パルス軍の左翼部隊を率いていたのは、二本の剣を操るキシュワードであった。一万の騎兵を統御しつつ、自身も圧倒的な剣技でルシタニア軍を蹴散らしていく。
とはいえ、敵の兵数は自軍を遥かに上回っていた。正攻法ではまだ勝てぬ。だが、焦ってもどうにもならない、と歴戦の将らしく、彼が冷静さを欠くことはなかった。しかし、部下たちに細かな指示を出していると、ルシタニア軍の後方から黒い煙が立ち上っていることに不意に気が付き、彼は目を瞬かせた。
何かが燃えているようだが、あれほど奥へ兵を送り込んだ覚えはない。キシュワードにしては珍しく、なにが起こったのかと判断に迷った。だが、そのとき、煙を引き裂きながら飛ぶ鳥の姿が目に入った。

「あれは、アズライール……!なぜこのようなところに」

驚きはしたが、キシュワードは瞬時に理解する。彼自身は今アンドラゴラス王に仕えているが、アズライールという自慢の鷹は、王太子に同行させていた。つまり、追放された王太子アルスラーンが傍にいるということである。ルシタニア軍後方に火を放ったのは、アルスラーンの軍隊に違いない。

「殿下が、帰参なさったか……」

キシュワードは口元を緩め、闘志が奮い立つのを感じた。すぐさま兵を反撃に転じさせ、ルシタニア軍を封じ込めていく。

やがて将軍と思しき騎士をみつけ、キシュワードは単騎で突入し、それを追いかけた。
しかし、やや走ったところで、突然視界の横から漆黒一色の騎馬が踊り出てきた。その影は、あっという間に敵将を捉えると長槍を翻した。一合にも及ばず、ルシタニア騎士は身体を突き抜かれ、鞍上から転げ落ちていく。

「キシュワード卿、申し訳ない。おぬしの獲物を横取りしてしまった」

そう言って、突如として現れた漆黒の騎士ダリューンは、キシュワードに挨拶した。すると彼に続いて、もう一騎が姿を現す。

「おう、ナルサス卿も一緒だったのか」
「お久しぶりだ、キシュワード卿」

キシュワードは王太子の両翼である二人との再会を喜んだ。
彼らが簡単にこの舞台から退場するとは思っていなかったが、アンドラゴラス王から追放された後の動向がなかなか耳に入らず、気にかけていたところだった。
南方の町へ赴き五万の兵を集めるよう言い付けられていたが、果たしてどうなった?と尋ねると、ナルサスとダリューンは視線をかわして小さく笑う。

「我らが集めた兵力はまだ五万に満たぬゆえ、アンドラゴラス陛下のもとに帰参することはかなわぬ。我らは王太子殿下のもとで独自の行動をとるのみ。好んでのことにあらず、陛下の勅命にしたがえば、そうならざるをえぬ」

ナルサスが少しも残念そうにしていないので、キシュワードは肩を竦めた。
兵が足りぬのに帰参すれば勅命に背くことになる。彼らが王のもとに戻らないのは、咎めようがなかった。

「アンドラゴラス陛下は、ルシタニア軍と正面から戦って、武勇を誇示なさるがよろしかろう。その間に、我らは王都を掌中におさめさせていただく。請う、悪く思いたもうな」

貴公子めいた容姿の青年が悪戯心のある笑みを浮かべたとき、彼らの背後から「キシュワードどの!」と声が上がった。振り返ると、急いで稜線を越えてくる騎馬がいた。どうやらキシュワードの部下らしい。

「どうした?」
「はっ。つい先程、ルシタニア軍から密書が届きまして……」
「密書だと?」

キシュワードは眉を寄せ、ナルサスとダリューンも顔を見合わせた。この平原での戦いはまだ決しておらず、ルシタニア軍が一体何を持ちかけようとしているのか見当もつかなかったのだ。
部下の兵は手紙を渡しながら、追放されたはずの王太子アルスラーンに付き従う二人がいることに一瞬驚いたようだったが、キシュワードが「このことは口外せぬように」と配慮する。

「……おい、これは一体どういうことだ?しかも王弟ギスカールの名で書かれているが」

彼は手紙の内容に目を通すと、絶句した。衝撃を受けているというよりかは、状況をうまく呑み込めない様子である。キシュワードは額に手をあてて、ナルサスたちにも読むようにと促した。

「……ほう。ミトという少女を寄越せ、と仰せだ。正面から軍がぶつかり合っている時だというのに、これはまたどうしたことかな」

薄ら笑いを浮かべて呟くナルサスに、「ミトとは、あのミトのことを言っているのか?お前の……」とダリューンが半信半疑で問いかけると、「うむ。俺のミトのことだろうな」と返ってくる。

「しかし、ミトとルシタニアの王弟になんの繋がりが?」
「さあな」

ナルサスははぐらかすと、思案するように目を伏せた。ミトはギスカールの過去へ行ったと言っていたから、そのときに、必ずミトを取り戻したいと思うほどの何かがあったのだろう。他人の執着心にどこか理解を示してしまう自分が可笑しいけれども。

「この密書がキシュワード卿のもとへ届いたということは、ルシタニアの王弟殿下は、ミトがパルスのいずこの軍に身を置いているか知らぬのであろう。いや、アンドラゴラス陛下やヒルメス殿下のお相手が精一杯で、そもそもアルスラーン殿下のことをお忘れなのか」

ナルサスが言うと、ダリューンがむっとした感じで少し睨むが、彼はそれを軽く流して続ける。

「キシュワード卿、この件はこちらで引き受けさせていただこう。なに、おぬしらに迷惑はかけんよ。それに、娘一人のことだ。アンドラゴラス陛下の耳に入れる必要もなかろう」

キシュワードは「承知した」とやや困った顔をして頷いた。ルシタニアの密書を彼の独断で王太子の軍に預けたことが、もしもアンドラゴラスに知れたら相当な怒りを食らうだろう。しかし、持ち帰っても仕方がない。それよりも、ナルサスたちに任せた方がよいと思ったのである。



***



ルシタニア軍の糧食へ火を放ったミトたちや、単独行動をしていたダリューンとナルサスが戻ると、アルスラーンの軍は平原の南を通って王都の方角へと移動した。戦場を避けるように進み、夕刻の頃にルシタニア軍の後方にまわり込んだ。彼らはパルス軍の別働隊であるかのように振る舞い、ルシタニア軍の動揺を誘ったのだ。アンドラゴラスとは理想を別にしたとはいえ、同じく王都奪還を目指す者としての協力であった。
「退路を絶たれてしまう」と恐怖を煽られたルシタニア軍は、戦意を挫かれてしまった。そこをパルス軍のクバードやキシュワードといった勇将に突かれ、ついに敗れることとなる。
ルシタニアの二十万の大軍が、日が落ちるのを追いかけるように、王都の方角へと退いていった。




「ルシタニア軍は西へと敗走していきました。指揮をとっていた王弟ギスカールやモンフェラート将軍も落ち延びたようです」

あたりに闇が立ち込めてきた頃、偵察から戻ってきたジャスワントがそう告げる。
アルスラーン軍の進路をどうするか、野に張った天幕の中で話し合いが行われていたのだ。
この勝利によって、パルス軍はひとまずアトロパテネ敗戦の雪辱を果たしたこととなる。しかしまだルシタニア軍の兵力は巨大であり、喜んだり油断している暇はない。
それに――と、ナルサスはミトを一瞥した。問題はまだいくつも残っていた。

「……実は、本日キシュワード卿に会ってきた際に、ルシタニアのギスカール公からの密書を預かってまいりました」

淡々とした調子で「我々は、ミトを渡すよう要求されております」とナルサスが話し始めると、皆は息を呑んだ。
もちろん一番驚いているのはミトである。目を丸くして、開いた口から何も言えないでいた。

「え……わ、私を……?なぜ……!?」

ミトは皆の視線を受けて唖然としていた。確かに、ギスカールとはただならぬ関わりがあるのだが。しかし、こんな時にわざわざ寄越せと言ってくるのが突然には理解できなかった。

「理由はわかりません。それに、敗走した直後ですから、彼らが交渉に現れるかどうか保証はありませんが」
「ルシタニアは、タダでミトどのを渡せと仰せなのか?」

ギーヴがナルサスの横に行き、興味津々で書状を覗き込んでいた。ミトはどうすればいいかもわからず、緊張で目が泳ぐ。

「ルシタニア軍が新たに建設した地下水道の地図と交換する、という条件です」

一体どうしてこのような状況下でミトを欲しがるのか、と全員が訝しんでいた。しかも、戦略上の優位を捨てる用意までしてある。ミト自身も、自分が取引の対象になるとは夢にも思っていなかったので、目を瞬かせた。

「……ふーん。王都の地下水道なら、俺が案内できますけど。去年、脱出するときに通ったのでよければ」

あっさりと言ってのけたギーヴに、今度は視線が集まった。アルフリードが「はー、ギーヴってほんと役に立つよね」と感心すると、彼は「これはこれは、ありがたきお言葉。おっしゃるとおり、俺ほどの男は他におりますまい」と熱っぽく語っていた。

「ギーヴ、地下水道の侵入経路をあとで詳しく聞かせてくれぬか?」
「わかりました。……で、ミトのことはどうするんですか?軍師どの」

ミトはぎくりとして唾を飲み込んだ。まさか「引き渡す」なんて言わないとは思うけれど、急に不安な気持ちになってくる。ナルサスが沈黙する数秒が、かなり長く感じられて、その間心臓が軋むような音を立てていた。
不意に、ナルサスがこちらを向いて微笑んだ。「心配するな。ミトのことは誰にも渡さぬから」とさらりと言ってのけられて、ミトは頬を急激に赤くした。

「地下水道の情報は、あれば助かりますが、ミトと交換するほどのものではないと存じます」
「そ、そうでしょうか、侵入経路がわかれば、楽になるのでは……」
「おぬしがギスカール公のもとへ行きたいのなら、構わないが」

ナルサスにゆるりとかわされてしまい、ミトは眉を寄せた。そんなつもりではないことはわかっているくせに。別に、皆の前で「ミトは俺のものだから駄目だ」と言って欲しかったわけではないけれど。
黙って話を聞いていたアルスラーンは「ナルサスの言うとおり、ミトを渡してはならぬ。それに、ルシタニアは本当に交渉する気があるのだろうか」と生真面目に発言する。

「はい。ルシタニアが地下水道を建設したかどうかは怪しいところです。王都占領後の彼らにそんな余裕があったとは思えません。渡された地図が真に正しいのかといったことも判断しかねます。いずれにせよ我らの手に余るものかと存じます」

ナルサスはアルスラーンへそう進言した後、ちらっと横を見て「楽士どのの道案内の方がよほど信用できそうだ」と小さく笑っていた。

「しかし、どうしてミトが狙われるのだろうか……?」
「えっと……彼とは二ヶ月前に王都で話しただけですが、何か思うところがあったのでしょう……」

過去と現在で彼の生命を救ってきた、とは、さすがにミトもパルスの王子の前では口にできなかった。パルスが征服されたのは、ギスカールの力あってこそであり、彼こそが元凶といっても過言ではないのだから。
助けを求めるようにナルサスへ視線を向ける。彼は、ミトの能力やギスカールとの繋がりを説明するのもややこしいから、まだ黙っておこう、というような表情をしていた。
ふと、ミトは誰かの視線が痛いくらいに突き刺さるのを感じた。恐る恐る見てみると、そこにメルレインがいる。

「……」

そうだ、彼はミトとギスカールが一緒にいるところを見ていたのだ。無言で不機嫌そうにしているが、何かあったと勘違いしているかもしれない。野暮な勘違いならまだしも、敵と内通しているのでは、と不要な疑いをかけられるのは御免だった。

「ルシタニアの王弟殿下は、イアルダボートの神よりもミトにすがりたいのでしょうなぁ」
「え……」

ギーヴが、アルスラーンに向かってというよりも独り言のように呟いた。ミトは目を丸くする。「神さま、か……」と無意識に声に出ていた。

「イノケンティス王はタハミーネ王妃に夢中で、その王弟はまた別の異国娘に夢中、ね。やはり国を傾かせるのは魅力ある女性ですな」
「そんなんじゃないと思うけど……」

ミトはギーヴの言葉について、肯定も否定もできなかった。この期に及んで「ミトを渡せ」と言ってくるということは、彼は本当にミトのことを、窮地を救う神のような存在だと思っているのかもしれない。二度も奇跡じみた力で彼を救ってしまったし、まさに今、ルシタニア軍は負け続きで追い込まれつつある。

「……では、やはり交渉には応じないということでよいだろうか」
「はい。ルシタニアにミトは渡しません」

アルスラーンに言われ、ナルサスは穏やかに頷いた。それでミトも一度ホッとして胸を撫で下ろしたのだが、「ですが」という言葉が聞こえ、心臓がぎくりとする。

「少し利用させていただきます」
「……はい?」

パルスの軍師の顔には、微かに意地の悪い微笑みが浮かんでいた。

next
2/23



×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -