろいろと、周りが落ち着いてからで」とうやむやにした。

「そうだね、はやく戦が終わってくれればいいんだけど。混乱もおさまって、みんなあるべきところに帰って……それで……私は……」

この時初めて、この戦いが終わったら自分はどうなるんだろう、とミトは思った。
家がある者たちはそこへ帰るだろうし、引き続き王家を守護する者もいるだろう。自分は、どこへ行くのだろう。新しい歴史を刻み始めるこの国のどこに根を下ろすつもりなのだろう。漠然とした不安が、手綱を引く指先を震わせていた。

「俺は、あなたさえいればずっとこのままでもいいような気がしています」
「え?」
「な、なんでもありません。早く殿下のもとに戻りましょう」
「……あ、ありがとう」

ミトは若い横顔に小さく礼をした。まだここにいていい、と誰かが言ってくれる限り、ミトの役は終わらないのだと思いたかった。

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