深い呼吸を繰り返すうちに、思考がクリアになり、うるさく胸を打ちつけていた心臓も落ち着いてきた。とはいえドキドキはちっともおさまらない。
目の前にいるのは、懐かしいように感じるが、いつものナルサスだった。

「えっと、ナルサス、変なこときくけど、いま何歳?」
「……二十六だ」
「じゃ、じゃあ……!」

やはり、今はパルス歴三二一年だ。戻ってきたのだ。ミトは思わず「よかった!ナルサス!」と叫んで身を乗り出した。動くと腹部に鋭い痛みが走ったが、この痛みこそが、ギランの街で襲われた時間軸に戻ってきたという証拠だと思った。

「ど、どうしよう、ナルサス。その……わたしの勘違いじゃなければ……待っててくれたんですか、わたしのこと」
「……!」

気持ちが溢れ出して、言葉が止まらなかった。期待と不安で胸が踊って、身体中が熱い。
彼は一瞬驚いたようだが、すぐにミトの言う意味がわかったようで、柔らかい笑顔になった。

「俺の予想だと、おぬしは、昔の俺に会ってきたということかな」
「……はい」

まじめに返事をすると、ナルサスは宵の空のような瞳にミトを映し、落ちかかっていた髪を片耳にかけた。相変わらず理解が早くて困る。というか、彼はいつかこうなることも予想していたのだろう。

「そうか。やっと俺に出会ってくれたか」
「……じゃあ、やっぱり……」
「おぬしの思っている通りだ。俺はずっとミトを探して……待っていた。この数ヵ月どころでなく、十年もな」

ミトにはつい先程のように感じられる日々が、彼にとっては十年も昔のことなのだ。それが理解できたとき、ミトは自分のいない時間のことを思って胸が苦しくなった。
彼が本当に十年も自分を待ってくれていたのだとしたら、今まで一体どんな気持ちだったのだろう。
王都エクバターナで彼に出会ったとき、その瞳にミトはどう映っていたのだろう。初めからずっと彼はミトのことを知っていたし、守ってくれていたのだ。ミトの気付かない間にも、ずっと、絶え間なく。

「わ、わたし、ナルサスに言いたいことがいろいろある……」

どうして自分はこの時間に戻ってこられたのか、とか、過去のナルサスに何も言わずに戻って来てしまったこととか、最後に見た不気味な景色のこととか、頭の中でごちゃごちゃしていた考えは一旦消え去り、目の前の人に集中するしかなくなっていた。
一人で軍を離れてから、再び会えたら彼に想いを伝えようと決めていた。いろいろと邪魔が入ったりもしたけれど、今ようやく落ち着いて話ができる。
しかし口を開こうとしたとき、ナルサスに止められてしまった。

「待てミト。俺に言わせてくれ。俺の方がミトに言いたいことが山ほどあるのだから」
「わ、わかりました……」

窓の外から聞こえる潮騒と、心臓の鼓動が一定のリズムを刻む。生きて、紛れも無く今ここで彼と共にいること自体が奇跡だと思えた。
どきどきしながら彼と目を合わせると、期待で震えてしまった。しかし同時に大きな不安も渦巻いていく。どこの誰ともわからない私でいいのだろうか。存在の安定しない私を、彼の世界の一部にしてもらえるのだろうか。

「どうしてそんな顔をする?やっとおぬしに会えたのに」
「う、うん」

泣きそうになっているミトを安心させるように、彼は優しく微笑んだ。そしてその唇が、ゆっくりと動きはじめる。

「俺は、あの日からずっとミトのことを探して、待っていた。俺はミトのことが好きだ。ずっと前から好きだったよ」

はっきりと言葉にされたとき、ミトは一瞬時が止まったように思った。
待ち望み、自分も同じように彼に伝えなければと焦っていた言葉が、耳の奥へ融けていき、身体中を駆け巡った。
心臓がうるさくてかなわない。大事なことも考えられないくらいに、ただ嬉しさで胸がいっぱいになった。

「……ほ、ほんとうですか?」
「冗談でこんなことを言うと思うか?それに、おぬしも自分の目で見てきただろう」

時間は飛び越えてしまったが、ミトの中にもしっかりと過去のナルサスの記憶があった。本当ならば、あの時に初めて彼に出会うはずなのに、どういうわけか順序が逆になっていた。それもこの世界に渡ってきてしまった影響なのか、理屈はわからないけれども。

「ミト」

名前を呼ばれて顔を上げると、彼は優しい笑みを浮かべて、ミトへ手を差し出していた。
その手の平は天に向けられ、ミトがそこへ同じものを重ねるのを待っているようだった。長く白い指に、胸が高鳴る。

「……」

だけど、この手をとったら、もうどこにも行けなくなるような気がした。
彼のことがいちばんに好きだ。その気持ちはかなり前から自覚していたけれど、いざとなると躊躇してしまう。彼と私は、果たして一緒に生きていてよいのだろうか。私はこの世界にいてもよいのだろうか。いつまでここにいられるのだろうか……。

「ミト」

しばらくの間、無言で戸惑っているミトを見てから、ナルサスはふっと表情をゆるめた。

「何を迷っているのかだいたい想像はつくが、まずはこの手を取ってくれぬか?」
「で、でも、取ったら……戻れませんよね?」

ミトの伸ばしかけた手が中途半端に空を彷徨っていた。本当に、何を迷っているのだろう、と可笑しくなってしまう。戻るつもりはないのに、彼の手を取れない理由もないのに、どうしても踏み出す勇気が出ない。

「おぬしはまだそんなことを言っているのか?とっくに離すつもりはないから安心しろ」
「え……」

笑われた、と思ったらもう手を掴まれていた。顔を赤くしている余裕もないまま、手をひかれて彼の胸に倒れこみ、身体が重なった。

「……!」

ぎゅっと抱きしめられると、心まで締め付けられる感覚がした。ただただ甘い刺激に身体が呑み込まれていく。まさか自分がこんなことになるなんて、一年前は――この世界へ渡る前は――想像もつかなかった。

「まだ痛むか?」
「い、痛くてもいいですけど……」
「すまぬ。俺が不覚をとったせいだな」

恥ずかしさで顔も上げられず、彼の胸に埋もれながら、背中にまわった腕のあたたかさを感じていた。彼の心臓の鼓動が肌につたわり、愚かしいほどに自分もどきどきしていた。あまりの嬉しさで怖くなりぎゅっと目を瞑る。熱くなって汗までかいてきた。しかし頭を撫でられると妙に落ち着いて、ぽーっと惚けてしまう。

「あの、ナルサス。私のことずっと前から好きだった……って言いました?」
「言った」
「な、なんか、変な感じ……。若い時のナルサスってなんか傍若無人って感じで、あんまり心開いてくれてなかった気がするけど」

幸福に浸ると頭の回転も鈍くなってしまうようだった。素直にそう漏らすと、彼は目を伏せて、静かに息を吐いた。

「……あの頃は、この世は俺一人でもなんとかなるし、すべて思い通りになると思い込んでいたからな」
「……今でもそうじゃないの?」
「そう見えるか?」
「だって、全部思い通りになってるし……」
「それはそうなるようにしているだけだ。俺一人で十分などという考えは、あの頃よりずっと落ち着いたんだが。それに、殿下やおぬしたちがいなかったら俺はここにはいないよ」

確かに昔の彼と比べたら丸くなったのかもしれない。かけがえのない仲間と出会えたことも影響しているようだ。彼の指が髪を優しく撫でる感触にどきどきしながら、そう思った。
しかし若いうちからあれだけ頭が切れて、非現実的な存在であるミトにも一切動じない度胸があれば、自分はなんでも出来ると思い込むだろう。彼らしくて少し笑ってしまう。

「ミトも、子どものときに見たおぬしは大人びて見えたが、実際はそうでもなかったな」

すると彼は仕返しのようにくつくつと笑った。「幻滅しました?」と尋ねれば、「いいや、俺の好きなミトのままだった」と返ってくる。やはり今の彼には敵わない。ミトは恥ずかしくなって顔を伏せた。

「それにしても、おぬしの『また会える』という言葉を十年も律儀に信じていたのだ。自分でも健気だと思うよ」
「うん……」

そう言われてミトは一瞬喜んだが、不意に違和感を覚えた。
あの時に、『また会える』なんて彼に言った記憶はないのだ。
奇妙な食い違いだった。ようやく安心できる場所に帰ってきたと思っていたのに、まだわからないことがある。はやく何も心配せず彼と笑い合えればいいのに。ミトは離れないように、ぎゅっと彼にしがみついた。

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