胸がざわつき、いやでも表情が曇ってしまう。それを悟ったのか、ナルサスはミトの髪を撫でるのを一旦止めた。

「……ミト、あの時、いつまでダイラムにいたかはっきり覚えているか?」
「へ?あ……」

どうして彼がそんなことを尋ねるのかわからなかったが、とりあえず思い出すことはできた。「八月に湖に行こうって話をしていたから……三一一年の七月末まではいたと思うけど……」と答えると、彼は少し沈黙してから「そうか。わかった」と呟いた。
何がわかったの、と訊こうとしたが、有無をいわさぬ様子でぎゅっと抱きしめられて、何も言えなくなってしまう。

もしかしたらまだ続きがあるのかもしれない。
ふとそう考えると、心は静かに澄み切っていく。
また意識が浮遊する。この身体はどこまでも曖昧だった。存在はうまく固定されていないみたいに、時の流れを行ったり来たりするし。自分は何者なのか知りたいと思っていたけれど、知れば知るほど、よくわからなくなった。
ここではない世界の人間だから、ということが、いくら彼に触れていても、どうしても頭から離れてくれなかった。

とにかくだ。イリーナやギスカールの場合とはまた違う感じがした。過去のナルサスは、まだ危機とよべるような事件に遭ってないし、ミトが妙なタイミングで戻ってきてしまったのは間違いない。

「そういえばナルサスは、どうしてこのことを言ってくれなかったんですか?」

思考が袋小路に入ったので、ミトは別の質問を投げかけた。ナルサスはやや身体を離して、ふう、と息を吐く。

「おぬしと過去に会っていたことをか?言ったところで信じなかっただろう。俺だけが一方的にミトを知っているなんて」
「まあ、私も自分で見てなかったら、信じられなかったと思いますけど……」
「それに、ミトはいずれ必ず俺と出会うと思っていたから、言う必要がなかった」

じっとみつめられると、顔が熱くなり、思わず視線をはずした。
すると、自分の腹部に巻かれた包帯が目に入る。これは、この世界に来てから傷を負わなくなった自分が受けた、ほとんど始めての損傷だった。不可解なことばかりが起きているのか、それとも現象に法則性があるのか。

「あの……実は、ナルサスの他にも、過去へ行けたことがあるんですけど、なんだと思います?この力」
「……」

自分一人で考えても仕方がないのでナルサスにも伝えようと口を開いたが、彼はめずらしく目を丸くして驚いていた。

「俺の他にも過去に行けた……?」
「は、はい。それが、二度あって……」

ミトは、アルスラーンたちのもとを離れている間に、イリーナとギスカールそれぞれの過去へ飛んでしまったことを説明した。タイミングから考えて、自分には命がけで守ろうとした人の過去に行ける、という力があるらしい。ナルサスの場合もそうだった、と言うと、彼は口元に手をあてて考え込んでしまった。

「……おぬしが敵に斬られることがないのと同じで、説明のしようがない。この世界に来たときに付与された力の一部なのか……」

とりあえずの感想を述べられ、ミトも彼の言葉に頷きはしたが、どうも腑に落ちなかった。
どうして、ナルサスを守ったときだけ斬られたんだろう。他の人を庇ったときは、傷ひとつ付けられなかったのに。
ナルサスだけが特別なのだ。彼の場合だけが、これまでの法則を逸脱している……。

「それよりミト。まだおぬしの返事を聞いていないのだが」
「はっ、えっ、えっと……」
「俺は、ミトのことが好きだが、ミトは?」

急に話を戻されて、ミトは視線を泳がせた。落ち着いたはずの脈がまた速くなる。潮の香りが窓から入り込み、彼の明るい髪が揺れた。
彼に見られると、こんなに慌ててしまう。心臓はうるさいし、顔も真っ赤だった。本当に素敵な人だと思う。彼に出会えて本当によかった。ずっとこのままでいられたら、どんなに幸せだろうか。
恐る恐る顔を上げると、穏やかな瞳と目が合った。どきどきと音を立てる鼓動、波が寄せては返す一定のさざめきを耳にしながら、ゆっくり口を開く。

「わ、私も、ナルサスのことが、好きです……。自分が何なのかはいまだにわからないけど、できれば、ナルサスとこの世界でずっと一緒に生きていたい。ずっと、傍にいたい……と、思ってるくらい、大好きです……」

恥ずかしさでだんだん声が小さくなり、最後はほとんど聞き取れないくらいだった。それでも彼は満足そうにふっと笑い、ミトの手をもう一度取る。

「ミトが誰でも、おぬしのことは俺が守るよ」

今度は、ミトの方が堪えきれず彼に抱きついていた。背にまわした手にぎゅっと力を込めると、あたたかな優しさが胸に染み渡る。
耳元で「ミト、好きだ」と囁かれると、甘やかな吐息でとろけそうになってしまった。抱かれていなかったら、じたばたともがきたくなるくらいの幸福感だった。どきどきに心臓が追いついていない。こんな世界があるなんて、知りもしなかった。彼が教えてくれたのだ。今いるこの場所を、彼を失いたくない、と心から思ってしまう。

「私も、ナルサスのこと守るから……」
「俺のことは守らなくてもいい」

埋めていた顔を上げると、額を撫でてそう言われる。いつの間にかじんわりと滲んだ自分の汗で、髪が肌にはりついていた。

「だが、おぬしのことは俺が命を賭けて守るよ」

ナルサスの笑顔は明るい。それなのにどこか寂しそうで、ミトは胸がぎゅっと締め付けられた。どうしてそんな顔で笑うのだろう。急に心配になり、身体が強張ってしまう。

「どうした?」

彼の真意が知りたくてじっと見ていたら、「昔の俺の方がよかったか?」とからかわれる。細めた目が艷やかで綺麗だった。甘さに慣れていないせいか、また、顔が熱くなった。

「いや、どっちも好きですから……」
「俺は寂しかったんだろうな。ミトが来てくれて嬉しかった。……たとえ俺がミトの生活を奪ったのだとしても」

包み込むように髪を撫でられて、ミトはその甘やかな感触に身を任せた。これからどうなろうとも、今だけは夢を見させて欲しい。彼との世界がずっと続けばいい。ここへ来たのは彼に会うためで、彼とこうなるためだったのだと、思わせて欲しい。
肌に触れるだけでも、あまりの幸せに、涙の膜が目を覆った。きらきらと輝く海面の光が、部屋の壁を波打たせる。この人を守って、彼らの故郷を取り戻したら、どうしたらこの世界に居続けられるのか、その方法を探そう。もうどこにも戻らなくてもいい。ここにいられるならば、他の何を失っても構わないと思う。



七月末。パルスの王太子アルスラーンはエクバターナへの征旅を宣言。港町ギランから王都奪還へ向けて進軍を開始した。
ルシタニアに支配された都には、この時、アンドラゴラス、ヒルメス、アルスラーンの勢力がそれぞれ別方向から集結しつつあった。決戦の日が近付き、歴史が動き出すのを誰もが感じていた。

10/10



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