それからさらに数日が経ってしまった。ミトは一日の大半をナルサスとともに過ごす日が続いている。
ダイラム領主である彼の父は、王都へ呼び寄せられており、偶然にも不在だった。だからナルサスはみだりに外へ出て行かず、家を守るのだとかなんとか家人たちに言って誤魔化していた。
ナルサスの母は領主の妾に過ぎなかったが、ナルサスの他に十人ほどいた領主の子どもはみな娘だった。それで正妻が亡くなると、跡継ぎは彼に、ということになったようだ。そのような事情もあり、彼は庶子ではあるが領主にとって大事な後継者だったから、むしろこうした行動は歓迎されたようだ。外を出歩かれるよりは、家にいてくれた方が家人たちも安心するのだろう。

彼の部屋でこっそり食事をとり、湯浴みも深夜に連れていってもらっていたのだが、一体この生活もいつまで続くのだろうか、とミトは日に日に心もとなさが募っていく。
この世界に来てからずっと激動の日ばかりだったので、停滞することが不意に怖くなるのだ。
緊張も緩み出し、窓の近くでぽーっとしながら陽光を浴びていると、時間の流れがよりいっそう遅く感じられた。


「ナルサス、天気いいけど、出かけなくていいの?」

やわらかな日差しが照らす彼の後ろ姿を見ながら、ミトはぼんやりとした声を出した。

「ミトに言われたから外へ出ないようにしているのに、おぬしは俺にどこかへ行って欲しいのかどこにも行って欲しくないのかどっちなんだ」

振り返った彼の髪は一瞬金色に輝き、知性にあふれた横顔が覗く。呆れたように言われるものの、彼の言葉にはやわらかい響きがあった。
ミトは手をのばして彼の服を掴んだ。陽だまりの中、雪のように融けてしまいそうな錯覚を覚えたのだ。

「どこにも行かないで欲しいです」

その言葉にはいろいろな意味が含まれていたけれど、すべてが伝わる必要はないと思っていた。とはいえ彼には何もかも見抜かれてしまうのかもしれない。それも心地いいのだが。
そんなことを思いながら、ミトは停滞を打ち破りたいという好奇心から「ねえ、ナルサスって彼女とかいないの?っていうか恋人?婚約した人とか」と尋ねてみた。

「どうしてそんなことを聞く」

ナルサスが、一瞬だけひるんだような表情をしたのが嬉しくてミトは口元を緩めた。

「好きな人とかいないのかな、って思って」
「いや、四六時中おぬしと一緒にいるのにどうしてそういうことを聞く必要があるのかと言っているんだ」
「は、そ、そうですね……」

あっさりとやり返されて、ミトは伸ばしていた手を引っ込める。
そういえばここ数日の間ナルサスを独占していたのだと気付いて、今更になって身震いした。こんな幸福、二度とないのではないか。あまりにも贅沢な日々だったから、これを最後に彼に会えなくなるのではないかという気もし始めた。

「ミト、いつまでここにいてくれる?」
「え?えっと……」

考え込んでいると、いつの間にか顔だけでなく身体全体をこちらに向けた彼が、薄紫色の瞳で覗き込んできた。ミトは「私にもわからない……」と自信なく答えるしかなかった。これからどうなるか本当にわからなくなってきてしまっていたから。

「もしも、だけど、ずっといてもいいの……?」

恐る恐る問いかけるが、彼の顔を見る勇気はなかった。
しばらく返事がなく沈黙になってしまい、なんと取り繕おうかとあわてて考え出すと、「ミト」と名前を呼ばれて反射的に視線を上げた。

「ミト。八月になったら湖を見に行こう」
「え……あ、うん」

今は七月末だからそう先のことではないが、別に明日でもいいじゃないか、とミトは首を傾げる。

「なんで八月?」
「景色が描きたい色になるまで待っているのだ」
「湖の絵を描くの……?」
「そうだ」

ミトは広大なダルバンド内海を囲む木々を想像し、その緑がより深くなるさまに思いを馳せた。
確かに見事な景色には違いないかもしれないが、それを彼が絵に描くとなると話は別だ。
あまり目に触れないようにしていたけれど、隣の部屋にいくつも画布が置かれているのはミトも知っていた。またあの壊滅的な才能で描かれた絵が増えると思うと目眩がしてきたが、先のことを約束してくれる彼の言葉は素直に嬉しい。

「いいよ。いいけど……」

それなのに、ミトはまた息苦しさで眉を寄せた。
いいけど、ずっとこのままでいいのだろうか?
このまま十年前の見知らぬ地で彼とともに生きていくことになるのだろうか。
いや、戻らなければ。少なくとももとの時間には。

「でも」と、逡巡する思考の中で一際大きな声が叫んだ。
「じゃあ、もとの世界には、一生戻らなくていいのか?」と。

目眩は、彼の絵画のことを考えただけで起きたわけではないようだった。頭の中でこれまで抑圧してきた自分の声ががんがんと鐘のように鳴り響いている。
やわらかい日差しが急速に雲で遮られ、ひやりとした空気が流れ込んできた。
自分の気分にあわせて変わる天候とは、なんとなく嫌だな、と顔をあげたとき、ミトの心臓はどくんと一つ大きな呼吸をした。

大きく開いた窓の外、木の枝に、鳥のようなモノがとまっている。

先ほどまで何もいなかったのに、影のように、突然音もなく現れたのだ。
それは身体も翼――のように見えるもの――も真っ黒に塗りつぶされていて、底のない闇を見ている気分だった。輪郭だけが仮面のようなもので縁取られ、ぼうっと月のように白く浮かび上がっている。目があるべき場所も、闇だった。しかしそれはこちらを覗き込んでいる。

「な、なに、あの不気味な鳥……」

喉を動かしてやっと唾を飲み込んだとき、ミトは腹部に痛みを感じた。ふと視線を向けると、ぎくりとして、また息が止まりそうになった。

じわりと滲むように、そこが真っ赤に染まっていたのだ。
ギランの街で刺されたのと同じ箇所だった。あかあかとした血がどんどん布を侵食していく。
でも、あれはもとの時間での出来事だ。どうして?ここへ来たときに確かめたら、傷はなくなっていたはずなのに。

「ミト?どうした、ミト!」

目の前に好きな人がいようと、不気味な鳥に覗かれていようと、血が滲んでこようと、もう何も考えられない。
視界が歪み、頭が割れそうなほど痛かった。身体だけでなく意識も千切れていく。



***



再び視界がひらけたとき、予期せぬ景色に、叫びそうになってしまった。

パルス軍の軍師たる人のその顔が、睫毛が触れそうなほど傍にあったのだ。
驚いて見開かれた目と目が合う。
次の瞬間、彼はざざっとのけぞったと思ったら、音を立てて椅子から崩れ落ちていた。

「な、何してんの……びっくりした……」

呻きながらミトが身体を起こすと、部屋全体が見渡せて、自分は寝台に寝かされていたのだとわかった。
真っ白なシーツには、血の跡など何処にもない。窓からは――湖ではなく――正真正銘の海が見える。
その潮風を横顔に受けながら、ミトは床から立ち上がるその人を見た。
明るい髪に、余裕ある微笑みが印象的な彼の顔から、いまは余裕さが消えていた。

「急に起きたから驚いたではないか……」
「ナルサス……な、何してたんですか……?」

夢見心地でまだ事態が呑み込めておらず、本当に訊かねばならないことは頭に浮かばなかった。とにかく、ミトに顔を寄せて彼は一体何をしていたのか、ということがまずわからない。
彼は椅子へかけなおすと、照れたようにやや視線を外した。その仕草が、いつも「想定通りだ」と不敵に笑う彼とは違って新鮮で、ミトは口元が緩みかけるのをあわてて引き結ぶ。

「いや、こうしたら、おぬしが目覚めるのではないかと思って」
「は……?」

そう言って口元を覆う彼の様子に、頭の回転が鈍くなっているミトでもさすがに気付かぬわけにはいられなかった。
瞬間、顔がかっと熱くなって、目が潤む。
起きたら目の前に彼がいたということはそういうことなんだろうけれど、でも、まさか。眠り姫は王子のキスで目覚めたとかそんな童話はミトも知っているが、同じモチーフがこのパルス世界にあるのだろうか。いやいやそれよりも、とにかくいろいろなことに整理が追いつかない。急に動き出した心臓が痛いくらいに胸を打っていた。

「えっ、えっと……も、もう、したってこと?」
「……する前に目覚めた」
「は、はは……」

考えがまとまらず、顔も熱いしショート寸前だった。もっと他に訊くことがあったはず、と一つ一つ深呼吸しながら思い出していったが、ますます混乱するばかりだった。

今は一体いつの時代で、ここは何処になのかを確認しなければ。
さっきまで見ていたものは白昼夢ではないはずだから、彼にも話さなければ。
なんで今そんなことしてたの?なんて質問は、ひとまず後回しにしないといけない。心が溶けてもうどうにかなってしまいそうなのだ。

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