ギランの街は、昇ったばかりの太陽に照らされ、ミトの目に白く輝いて見えた。
広大な海に沿って港が賑わい、見たこともない商品を並べた店や異国の言葉が飛び交う。
パルス国内ではエクバターナに継ぐ大きな街だった。しかしルシタニアに攻めこまれた王都からは遠く、戦争の雰囲気はほとんどない。家々は亜熱帯の花で飾られ、平和な空気が流れていた。
ギーヴらに連れられて、ミトは白い豪華な邸宅の前に立った。
この街の総督府だったこの官邸を、今は王太子一行の本拠地として使っているそうだ。広大な敷地の中には、人魚をかたどった大理石の噴水や、さまざまな彫刻があり、涼しげな池まで付いていた。
「なんかずいぶん贅沢な余暇を楽しんでいたみたいね……」
「ん?何か言ったか?」
あまりの開放感にミトが思わずじとっとギーヴを見る。この街でもミトのいない間にいくつか面倒な事件が起こっていたらしいが、それを解決したあとはダリューンですら「平和だな」とぼうっとするくらいだったと聞いた。
「いずれ嵐になるのじゃ。少しは休息しても罰は当たるまい?」
ファランギースが予言めいた言葉を発するのを、ミトも怠け始めた頭の隅に留めておこうと思った。
***
天上が高く、部屋がいくつもあるこの建物は、うっかりするとすぐに迷ってしまいそうだった。
とりあえず荷物を置いて、湯浴みをして、着替えたい、とファランギースに相談していると、人の声が聞こえたのか、少年が奥から顔を出した。
「みなさま、おはようございま……」
「あ、エラム!」
「え……え、ミトさま!?」
少年はミトをみつけるなり目を見開いて、慌てて駆け寄ってきた。すぐに頬が上気して、何かをこらえるようにぎゅうっと唇を引き結んでいる。
「お、おかえりなさいませ!ミトさまがご無事で戻られて何よりです……」
「エラムも、元気そうでよかった」
「は、はいっ」
彼は嬉しそうに返事をしたが、緊張したように視線を泳がせていた。するとファランギースが「ちょうどいい、エラム。ミトにどこか部屋を充ててやってくれぬか」と声をかける。
「我らも話したいことはいろいろあるが、長旅で疲れているだろうからまずは休ませてやろう」
彼女からの気遣いの言葉をありがたく受け取って、ミトはエラムに向き直ると「じゃあさっそくだけどお願い」と荷物を持ち上げた。
「で、では、お部屋へご案内いたします」
その荷物をエラムが急いで引き取り、ふたりは廊下の奥へと進んでいった。
「あ〜ありゃもうダメだね。興奮しすぎ」
ギーヴが頭の後ろで手を組んで、にやにやしながら零す。それを見てメルレインは無愛想な表情をより一層むっとさせた。
「今のは?」
「ん、あれはさるお方の侍童だが、どうもミトに熱を上げているようで」
さらりと答えたギーヴの言葉を無視して、ファランギースが「アルフリードを探しに行くか」とメルレインに声をかける。
朝になったばかりの邸宅は、もともといる人の数も多くなく、しんと静かに佇んでいた。
***
「ミトさま。本当にどこもお変わりありませんか?お怪我はありませんか?」
ミトの荷物を持ったエラムは、ミトのほぼ真横を歩いてあれこれと不在の間のことについて質問していた。
「大丈夫だよ、怪我もないし」と返すが彼は「私の前でだけは何も隠さなくていいんですからね」とまるで保護者のような顔をする。彼の方が年下なのになあとミトは苦笑するが、こういう雰囲気が懐かしくて心地よかった。
エラムに案内された部屋の窓からは、海が一望できた。きらきらと光を反射し、まぶしく輝いている。
「わ、すごい綺麗!エラム、こんなお部屋用意してくれてありがとう。荷物はそのへんに置いておいて……」
ミトはそれを眺めてしばしはしゃいでいたが、振り返った先にやけにぼうっとしたエラムがいたので、口をつぐんだ。
「エラム、どうかした?」
「い、いえ。喜んでいただけてよかったと思って……」
開け放った窓からは潮の香りが舞い込んでくる。また随分遠くにきてしまったな、と思わされた。
「うん、ありがとう。ところでエラムは私のいない間どうだった?変わったことはなかった?」
身体をエラムの方に向けて小首を傾げると、彼はまた少し頬を上気させて、ミトから視線を逸らした。
「はい。……何も変わりありませんでした。ミトさまがいないのを除いては」
「あ……」
「本当に毎日ずっと待っていましたので、また会えたなんて夢のようです」
顔を上げたエラムに照れたように微笑まれて、ミトは思わずドキリとする。
すると、不意にエラムが動いた。何か言う間もなく、彼はミトの右手を掴んだ。昂ぶる気持ちが抑えきれないようで、口角がやや上がっていた。
「エラム……?」
「ミトさま。あ、あなたに触れるのをお許しいただけないでしょうか。あなたのことを、ずっと待っていたんですから」
「ん……ん?」
エラムの様子に引き摺られるように、ミトも次第に自分の体温があがっていくのを自覚した。
そういえば、パルス軍から離れるときに、エラムに「俺の心はあなたのものです」だなんて囁かれたけれど、これはその続きということかしら、と回転の鈍くなった頭で考える。
「これ以上俺に我慢させるのは、酷いですよ、ミトさま」
不敵な微笑みとともにぎゅっと手を握りしめられ、ミトはびくりと身体を震わせた。あれ、エラムってこんな顔する子だったっけ、と今更ながら危機感のようなものが芽生えてくる。
「ゆ、ゆるすなんて……もともと禁止しているわけじゃないし……」
「ではよいのですね」
「ま、待って……!」
「もう待ちました」
戸惑っているうちに、手をひかれ、気付くとエラムの腕の中におさまっていた。
並ぶと少し背が高いだけの彼は、ミトの肩に顔をうずめる。ぎゅう、とすがるように抱き締められ、どうしていたらいいかわからず、ミトはただ顔を赤くするだけだった。
年下の可愛い男の子で、ミトのことをよく慕ってくれていて、とか思っていたのが、こんな頭の追いつかない事態になるなんて。
「ミトさまっ……も、申し訳ありません」
彼はミトにぎゅっとしがみついたまま謝るが、言葉と行動が一致していなかった。さっきよりも深く深く抱かれて、ちら、と見た彼の横顔も真っ赤だったので、ミトの心臓が耐え切れないほど跳ね上がる。
「あ、あなたの顔を見たらもう我慢できなくなりました。俺は……ミトさまのことが……」
「おい、俺のミトに何してる」
「!?」
その時あまりにも唐突に第三者の声が飛び込んできたので、ミトは驚いて思わずエラムにぎゅっとしがみついてしまった。
それでとろけそうに顔を緩ませたエラムと目が合って、ミトはぱくぱくと何も言えず口を動かす。いや、それよりも。
「だ、誰ですかあなたは」
エラムが「ミトさまは渡さない」といった調子でミトを腕の中に隠す。声のした方を見ると、そこにいるのはメルレインだった。
「の、覗き見……」
「扉が全開だったからな」
メルレインは不機嫌そうに眉を寄せて、こちらをやや睨んでいた。エラムとメルレインの間で視線がぶつかり、ばちばちと音がしているような気がして、ミトは気が遠くなりそうになった。
この状況、どうしたらいいだろうか……とエラムの腕の中で大人しくしながら考えていると、また扉の向こうから足音と呼び声が聞こえた。
「ミト、帰ってきたのだな!」
この屈託のない朗らかな声は、アルスラーンのものだった。
さすがにエラムも王太子の前でミトとくっついているわけにもいかず、ぱっと手を離す。
扉からひょい、と顔を出したアルスラーンは、ミトの顔を見ると嬉しそうに微笑んだ。
「長旅ご苦労だった。ぜひ、おぬしの旅の話を聞かせてくれぬか」
「はい、殿下。不在にして申し訳ありませんでした。旅の話はたくさんありますから、ゆっくりお話しましょう」
「うむ。それから……おぬしだろうか、アルフリードの兄上というのは」
「……な、アルフリードの兄上ですって!?」
そう叫んだのはエラムだった。驚いたように、先ほど邪魔に入ったメルレインを見ている。
「ええ。俺はゾット族のメルレインと申します。妹のアルフリードを探していましたが、王太子殿下に仕えていると聞いてここまで参りました」
無愛想な表情を少しだけほどいて、メルレインは礼をする。「うむ、おぬしはミトと共に旅をしていたと聞いた。おぬしの話もあとで聞かせてくれぬか」とアルスラーンがにこやかに声をかけると、エラムは「ミトさまと旅を……」と呟いて絶句していた。
「ではさっそくですまぬが、下へ一緒に来てくれるか?皆も待っておる」
わざわざ彼自ら呼びに来てくれたのだろうか、と恐縮する一方で、ミトの頭の中で「皆」というアルスラーンの声が鐘のように響いた。
皆って、まさか、彼もいるんだろうか。
そう思うと、心臓が潰れそうなくらいに圧迫される。エラムのせいで死にそうなくらいどきどきさせられていたけれど、それ以上に苦しくて仕方なくなってしまう。
会ってどんな顔したらいいんだろう。なんて言えばいいんだろう。伝えたいこと、聞きたいことがありすぎて気持ちが整理しきれない。
彼に会うのが不安ですらあった。どうしようもなく恋い慕っていると自覚する。離れてから勝手に自分の中で膨れ上がった心が、溢れ出そうになっていた。
2/10