「ミトどの〜!す、すまぬ、おぬしがまさかあれほど悲しむとは俺も思わず……水を差してすまなかった。きっちり償わせていただきたいのだが、今宵、俺の部屋でいかがだろうか?」
広間に戻ると、凄い勢いでギーヴに駆け寄られた。
謝っているのに美少年風の表情で妙な台詞を言ってみせたりとあまり反省の色が見えなくて、それがいかにもギーヴらしくてミトは苦笑してしまった。
「別にいいよ。本当のことだったし」
それに、意図せずすぐにナルサスと二人きりにもなれたし、とミトは心の中で呟いた。
そんなことを考えていたのに、「悪いなあミトどの。実は少し嫉妬してしまった」と急にギーヴに低い声で囁かれて、ドキッとさせられてしまった。黙っていれば月のように綺麗な瞳がまっすぐこちらに向けられていた。
しかしすぐにナルサスに手を引かれて、広間のソファに座らされる。ギーヴとの間に距離ができると、彼は残念そうに半笑いで肩を竦めていた。
ようやく、といった調子で座した面々を見渡し「では、皆揃ったところで話を……」とアルスラーンが口を開いたところで、「ああ、えっ、兄者!?」とまた突然声が響いて中断された。
「アルフリード。お前どこで何していた、探したんだぞ」
出掛けていたアルフリードがやっと帰ってきたのだが、彼女も広間へ入るなり、自分の兄をみつけて驚いたようだった。まさか自分を追ってくるとは思っていなかったのだろう。
「話すことなんかないよ」と逃げようとする彼女を無理やり座らせて、やっと一同が会することとなった。
こうしてこれまでの情報交換が行われ、お互いのいない間の時間が共有された。
ちなみにメルレインは、父親の遺言どおりに、アルフリードへゾット族の族長就任を頼んだが、結局彼女はまだアルスラーン……というかナルサスのもとにくっついていたいようで、それを拒否した。
メルレインは妹をひきずってでもゾット族の村へ戻らせることが目的だったのだが、彼女は譲らなかった。「とにかく王都から侵略者を追い出してからのことでいいじゃない、兄貴」と言って聞かず、妹ひとりを残して帰るわけにもいかないメルレインは付き合わざるをえなくなってしまった。
「ところでさ、兄貴、ミトと何日も旅をしてたんだろ?その間に何もなかったのかい」
話題を変えようと不意にアルフリードが発した言葉に、場の空気が一瞬固まった。
ミトの方は、彼と二人で戻ってきたら確実に何かつっこまれるだろうと予想していたので「べ、別に何もないよ。アルフリードだってこの人がどれだけ無愛想か知ってるでしょ」と返し、メルレインはそのとおりにむっつりとした表情でいたのだが、口から出た言葉は意外なものだった。
「やましいことがいくつかあったと思うが」
「え、ええ?な、なにがあったのさ」
アルフリードは予想外の兄の答えに驚いていたが、ミトもそれ以上に驚いてぱくぱくと口を動かしたまま何も言えずにいた。他の面々も興味津々といった様子でミトたちを見ている。
「ちょ、ちょっとメルレイン、そんなの、何かあったっけ?」
「ここで言ってもいいのか?」
「え……いや、やめておいて」
やましいことなんかないはずなのに、メルレインは不敵な笑みを浮かべて平然と言ってのけていた。念のため確認しようとしたが、皆もいる場で余計なことを言われるのも困る。黙らせておこうと思っても、それはそれで怪しいような気もする。
「へえ〜、兄貴とミトがねえ。まあいいんじゃない?その子ちょっと変な子だけどさ」
「違うってば、アルフリード」
とにかくこの話題はもう墓穴を掘るだけだったので、ミトはひたすら誤魔化してうやむやにした。
先ほどミトのいない間に妓館へ行っていたナルサスのことであれだけ騒いでしまったので、どうにも居心地が悪くなって彼からはずっと視線を逸らしていた。
話はあれこれ飛んだが、結局のところ、ミトとメルレインが王都エクバターナで見てきたルシタニアについての情報が一番の話題となった。
ルシタニア上層部は、アルスラーンたちの想像よりもずっと混乱していたのである。
王弟は国王殺害を企てていたし、銀仮面卿ことヒルメスはついにルシタニアに反旗をひるがえし、兵を引き連れて単独行動をとっている。
ルシタニア軍がエクバターナを占拠してから半年以上が経ち、時期的にも、長い遠征に不平を言う兵士が出始めたり、軍の内情が複雑になってくる頃合いだった。ギスカールは有能な指導者であることは事実だが、実際、ルシタニアで彼の他に政治に秀でた人物の名前は聞こえず、彼一人が執りしきっているような節もあり、限界が近いのかもしれない。
「ルシタニア軍二十数万といえど、その実勢は衰えていると見てよろしいかと存じます」
ナルサスが表情をあらためて述べると、ふたたび挙兵する日が近付いたことを全員が認識した。
アンドラゴラス、ヒルメス、アルスラーンの三者はともにエクバターナ奪還を目指しているものの、互いに相容れず別々のやり方でしかそこへ到達できない。いずれ、エクバターナで相まみえるのだろうが、その時にどうなってしまうのか、ミトは想像もできなかった。
あわただしく行われた情報交換が済むと、それぞれ席を立ってばらばらに散りはじめた。
ギランの街は王都からもルシタニアからも遠く穏やかな平和が続いていたので、彼らも最近は自由行動がほどんどのようだった。
ミトはまずメルレインの発言を諌めるべく立ち上がった。そして、妹となにやら話し始めようとしていた彼の背中に向かって名前を口にしかけた時。
「メルレ……んっ」
しかし、その口は後ろから伸びてきた誰かの手で塞がれてしまって、最後まで声が出なかった。代わりに頭の上から声が降ってくる。
「おぬしはこっちだ。俺に少し付き合ってもらうぞ」
手をほどかせて振り返ると、ナルサスがいたずらっぽい微笑みを浮かべていた。どきりと心臓が音を立てて、思わず顔が熱くなってしまう。
「軍師命令だからおぬしに拒否権はない。いいな?」
「もう軍を離れてるんだから軍師じゃないでしょ……」
***
「ここにいてもどうせ誰かに邪魔されるし、ギランの街でも案内するよ」
ナルサスに連れられ、ふたりは街へ降りた。商人街を通り、港へと続く道を歩く。
港町は、ギランの豊かさを謳歌するたくさんの人間の顔で溢れ、賑やかだった。
「ところでミト。先ほどの話の続きだが……」
街の説明などをしながら歩いていたナルサスがふと声のトーンを変えた。少しぎくりとしてミトが隣にいる彼を見上げると、威圧に近いような笑顔と目が合った。
「俺と離れている間に、他に若い男を捕まえていたとはな」
「いや、べ、別に捕まえてませんし、メルレインと一緒にいたのは完全に成り行きなんです」
彼にそのつもりはないかもしれないが、咎められるような気持ちになり、ミトは少し顔を背けた。
「……やましいことがあったとか?」
「ありません!メルレインが冗談で言ってるだけです。何かするわけないじゃないですか」
それでも追求されるので、一生懸命にぶんぶん首を振ったら、彼は体ごとミトに向き直って少し屈んで視線を合わせた。そして「そうだな。何かあっては困るよ」とどこか安堵するような複雑な表情を見せたので、ミトの胸がぎゅっとしめつけられて、また何も言えなくなってしまった。
「ダイラムでクバード卿とも会ったと聞いたが」
「あ……クバードさんと会えたんですか」
「ああ。今はアンドラゴラス陛下のもとにいるが」
「そっか、ならよかった。あの人にはお世話になったから、安心しました」
豪胆な彼のことを思い出してしばし物思いにふけっていると、ナルサスが妙に真剣な顔付きをしていることに気が付いた。じいっとミトのことを見つめて、なにやら思案しているようだった。
ミトは彼に見つめられていることが急に恥ずかしくなって、視線を合わせられず、目を泳がせた。すると、ナルサスの咳払いがひとつ聞こえる。
「もうよいか?」
「え?何が……」
戸惑っていると、腕をひかれたのでそのまま彼に着いて行く。
向かったのは、大通りから外れた、人気のない裏通りだった。さっきまで賑やかで他人の声が嫌でも耳に入っていたのに、途端にしんとした空気になり、自分の心臓の鼓動が聞こえ出す。
「おぬしが出ていくときに、戻ったら言うことがあると伝えたが、覚えているか?」
「え……あ、は、はい……」
腕を掴まれたまま、静かに言うナルサスの表情を見ることができずに、ミトは頬を染めて俯いた。軍を離れたあの日、彼にそう言われて、やっぱり離れたくないと決意が揺らぎかけたのを思い出す。
今、聞けなかったその言葉が聞けるのだろうか。ミトの胸が、高鳴りはじめて落ち着かない。期待と不安で、一瞬一瞬が痛いほど長く感じた。
「おぬしも何か言いたそうなことがあったと思うが」
「……あ、まあ、そうですけど、私は……」
確かに、また彼に会えたら、気持ちを伝えようと思っていたけれど。急に言われても心の準備ができていない。どうしようかと焦っていると、緊張した肩に彼の手が触れる。
「急ぐことでなければ、先に俺に言わせてくれぬか?」
「は……はい」
薄紫の瞳に射抜かれたようになり、ミトは力が抜けた。
とろけそうになっている頭を必死で回転させて、彼の言葉を待とうしていると、突然、荒々しく石畳を叩く足音が聞こえて、ミトは硬直した。
「え、何……?」
それはミトたちのすぐ傍から沸き起こった。
どうやら身を潜めていたようで、路地裏から数人の男が現れて、ミトたちを取り囲んだ。
「お前だな。我らが海賊団を壊滅させてくれたのは」
王太子府を出てから後をつけてきていたのだろうか。いかにも悪役といった表情を浮かべる男たちは、憎しみを込めた目でナルサスを見ていた。
これまで平原での合戦ばかりで、こんな陰湿な場面に出くわしたことのなかったミトは、顔をしかめる。なにより、彼とふたりでいた時間を邪魔されたことに少しだけ腹が立っていた。
「ナルサス、誰ですか?」
「さて、思い当たるふしはいくつかあるが」
ミトのいない間に、ナルサスたちはギランの人々に王太子への協力を約束させるため、海賊に襲われていた船を救ったと聞いていたが、その時にやられた一団の者が復讐しに来たのだろうか。
細い剣しか持ち合わせていなかったが、これまで戦った強者たちを思い浮かべると、彼らはとるに足らない敵のようだった。
助けを呼ぶまでもない、ナルサスが出るまでもない、自分で倒してしまおう、と思ったミトが進み出る。
「退治してもいいですか?ナルサス」
「……いや、下がれミト」
「え?」
剣を抜こうとすると、なぜか低い声でナルサスに止められてしまって、ミトは首を傾げた。
ミトには加護の力があるし、こんなつまらない敵にはかすり傷ひとつ負わされないはずなのに。
緊張感を失ってしまったミトは、剣を抜きかけたまま彼を振り返った。ナルサスは深刻な表情でミトと海賊たちを交互に見ていた。
「大丈夫ですよ。こんな弱そうな人たち……」
「駄目だ!ミトを俺の盾には……!!」
突然、身体が衝撃を受けてよろめいた。ざくり、と音がしたような気がする。
一瞬が気の遠くなるような鈍さになって、そのあと、じんと身体が痺れるような感覚に襲われた。
これは、痛みだ、と感じたときにはもう、ナルサスが海賊の男をひとり斬り伏せていた。
そうしてようやく理解する。
ミトはその男に脇腹のあたりを剣で刺されていた。見ると、服にじわりと赤いものが滲んでいる。指先が震えだして、剣を取り落とした。
血相を変えたナルサスが、ミトの名を呼んでいるのが、耳にかすかに届く。
「……あ、あれ?どうして……?」
いままで感じたことのない痛みや恐怖が一斉に襲ってきて、頭が割れそうになった。
どうして斬られた?自分はこの世界ではこんな連中に斬られることはないはずでは?どうしてナルサスは私を止めた?どうして、どうして、と考えているうちに、目の前がまっしろになり、意識が飛んだ。
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