「……はっ」
水中から顔を出したときのような感覚だった。
自然に肺に空気が入り、ミトは目を瞬かせた。
先ほどまでエクバターナの外の街道にいたのが、なぜか過去のマルヤム国の砦に身体と意識が飛んだ。
そしてまた、ミトは見知らぬ場所にいた。
南向きの窓から明るい日差しがさしこみ、浮き上がる埃が目の前を雪のように舞っていた。
身体を起こそうとしたとき、両手が背中で縛り上げられていることがわかった。誰になのかはわからないが、どうやら捕われているらしい。
広い部屋だが、家具などはなにも置かれていなかった。人の話す声や足音も聞こえるが、この部屋の近くではないようだ。壁紙はパルス風の模様であしらわれていて、扉もパルス風のものだった。
「今度は、パルス……?」
ミトは部屋を見渡しながら眉を寄せた。
すると、扉の向こうが急に慌ただしくなり、足音がいくつもこちらへ向かってきた。
身を隠す間もなく、扉が開け放たれると、武装した兵士が数人中へ入ってくる。
「……いや、ルシタニアだったか……」
兵装を見てミトはやや絶望した。
恐らく、ここは、エクバターナ郊外でルシタニア兵に襲われた時間軸と同じなのだろう。戻ってきた、という表現が正しいか。
ミトがイリーナの過去に飛んでいる間、気を失っていて、ここへ運ばれたのだろう。
兵士たちが扉の両脇に並ぶと、眉間にしわを寄せた精悍な顔立ちの男がゆっくりと現れた。
その男は鎧を身に付けず、衣服も立派なものだったので、ルシタニアの貴族か、へたをすると王族かもしれない、と思いミトは唇を噛む。また厄介なことに巻き込まれかけているのでは。
しかし、何にも動じる気配のないその男が、ミトの顔を見た瞬間、なぜか狼狽したのだ。
「……おぬしは、誰だ?」
「……え?」
ミトが考えていた状況では、この男は「貴様もマルヤム人の一団のひとりか」とかそういうことを口にするはずだった。いや、きっとこの男もそう言おうとしていたに違いない。
しかし投げかけたのは奇妙な問いかけだった。
「誰だ」と訊いているものの、まるでこれではミトのことを知っているようではないか。むしろ、「なぜお前がここにいる」というようにすら聞こえる。周りの兵士たちも首を傾げていた。
「王弟殿下、いかがいたしましたか」
「王弟……?」
兵士の声を聞いてミトは「この人が王弟ギスカールか」と悟った。なるほど、噂どおり油断ならない目付きをしているが、今はどういうわけか隙だらけだった。
しかし彼が王弟ならば、きっとここはエクバターナの王宮ということになるのだろう。
「……おぬしは何者だ?名は?」
ギスカールは表情を強張らせてミトに訊いた。
王弟ともあろう人が、敵の末端の者の名を訊くなんておかしなことだった。ミトは何も答えず、黙っていた。
「報告からすると、おぬしはパルス人で、マルヤムの者ではない。なぜ従者ではないおぬしが、マルヤム王女と共にいた」
「……!そうだ、イリーナさまはどこ!?」
ミトがぱっと顔をあげて叫ぶと、ギスカールは眉間にしわを寄せ、目に見えて煩わしげな表情をして「おぬしがそれを知る必要はない」と吐き捨てた。
「……半年ほど前、エクバターナでルシタニアの神旗が射抜かれるという前代未聞の事件があったが、知っているか?」
「……」
唐突に話がかわって、ミトはまた黙り込んだ。ギスカールの視線が突き刺さる。
「兵士たちがおぬしのことを覚えておったわ。あのとき処刑しそこなった小娘が、また戻ってくるとは、奇妙な縁であるな」
それはミトがちょうどこの世界にやってきた直後の出来事だった。
ミト自身も、またここにこんなかたちで戻ってくるとは思わなかったのだが。
「……マルヤムの人々はどうしたのですか?」
ふと、たった一人で部屋に転がされていたことに疑問を覚え、ミトはギスカールに訊いた。
「さて。半分ほど死んだのではないか」
「……」
ミトは、一瞬言葉につまった。守りきれなかった人々のことを考えて思わず目を伏せるが、いまだ行方のわからないメルレインのことは口に出さなかった。彼が簡単に殺されるとは思えないが、ここで尋ねるのは得策ではない。
「エクバターナの外をあれだけの人に監視させていたのは、アルスラーン王子の軍が近くまで来ているからですか?」
そう訊くと、ギスカールはやや視線を外して、「まあ、そういうことでもある」と答えた。
やっぱり、とミトはやや希望を持った。
彼らがここへ向かっている。ならば、自分はへたに脱出しようとせずに、ここに残っていた方がいいだろうか?王都の内外で連絡がとれれば、の話ではあるが、戦略的価値はあるのではないか。
そんなことを考えていたのが見ぬかれたのか、ギスカールは歪んだ表情でミトを見下ろした。
「いや、実は東方でトゥラーンが国境を越えて侵入してきたそうでな。パルス軍はそれを討つため全軍が引き返したようだ」
「え……?じゃあせっかくここまで進んできたのに、また東へ戻ったってことですか?」
「うむ。とはいえトゥラーンを放っておいたら背後から刺される可能性がある。せいぜい疲弊してくれれば俺はそれでよいがな」
ミトは肩を落とした。せっかくナルサスたちに会えると思ったのに、また遠のいてしまった。
自分はひとり虜囚の身となって、敵陣のなかにいる。この状況、一体どうすればいいだろうか。
「ところで、エクバターナの外でおぬしらを捕らえたときのことだが。兵たちがおぬしのことがどうしても斬れぬと言って大変に怖れていた」
「……!」
ギスカールの声が暗く沈んだような心地がした。ミトは顔を上げることができず、沈黙するしかない。この身体が纏う不思議な力を敵に知られては何かとまずい。
「もう一度訊くが、おぬし、何者だ?」
「……」
「……まあよい。話はあとで聞く」
「ま、待って!イリーナさまは……!」
絹服を翻し、扉から出ていったギスカールは「俺はこの国で一番多忙なのだ」とだけ言って消えていった。
彼のあとに他の兵士も続き、ミトはひとりで部屋に残された。
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