ミトが過去に現れてから三日が経っていた。
相変わらず家人にも秘密のままナルサスの部屋にいるわけなのだが、ぐったりとクッションにもたれると、膝の上にのせていた書物がこぼれ落ちた。これまで同じ体験を二度したが、いずれも、数時間と経たずにもとの時間に戻っていた。
天井を仰ぎ見て、ぼうっと口を開ける。もう戻れないのだろうか。これからどうなるのだろうか。悩みは増すだけだった。
そもそもどうしてこんなことになっている?集中力の切れたミトは立ち上がって本棚の方へ歩いていった。目の高さにある書物を手に取りながら、起点となった出来事を思い出していく。

そういえば、ギランの町でナルサスをかばったとき、自分は刺されていた。
ふと記憶が蘇り、ミトの手から書物が滑り落ちた。そうだ、どうして忘れていたんだろう。
この世界に来てから今まで、敵にまともに斬られたことなんてなかったから、あの出来事は異様だった。過去のナルサスのもとにきて数日が経過していることも、同じ。ミトの持つ力に法則があるとすれば、今回は明らかにそれを逸脱しているのだ。

なかったことになっているかのように傷は消えているが、ギランで刺された痛みを思い出して気分が悪くなってきた。不安に襲われ、呼吸が早くなる。
もとの、ナルサスやアルスラーンたちのいる時間に戻らなければ、とは思っているが、そもそも、それより前の起源が自分にはあった。パルスではない、自分が本当にいた世界のことだ。
そこへは一体どうやったら戻れる?どこが自分の終着点なんだろう。自分が流れ着くのは、この世界ですらないなのだろうか――

「何をぼうっとしているのだ」
「あ……ナルサス」

本棚と向い合ってじっとしていたミトの背に、ナルサスが声をかけた。
緊張がほどけていったのが自分でもわかった。まだ、彼が一緒にいてくれるからよかった、とほっとする。

「な、なんでもないよ。部屋から出してくれないし戻れもしないからちょっと退屈で……」
「戻るとは何処へ?」

迂闊な発言をすぐに掬われてしまって、ミトは苦笑いした。本当に、彼は昔から変わっていない。

「……ナルサスは私にほとんど何も訊かずにここにおいてくれているけど、気にならないの?」
「しばらく様子を見ようと思って放っておいたが、仔細に訊いてほしいのか?」

陽光を背にこちらへ向かってくる彼の顔に陰が落ちている。ミトはややたじろいだ。

「い、いや、別に……自分でもよくわからないから話せることはそんなにないし」
「ほう。まあ、おぬしのことに興味があるわけではないが、所有者としては知りたいとは思うよ」
「所有者って、ナルサスがわたしを所有してるって言ってるの?」
「そうだが。食事も寝床も与えてやっているのだからな」
「むっ……」

ミトは唇を引き結び、細められた彼の薄紫の瞳を見返した。彼から目を離せないから他所へも行けず、結局なにもかも彼に頼るしかないのだから、反論の言葉はない。しかし、若かりし日の彼は随分と不遜な人だ。
そんな彼は、ミトがここにいることを拒絶してはいなかった。あるいは監視しているのかもしれないけど。
ただ、時間が経てば経つほど、ミトも焦っていた。いつ戻れるかわからない、いつまでこうしてるんだろう、戻らなくちゃいけないのに、彼を守らなくちゃいけないのに、と。

「それで、おぬしは俺にどうして欲しい?」

距離を縮められたので思わず後ずさると、肩が本棚にぶつかった。覗き込むような彼の表情を見て、はっ、と息が詰まる。やや伏せられた瞼がふしぎなあやしさを放ち、長い髪は悩ましげに顔の片側にかかって揺れていた。
どうして若い時からこんな表情ができるのだ、とミトは悔しくなってしまった。
でも過去の姿とはいえナルサス本人には違いないのだから、身体が反応してしまうのも無理はないかもしれない。

「こ、こういうことはもっと大人になってからやりなさい」
「何を言っているのだ、ミト」

やっとの思いで彼の胸を押して逃げ出そうとしたが、余裕の微笑みを返され、その手はすぐに掴まれる。

「こっちへ、ここへ座れ」
「はっ、はい……」

引かれるがままに足を動かして、結局、窓の前で向き合って座らされてしまった。
自分よりも若い青年にいいようにされているのだが、彼のふしぎな魅力を持つ瞳の前では、射竦められたように身動きがとれなくなって、どうにもならなかった。見つめられるだけで、心まで囚われてしまう。
やわらかな陽光が差し、クッションには乾いたあたたかさがこもっていた。彼の髪は光に融けてぼんやりと輝いている。

「ミトが現れてから、おぬしのことについてずっと考えていたのだが。おぬしの言う通り、いくつか訊きたいことがあるから答えてくれるだろうか」

まっすぐに見つめてそう言われ、ミトはなんとなくほっとしたような気持ちになった。
すべてを打ち明けるわけにはいかないが、本当は彼にかたちだけでも自分のことを尋ねて欲しかったのだ。

「おぬし、なぜここに来たのか理由はわかっているか?」
「……わかってる、と思うんだけど、確証はないです……」
「では、いつかおぬしの世界とやらへ戻るのか?」
「うん。私がここへきた目的を果たしたら、戻ると思う」
「それはいつ起こる?」
「……それが私もわからない」

まあ、自分でも何が起きているかわからないのだから、話せることはほとんどないのだが。
ナルサスは一息つくと、「もう一度聞くが、おぬしがここへ来た目的は?」と問いかけた。
少し黙って、ミトは言葉を整理していた。おそらく、この時期のナルサスにいずれ命を落とす危険のある災いがふりかかるから、それを除くために自分はここへ来たのだと思う。でもナルサス自身に「そのうち死ぬかもしれないから」と伝えるのは憚られた。ミトはまだ若い瞳をじっと見つめて、口を開く。

「ここに来たのは、ナルサスを守るためだと思う」
「……わかった」
「え?」
「おぬしは何もわかっていないということがよくわかったよ」
「……え!?今のどういう意味……ちょっと、ナルサスは何かわかって……!?」

立ち上がりミトの視界から消えた彼をあわてて目で追う。すると、目の前にどさどさと大量の書物が降ってきた。

「それを翻訳しておいてほしいのだが。おぬし、異国の言葉がわかるのであろう?」
「え……」

話を逸らされた、ということは、彼にも触れたくないことがあるのかもしれない。ミトの出現になにか関係のあることだろうか。
胸の中に得体のしれない不安がざわざわと広がっていく。知りたいと思うが、知るのが怖かった。なんにせよ、意外と強情な彼のことだから、追求しても無駄だろう。ミトは苦し紛れに「どうしてそんなことわかるの?」と彼の目を見ずに訊く。

「ずっと見ていたからわかるよ」

優しい声色に、涙が出そうになってしまった。いつだって彼はミトにやさしい。
どうして自分ばかりこんなめまぐるしく世界を流れていくのだろう、と荒む心は、彼と一緒にいるときだけ穏やかになった。彼の傍にいられるのならば、この奇妙な共同生活がずっと続いてくれてもいいのではあるまいか。湖の潮騒が遠くかすかに聞こえていた。

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