次に目を開けたとき、あれから数秒しか経っていないのか、それとも一年くらいが過ぎたのか、ミトにはよくわからなかった。
身体に感覚が戻らず、鈍く重い。日の光が直接目に入って、眩しさに思わず睫毛を伏せる。自分は、どうやら床の上に転がっているようだった。身を捩ると、少しだけ骨が軋む。
起き上がろうと手を付くと、乾いた絵の具のようなものに触れた。自分の体の下へ視線を向けると、いくつもの図形、文字、記号が整然と描かれ、それが大きな円になっているようだった。不可思議な光景がぼやけた網膜に映し出されているが、状況がうまく飲み込めずに瞬きを繰り返した。
そうだ、そんなことよりも、と視線を上げる。
ミトは目の前で膝をついている青年に気付いて、あわてて彼の肩を掴んだ。

「あっ、ナルサス!!だ、だいじょうぶ!?」

だんだんと記憶が蘇り、ギランの町で海賊と名乗る者たちに襲われたことを思い出したのだ。
必死に見つめた彼の身体にはとくに怪我もなさそうなので、ほっと胸を撫で下ろそうとしたときに、妙な違和感に眉を顰めた。
――いや、ギランじゃない。ここは一体何処だ?それに、どうして彼は驚いた顔をして……。

「……お、おぬしは誰だ?」

ナルサスは、目を見開いて言う。いまにも逃げ出しそうな体勢で、薄紫の瞳にミトを映していた。

「え?わ、わたし、ミトだけど……」

呆然としながらミトは名乗るが、彼はその名に聞き覚えがない様子で表情を崩さなかった。
動揺がミトにも伝わって、疑問で頭がいっぱいになる。彼の肩へと伸ばしていた手をゆっくりと戻し、もう一度、その顔を覗き込む。
目の前にいるのは、確かにナルサスに違いないのだが。
――でも、なんか違う……もしかして、少しだけ若い?ま、まさか。

自分の中でこの違和感に答えが出ると、ミトは思わず立ち上がった。
ここで会うのはまずい、というか、今の状況でナルサスに捕まってしまったら、一から十まで説明をするはめになるだろうし、もしそんなことをしたら過去や未来に矛盾が起きてしまうのではないか、と思ったのだ。
とりあえず逃げようと部屋をぐるりと見渡すが、出入口は扉一つしかないようだった。傍にあった大きな窓から下を覗くが、かなりの高さで飛び降りられそうにない。

「おぬし、そこから動くな。俺が禁止と言ったら禁止だからな」

声をかけられて振り返ると、ナルサスがミトの方を指差して鋭く言いながら、床に敷いてあった羊皮紙を足でぐしゃぐしゃと部屋の隅へ寄せていた。描かれていた記号や文字が歪んで汚れてしまっている。

「おぬし、名前は?」

立ち上がった彼を見ると、ミトのよく知るナルサスよりも少し背が低いことに気が付いた。どこか不遜な態度も、若さゆえだと思えば説明が付く。

「えっと、ミトといいますけど……」
「いいか、勝手に部屋から出るなよ」

それだけ言うと、彼は扉に手をかけた。ミトを残してどこかに行くのだろうか。ふと不安になったミトが「あ、ど、どこ行くの?」と問いかけると、彼は口の端を吊り上げた。

「庭であやしい人物をみかけたから念のため門を固く閉ざすように、と伝えてくるだけだ。だから逃げても無駄だぞ」
「ちょ……別に私は逃げたりなんか……!」

ぱたん、と扉が閉められると、さっきまでばたばた騒がしかった部屋の中に静寂が満ちた。



「……さすがナルサスというか、ほとんど驚きもしないで先に私の逃げ道断つって、どういう神経なのよ」

後に稀代の軍師となる人ともなれば、若いうちから常に先手を打つことに長けているというのも想像に難くないが、彼はミトが突然現れることすら予想していたのだろうか。ミトは深く息を吐いて落ち着きを取り戻すと、もう一度部屋を見回した。
壁際の棚は書物に埋め尽くされ、この部屋の音をすべて吸い取ってしまうかのように静かに佇んでいた。足元は美しい模様の絨毯が覆い、色鮮やかなクッションが敷かれ、天上からは星粒のような飾りが垂れ下がっている。

「ここ……やっぱりダイラムのナルサスの部屋だ……」

少し前の記憶が脳を刺激する。軍を離れ、ひとりでダイラム地方へ向かい、彼の屋敷を訪れたときのこと。今見ているものと、まったく同じ光景が、そこにあったのだ。
床に散らばった書簡を拾い上げると、「311年」などと書かれていた。
ミトがいたのは、パルス歴321年だったはずである。

「そっか……やっぱり……私、ナルサスにも会ってたんだ」

部屋の中でひとりきり、ぼうっと立ち尽くしてミトは呟いた。曖昧な予感、憂いが的中してしまったのだとわかった。やっぱり、と繰り返す。彼との出会いや交わした会話について、ゆっくりと記憶に触れていく。堰を切ったように頭のなかに溢れ出す光景は、脆く淡い。

「10年も前に会っていたから、だから私のこと拾ってくれたんだよね?薄々そうじゃないかと思ってたけど……じゃなきゃ、見ず知らずの人にあんなに優しくなんてしないものね」

彼に初めて会ったときは、この世界にやって来たばかりで、右も左もわからなかった。彼は、自らの存在について上手く説明もできない怪しげな女を救い、居場所をくれた。初対面のようなふりをしていたけれど、本当は一度会ったことがあるから、という理由で、だったんだろうか。

しかし、イリーナやギスカールを守ったときに体験したことと同じ現象が今起きているのはほぼ間違いなかった。そして、ギスカールがミトのことを覚えていたように、ナルサスも、本当はミトと出会ったことを覚えているはずなのだ。

「なんで、私ともう出会ってた、って言ってくれなかったんだろう……」

雲が流れ、一瞬日が陰る。ざわり、と不安が心臓を撫でた。彼がこの事実を隠す理由も必要性もわからないのだ。もしも「ミトには恐らく過去に行ける力があり、俺とも会ったことがある」と言ってくれていれば、こんなに混乱することも、自分が何者なのかと思い悩むこともなかったかもしれないのに。
だが今は。彼が教えてくれないのならば自力で考えねばならない。

「これまでの傾向からして、誰かを守ろうとするとその人の過去に遡ってしまって、過去の危機からもその人を救える……みたいな力が私にはあるみたいだけど。ってことは……ここのナルサスもこれから誰かに殺されかけるのか……」

呟いた後で、ぶるりと身体が震えた。彼を必ず助ける運命にあるからここへ来ている?それとも彼を救えるか救えないかはミトに委ねられているとしたら。

「な、何があっても、守らなきゃ、ぜったい……」

覚悟を決めて、ぎゅっと固く目を瞑ると、扉の向こうに足音が聞こえた。ナルサスが戻ってきたのだろう。

やがて扉が開くと彼が現れた。16歳のナルサス。これから殺されるかもしれない彼を瞳に映すと、ミトはすぐに駆け寄ってナルサスの腕を掴んだ。いつもより背の低い彼の驚く顔が、目の前にあった。

「ナルサス、お願いがあるんだけど」
「なっ、なんだ。というか、どこで俺の名を……」
「今日だけでいいから、どこにも行かないで。それかどこかへ行くときは必ず私を連れていって」

必死にそう伝えると、逃げ腰だった彼もミトの真剣さに打たれたのか、振り払おうとしていた腕の力を緩めた。
もしかしたら、彼に出会っていなかったとしても、エクバターナでミトを救い出してくれたかもしれない、と密かに思う。別に思い上がりではなく、彼の優しさに触れてそう思っただけ。

「……わかった。今日は一日屋敷にいてやろう」

ナルサスは素っ気なく言って、掴まれた腕をそのままに部屋の中へと歩き出す。ミトも引かれるように足を進めた。彼は窓際に座り、ミトにも隣に腰を下ろすように促す。
太陽を隠していた雲はいつの間にか流れ、また柔らかい光が彼の髪と肩に差していた。薄い色の髪の上で、星屑のようにきらきらと金色に光る。自分よりも若い少年に「綺麗」だなんて感想を抱いてしまい、ミトは頭を振った。

「まあ、まずはおぬしがどこから来たのか聞こうか」

いまだに掴んだままだった腕からミトの手をぱっと払いのけ、ナルサスは溜息をついた。すでに彼の頭の中では何通りもの答えが予想されていて、これから言うミトの答えも想定済みなんだろうなと思うと、少しだけ悔しくなる。

「……私は、この国、いえ、この世界とは別のところから来ました」

彼にはじめて会ったときと同じ言葉を口にする。じわ、と記憶が蘇り、目頭が熱くなった。
あのときから始まったと自分は思っていたけれど、ナルサスにとってはもっと前から始まっていたんだ。
想いの丈の食い違いが歯痒い。ずっと自分だけが知らずにいたなんて、こんな大事なことを言ってくれなかったなんて。

「なるほど別の世界からか」

ナルサスの反応は予想通りというか。ほとんど驚きもせずに、顎に手をかけて考え込むような仕草をとった。

「なにか心当たりがあったりする?」

稀代の軍師には太刀打ちできないけど、昔の彼ならばまだ付け入る隙があるかもしれない、と思ったミトの言葉は無視されて、「ということは、ここへ来たのはおぬしの意思ではないのかな」とナルサスは続けた。

「え?う、うん。もともとは……居眠りしていて起きたら勝手にこの世界に……」
「……そうか」

それっきり会話は途絶えた。たぶん、そのうちすぐにミトは消えるのだろうとお互いに思っていたからだろうか。頭も勘も良い彼が気付かない理由もなかった。
しかしどういうわけか、何かわかっているふうではあるのに、26歳のナルサスと同じで、彼はミトには何も教えてくれなかった。

next
5/10



×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -