広い屋敷の中でも一際豪華な広間へと降りると、いつもの面々がほとんど揃っていた。
まだ集まっていないのは、アルフリード、ダリューン、ナルサスだけだ。

ギーヴに聞いたとおり、アルスラーンは、エクバターナを脱出して帰還したアンドラゴラス王から追放されてしまった。結局彼に付き従ってここに居るのは、ペシャワールに到着する以前から共にいた仲間たちだけだった。キシュワードなどまっとうな軍人はペシャワールに残り、王への忠誠を示さねばならなかったわけだが、少なくなってしまった同志を見て寂しい思いになる。
王都奪還、打倒ルシタニアという同じ目標がありながら、「地上に国王はただ一人」であり兵権も当然すべてが王に帰するので、アンドラゴラスもアルスラーンも別々のやり方でしかそこを目指すしかなかった。
まったく王や王家といった見えない束縛は複雑なものだな、とミトがまだ少年の風貌をした王太子をみつめなおしたとき、玄関の方がにわかに騒がしくなった。

瞬間、どきりと心臓が跳ね上がり、一気に緊張してしまった。
なぜなら、ずっと会いたいと思っていた人の声が聞こえたからだ。もうすぐ会える、と思ったら、痛いくらいにぎゅっと手を握りしめてしまう。異常なくらい、自分の鼓動が聞こえた。


ダリューンと彼が出先から戻ってきたようで、エラムが彼らを迎えにいっていた。
心臓の音が耳元でどきどきとうるさくて仕方なかった。どうしてこんなに緊張しているのか自分でも可笑しくなるくらいに、身体が反応していた。

「ただいま戻りました、殿下」

広間の扉が開いて、鎧を脱いで涼しげな恰好をしたダリューンが姿を現した。
それに続いて、穏やかな声とともに、明るい色をした髪が目に飛び込む。

「戻って早々ですが後ほど殿下にお話が……」

そう言うナルサスは、礼を解き目線を上げると、言葉を止めた。

視線がかち合い、ミトの心臓もびくりとしてほとんど動きを止めてしまったかのようだった。ずっと会いたかった人の顔を、数ヶ月ぶりに見た。自分はどんな表情をしていればいいかわからなかったが、ただ、一生懸命に彼をみつめる。
彼の方もミトが戻ってきたことを聞いていなかったようで、驚いたようにミトを見ていた。
二人の間の時間がなかなか動き出そうとしないので、見兼ねたダリューンが「おいナルサス……」と言いかけたとき、ナルサスはやにわに歩き出した。
彼はつかつかと無表情でまっすぐにミトの方へ近付いてきて、ミトは心拍数が一気に上昇するなか、あえぐようにやっと「あの、ナルサス……」と口にできたと思ったら、視界が遮られた。背中にまわった彼の腕で、ぐっと胸へ押し込められる。
言葉もなく、ただただぎゅっと音が鳴りそうなくらいに抱き締められて、ミトはわけもわからずその腕の中で自分の骨が少し軋むのを感じていた。
「会いたかった……」と、耳元で彼の囁くような声が聞こえたとき、ミトの身体中の血がぶわっと沸き立ったように顔まで真っ赤になってしまった。

「あ、ナルサス、私も会いたかったです……!」

感情の昂ぶりが涙になって瞳を潤し始めている。やっと、会えた。結局のところ、彼やこの世界と真摯に向き合うためにひとり離れて旅をしていたのだから、ようやくその旅の一つの終着点に辿り着いたような気がした。
ただ、「自分は何者なのか」という問いへの答えはついにみつけられなかったけれど、ここへ戻ってこられたことの喜びに、今は浸らせてほしいと願う。
しかし今この場で、というわけにもいかない気もしていた。広間の真ん中で、他の仲間たちも眺めているなかで、いつまでもこの体勢でいるのはどうにも気恥ずかしかった。

「あの、ナルサス、そろそろ……みんなも見てるし……」

あいかわらずぎゅうっと力を込め続ける彼に囁くと、彼は少しだけ身体を離して「それがどうした?」と不敵な微笑みを見せた。

「おぬしはひどいな?ミト。俺がどれだけおぬしのことを心配して待っていたか……」
「おや、軍師どのは今日も朝帰りだったと存じますが」

そこへ唐突に割って入る声があった。
言葉の意図がわからずその方を見ると、ギーヴが口笛でも吹きそうな軽々しさで「俺が教えた妓館はいかがでした?」とナルサスに訊いた。
そばにいたダリューンの表情がひきつったのが見えた。「……ギーヴ、妓館って何?」とミトも貼り付けた笑顔で尋ねると「遊女と戯れる場所です」とさらりとした答えが返ってきた。

あれ、なんだろうこの気持ちは。
ずっと会いたくて仕方がなかったのに、彼の手が触れている自分の肩が少し震え始めた。胸がぐっと詰まって、ナルサスの顔を見ることができず、俯くと、さっきとは違った種類の涙が目に溜まって、ついにぼろりと零れ落ちた。

「そ、そんな、他の女の人となんて……」

ぽろぽろと溢れてくる涙が止まらなくなって、震える声をあげると、周りにいた仲間たちが一斉にぎょっとしたのがわかった。
たぶんギーヴもちょっとからかうだけのつもりだったのだと思うが、ミトの反応に慌てて「ああ、いや、ナルサス卿は俺ほど遊びまわっているわけではないと思うが」と変なフォローをいれて、さらにファランギースにじろりと睨まれていた。

「ミト、わ、訳を説明するから来い」

珍しく焦った様子のナルサスになかば強引に手を掴まれて、涙の跡をぽたぽたと垂らしながら広間を早足で出て行くと、適当な部屋に入ってされるがままミトは椅子に座らされた。
はちきれそうになっていた期待が別の感情で破裂してしまって、本当に涙が止まらなかった。「久しぶりに会えたのに最悪ですねごめんなさい……」と自分に対して呟くと、ナルサスは跪いてミトを見上げ「すまぬ」と零した。

「妓館というのはギーヴの言ったとおりの場所だがな、別に女性を買うだけのところではない。ああいうところは情報が集まりやすいのだ。俺は何をしていたわけでもなく情報収集をしていただけだ」
「でもよく朝帰りしていたんでしょう」
「だが誓っておぬしが考えているようなことは何もしていない」
「……はい……」

なだめられているうちに涙はもう出てこなくなっていた。自分にナルサスを拘束する資格なんてなかったのに、どうしてこんなに泣いたりしてしまったんだろう、と少し冷静になったのだ。
急に言われてショックを受けただけ。会えないうちに勝手に自分の中で大きくなりすぎた想いの行き場がなくて、どうしたらいいかもわからないほどになっていただけだ、と俯く。

「不快な思いをさせてすまない。せっかく久々におぬしの顔を見るのに泣いた顔とは、俺の行いを悔いるよ」
「ごめんなさい。もう大丈夫です、それに会えて嬉しいのは本当なんです……」

そう言ってやっと顔をあげると、ナルサスの優しい表情が目に入って、胸がぎゅっと苦しくなった。この人のためにここへ戻ってきたんだ、そしてまた会えた、という実感に襲われて、心が逸る。
そうだ。戻ってまた彼に会ったら、言おうと思っていたことがあった。そう考えたらもう「ナルサス」と彼の名前が口をついて出ていた。

「ずっと会いたかったです。私、ナルサスのことが……」

言いかけたとき、彼は素早くミトの手を握って指を絡ませた。驚いているうちに、彼の身体が近付いて、またミトの背に腕がまわっていた。

「今はそれ以上言うな、ミト」

ナルサスの唇がほとんどミトの額に触れていた。
こんなに傍にいて、触れているのに、けれど自分の言葉を遮られてミトはまた少し胸を衝かれたような感じがした。

「……何かわかったことはあったか?おぬしのことで」
「いえ。それが、少しもわからなくて」

正直なところミトの旅での成果といえば、アルフリードの兄をここへ連れてこられたこと、イリーナ姫をヒルメスに会わせることができたこと、王都の状況を知ることができたこと、くらいしかなかった。
あとは自分に纏わる不思議な力――助けた人の過去へ行ってしまうといったような力があることがわかって、さらに自分のことがよくわからなくなった。
それから、ダイラムを訪れたときに「ナルサスが十年前にミトと似た人物を探していた」とかいったことを聞いたのを思い出す。それがまた、全然真相がわからなくてミトの不安を煽ったのだけど。

「ねえ、ナルサス」
「何だ」
「私、ナルサスに出会う前に、あなたと会っていたことがあるんでしょうか?」

目を合わせられずに、可笑しな質問だなと自分でも思いつつ訊いたが、彼は何も答えなかった。ただミトの不安も包み込むように、先ほどよりも深く寄り添う。

「ごめんなさい、なんにも確証がないのに、わ、私、結局自分がなんなのか、わからなくて」
「知らずともよいではないか。ミトのことは、おぬしがこの世界にいる間は、俺が死ぬまで守るよ」

久しぶりに触れる彼の優しさに、思わず手のひらまで熱くなる。けれど、どうしてこんなに、と考えずにはいられなかった。彼はほとんど最初から、ミトのことを、救ってくれていた。

「どうしてナルサスは、そんなにわたしのことを……?」
「俺はミトのことが本当に大事なのだ。それだけはおぬしに覚えておいてほしい」

彼の答えは答えになっていなかった。もう一度ミトが口を開こうとしたとき、部屋の扉を遠慮がちに叩く音が聞こえて、黙り込んだ。

「おーい。気が済んだか、ナルサス」

扉の向こうからダリューンの声がした。どうやらミトたちを迎えに来たらしい。
ナルサスは憮然とした面持ちで顔を上げると、扉越しに「済むものか。三ヶ月も離れていたのだぞ」と非難の声をあげた。

「わかったわかった。だが一旦状況を整理したいし、殿下もミトたちの話を聞かせてほしいと言っているから、そのあとにしてくれ」

もともとは、これまでの情報交換と、ミトたちの旅の話をするために広間に集まっていたのだから、それを再開しようというのだ。「殿下が」と言われてしまえばナルサスも了承せざるを得ないようで、ミトから身体を離した。

「……ということだ。続きはあとで話そう、ミト。もうどこにも行ってくれるなよ」

そう言ってふたたび手を握られて、ミトは赤くなってしまった顔を伏せた。

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